5:沈む光、抗う闇(1)
小雨が降り始めた午後。
湿った空気が、街全体を静かに沈めている。
石畳を叩く水音が、何かを知らせるかのように、静かに響いていた。
「ついてねぇな……」
雨に打たれながら、宿への帰路を急ぐ。
街外れまで買い出しに出たが、途中から小雨は本降りに変わった。
両手に抱えた紙袋はすっかり湿り、食材も雨に晒されている。
できるだけ早く帰りたい。
けれど、宿まではまだ距離がある。
大通りを外れ、近道の細道へ足を向けた。
――そのときだった。
「ん?」
前方を塞ぐように、横道から数人の影が現れた。
フードを深く被り、顔は見えない。
背丈も性別もバラバラで、正体は知れない。
不穏な気配を感じ、咄嗟に引き返す。
だが、背後の大通りからも同じような集団が入り込んできた。
「……マジかよ」
路地を挟むようにして、完全に囲まれていた。
目だけで逃げ道を探すが、どこにも抜け道はない。
手にしていた荷物を落とす。
軽い傾斜を滑るように、林檎が転がっていく。
転がった林檎が、集団の一人の足元で止まる。
わずかな間を置いて――ぐしゃり。
その音に、雨が遠のいたような錯覚を覚えた。
飛び散った果肉が、やけに生々しく映る。
フードの連中が、じりじりと距離を詰めてくる。
武器はない。
かえって危険に晒される――シグにそう警告されたことがあった。
実際、そうなのだろう。
俺になにができる。
「……ほんと、ついてねぇ日だな」
頼れる仲間たちは、ここにはいない。
平たく言えば、完全に詰んでいた。
両手を上げ、フードの連中に聞こえるように声を出す。
「――降参だ。殺さないでくれるなら、払えるものは払う」
沈黙。
返答はない。
仲間内で小声を交わしている。
静寂の中、胃がキリキリと痛む。
やがて、一人が歩み寄ってきた。
鼻と首元まで覆うマスクをした獣人の男だった。
フードの奥で光る瞳が、こちらを鋭く見つめる。
男は腰の剣をわずかに抜き、低く告げた。
「ついてこい。抵抗したり、声を上げたら――すぐに、殺す」
冷たい鉄の輝きに、背筋が凍る。
強張った体で、ゆっくりと頷いた。
「わかった。言う通りにする」
「……それでいい」
男は剣を鞘に戻し、背を向けて歩き出す。
言われた通り、その背についていく。
俺を囲うように、フードの集団もまた、先頭の男について歩き出した。
会話もなく、ただ歩くだけの時間が続く。
路地を抜け、大通りを進む。
南門の前に差しかかったとき、ふと違和感を覚えた。
――いつもなら衛兵がいるはずの場所に、人影がない。
不運に舌打ちをしたくなるが、この状況では黙っているしかない。
雨は止みかけていたが、空気は湿って重いままだった。
そのまま、外へ。
そして――森へ入る。
瘴気熊が現れた、あの森だ。
無言のまま、森の奥へと進む。
歩を進めるたびに、帰れる確率が目に見えないほど削られていく気がした。
先行きの暗さに、唇を噛む。
探索でさえ滅多に踏み入らないほどの奥地に差しかかる。
歩き始めて、もう何時間経っただろう。
空はすっかり暗くなり、周囲は夜の闇に沈んでいる。
ランタンのかすかな明かりだけが、道を照らしていた。
それでも、彼らは迷いなく進んでいく。
足音と雨音だけが、世界のすべてだった。
手慣れすぎている。
まるで、今日のために段取りを組んでいたかのようだ。
誘拐か、奴隷売買か。
すぐに殺されることはなさそうだが、それも確信ではない。
呼吸が浅くなるのを感じる。
極度の緊張で、体が震える。
意識して、深く息を吐く。
まだ平静を保てているのは、頼りになる仲間の存在があるからだ。
だが――
馬車と合流でもしたら、完全に詰む。
誰も、俺の居場所なんてわからなくなる。
「……はぁ……はぁ……っ!」
刻一刻と悪化していく状況に、自然と最悪を想像してしまう。
荒くなった呼吸に、先頭の男が首だけでこちらを振り向く。
その目線に、息が止まった。
男は、静かに正面を向き直した。
息を整える。
思考を振り払う。
ニルファたちが俺の不在に気づくのは、いつになるだろう。
いつも俺は、日が落ちる前には帰っている。
今日も、そのつもりだった。
例外は、討伐依頼に出向いたときか、仲間が一緒のときくらい。
ニルファとシグは朝から剣術の修行にギルドの訓練場へ行っていた。
ルーンは教会の手伝いに行くと言っていた。
買い出しに行くことは、朝食を食べる際に、皆に伝えている。
希望は、あるのだろうか。
頭上を見上げる。
空は、木々の枝葉に覆われて見えない。
冒険者になって三年。
ニルファと共に歩むことを決めたとき、死ぬ可能性だって考えた。
それでも――
この状況に、体の震えを止めることはできなかった。
足元のぬかるみを避けながら、もつれる足を運ぶ。
やがて、前方に灯りが見えた。
洞窟だ。
入り口に篝火が焚かれている。
そのまま中へ。
入り組んだ通路を右へ左へと曲がりながら、さらに奥へ進む。
やがて――鉄格子の牢屋が現れた。
広い空間に、ぽつんとひとつだけ設けられた監禁スペース。
男が無言で鍵を取り出し、重い音を立てて扉を開ける。
「入れ」
「……わかった」
逆らわずに中へ入る。
ガシャリ、と鉄扉が閉まる音が響いた。
「これから、どうすればいい?」
男に問いかける。
「そこにいるだけでいい」
「は?」
予想外の返答に、思考が止まる。
「……悪いが、静かに待っていてくれ」
「待つ?……お、おいっ!どこに――」
問いかける間もなく、男たちは通路の奥へと消えていった。
残されたのは、俺一人だけ。
「意味、わかんねぇ」
拘束もされず、見張りもいない。
ただ、閉じ込められただけだった。
その場に、ゆっくりと腰を下ろす。
冷たい床が、服越しにじわじわと体温を奪っていく。
静寂の中で自分の呼吸だけがやけに大きく響く。
孤独がじわじわと心を締め付ける。
遠くで、水滴が落ちる音がした。
時間だけが、無情に過ぎていった。
ランタンの明かりが、ぼんやりと俺を照らしている。
秋の夜が、体も心も凍てつかせるようだった。
「……上着、着ときゃ良かったな」
誰に聞かせるでもない独り言を吐き、膝を抱える。
冷えた空気が、思考を鈍らせていく。
「俺、死ぬのか」
呟きと共に、脳裏に過去の記憶がよぎる。
思い返すのは、ニルファの笑顔ばかりだった。
「ははっ」
ニルファと過ごした時間は、眩しいほどに輝いていた。
それこそ、日本で過ごした記憶が思い出せないほどに。
自然と、体の震えは止まった。
覚悟が、ようやく体に追いついた気分だった。
三年前を思い出す。
ニルファとの出会いの果てがこの牢屋で終わるなら、それも悪くない。
本気で、そう思えた。
……ただ、ひとつ。
心残りがあるとすれば――
ニルファの笑顔が、ふっと浮かぶ。
太陽みたいに明るいくせに、心は硝子みたいに脆い。
あの泣き顔を、もう二度と見たくない。
俺の代わりに支えてくれるやつがいれば、それでいい。
ルーンとシグなら、きっと大丈夫だ。
「ニルファを、任せられる」
あいつらなら、きっと大丈夫だ。
俺みたいな足手まといとパーティを組んでくれる、いいやつらだから。
服に染みた雨が、ようやく体温で馴染んできた。
冷えてこわばっていた筋肉が、ゆっくりと緩んでいく。
「疲れたな……」
瞼が重い。
音も、光も、遠ざかっていく。
「ニルファ」
ごめんな。
届くはずもない言葉を、ぽつりと呟く。
暗闇が、すべてを包み込んだ。




