4:孤児院の聖女
束の間の休みを楽しむ中、俺は珍しくルーンと行動を共にしていた。
空気は温かく、草の匂いが鼻をくすぐる。
街の喧騒が遠のくほどに、靴音だけが大きく響いているように感じた。
「孤児院ってのは、ずいぶん街外れにあるんだな」
隣を歩くルーンに話しかける。
「明後日からまた討伐依頼だろ? せっかくの休みなのに、いいのか?」
「だからこそよ。依頼が始まったら、しばらくは自由に動けないもの」
そう言いながら、ルーンは道端に咲いた花を摘み、ポーチへとそっとしまっていく。
まるで宝石でも扱うように、ひとつひとつ丁寧に。
「子供好きなのは知ってたが……まさか、ボランティアまでしてたとはな」
「他の街でも、私が孤児院に通ってるの、見てたでしょう?」
「てっきりシスターとしての仕事でやってるのかと。無給だとは思わなかった」
「お金なんて貰うはずないじゃない」
「普通は貰うんだよ」
この世界で、赤の他人に無償で手を差し伸べられる人間は、そうそういない。
少なくとも、俺はルーン以外にそんなやつを見たことがなかった。
「人は、損得勘定だけで生きてるわけじゃないわ」
「……まあ、それはそうだが」
極論にも思えるその言葉に、なぜか否定する気にはなれなかった。
気づけば、ルーンのポーチは花でいっぱいになっている。
「これだけあれば、十分ね」
ルーンがふっと微笑む。
「その花、何に使うんだ?」
「子供たちに配るのよ。『今日が良い日になりますように』って、おまじない」
子供のため、か。
日本にいた頃の記憶が、ふと脳裏をよぎる。
募金とかはしなかったが、近所の子供と話すくらいの付き合いはあった。
この世界に来てからは、そんな余裕もなかったが――。
ルーンに触発されたのか、少しだけ心が昔に戻ったような気がした。
「……」
気紛れに、道端の白い花をひとつ摘んだ。
ひとつ摘むと、もうひとつくらい……と手が伸びる。
気づけば、掌の中に小さな花束ができあがっていた。
「俺も、ポーチ持ってくりゃ良かったかな」
ぼそりと呟く。
顔をあげると、ルーンが口元に手を当て、クスクスと笑っていた。
「貴方だって同じじゃない」
「なにが」
「そんなことをしたって、お金なんて貰えないわよ?」
その指先を辿ると――俺の手の中、小さな花束があった。
「結局、貴方も同じなのよ」
ルーンは歩みを止めず、軽やかに前を行く。
俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「……なにやってんだ、俺は」
天を仰ぐ。
晴れた空が、俺たちを穏やかに照らしていた。
ルーンは、誰かが泣いていれば迷わず手を差し伸べる人間だ。
俺が切り捨ててきた『割に合わないもの』を、彼女は何よりも大切にしている。
自分の命と他人の命を天秤にかければ、迷わず自分を差し出すような――そんな人間だ。
「お前みたいには、慣れねぇよ」
もうひとつ花を摘み、束に加えた。
それだけで、今この瞬間だけは、少しだけルーンに近づけた気がした。
夕暮れが近づく頃。
孤児院での最後のお手伝いとして、俺はルーンと二人で皿洗いをしていた。
「子供の世話ってのは、難儀なもんだな」
「そう? みんな元気で良かったじゃない」
「まぁ、それはそうだが」
皿を一枚、また一枚と洗う。
桶の水が減ると、ルーンが「ムニン、お願いね」と声をかけた。
すると、水滴の精霊――ムニンが青く光り、桶の水を満たしていく。
「便利なもんだな」
「その分、魔力消費も多いし、上手くいかないこともあるけどね」
「というと?」
「必ずしも、望んだ結果が得られるわけじゃないのよ」
「そうは見えねぇけどな」
桶の上で嬉しそうに跳ねるムニンを見て、思わず笑ってしまう。
「あくまで、精霊の機嫌次第よ」
短く区切られた言葉に、自然と興味が湧く。
皿を洗いながら、俺は続きを促した。
「水を出してくれないこともあるってことか?」
「それもあるし、部屋中を水で埋め尽くされることもあるわ」
「……こえぇな」
冗談のように言いながらも、ムニンの姿を見るとどうしても笑えてしまう。
「消費する魔力も、その時々で全然違うのよ?」
「聞けば聞くほど不安定だな」
俺の呟きに、ルーンが柔らかく笑った。
「望んだ以上の結果が得られることもあるから、とんとんね」
「夢があるんだかないんだか」
俺には縁のない話だ。
この世界の人間は、誰しも多少の魔力をもって生まれる。
日本から来た俺には、それがない。
「俺にも魔力があったら、色々試せたんだがな」
「……魔力なしで活動できていること自体が、凄いことなのよ」
気を使ったような言葉に、苦笑がこぼれる。
「そうかもしれねぇけど、俺は魔力があった方がよかったね」
静寂。
しばらく、皿を洗う音だけが響いた。
そしてルーンがぽつりと言う。
「怖い話をしてあげるわ」
「怖い話?」
皿を洗う手を止めて、ルーンに目をやる。
「魔力が欲しくなくなるくらいのね」
「……へぇ」
破顔するルーンに、胸が温かくなる。
「聞かせてくれよ」
「消費する魔力は精霊の機嫌次第で変わる。その話はしたわよね」
「おう」
「じゃあ、限界以上に魔力を要求されたら、どうなると思う?」
頭を捻るが、皆目見当がつかない。
ルーンは小さく笑い、淡々と続けた。
「死ぬのよ」
「は?」
「魔力の代わりに、生命力を抜かれて――ゆっくりと、死んでいくの」
その一言に、背筋が凍りつく。
ムニンを見る。
夢のような力だと思っていたものが、急に得体のしれないものに思えてくる。
ぞっとして、思わず身震いした。
「……なんで、精霊術師になったんだ?」
これまで、ルーンやシグの過去を深く聞いたことはなかった。
聞く機会がなかったとも言えるが、思えば知らないことばかりだ。
「適性があったと言えばそれまでだけど。子供の頃、宣託を受けたのよ」
皿を洗う手を止めないルーンにならって、俺も動きを止めずに耳を傾けた。
「宣託?」
「その時の聖女様にね。『貴女は将来、世界を救う一助になる』って」
ルーンは照れたように笑う。
「私も子供だったのよ。その言葉だけで舞い上がっちゃうくらいにはね」
その笑顔に、胸にあった緊張がとける。
つられて、俺も吹き出してしまった。
「ルーンにも、そんな時期があったんだな」
「もちろんよ。誰にだって、子供の頃がある」
ルーンがちらりと窓の外を見る。
遠くから、孤児院の子供たちの笑い声が聞こえてきた。
「だからこそ。私を守ってくれた人たちのように、子供たちを守りたいの」
「……そうか。立派だな」
「でしょう? ……ふふっ。トネも、ニルのこと、しっかり守ってあげるのよ」
「俺なんて、いなくても大して変わらんだろ」
「そんなことないわ。それは、貴方が気づいていないだけ」
「そうかね?」
「そうよ」
ルーンが微笑む。
その笑みは優しく、どこか遠くを見ているようだった。
「ニルを守れるのは、この世でたった一人――貴方だけなんだから」
「……」
「いつの日か、それがわかる時がくるわ。……きっとね」
言葉の余韻が胸に残り、しばらく俺は何も言えなかった。
頭の中で、ニルファの笑顔や日々の出来事が次々と浮かぶ。
その時、ピチョンと桶から水がこぼれる音がした。
見ると、ムニンがくるりと回転し、水にちゃぽんと潜っている。
出たり入ったりを繰り返す姿が、不意に外の子供たちの笑い声と重なって見えた。
不安定な精霊と、孤児院の子供たち。
そして、ニルファの姿までもが重なって見える。
「精霊って、子供と同じなのかもな」
思わず呟く。
ルーンが少し驚いたようにこちらを見た。
「どうして、そう思ったの?」
水中で遊ぶムニンを見る。
頭に浮かんだのは、孤児院の子供たちと、ニルファの笑顔だった。
「純粋だなって思ったんだよ」
「純粋?」
「気分次第でコロコロ変わるのは、子供の特権だろ?」
にやりと笑って見せる。
「だから、お前だって、精霊術師になろうと思ったんじゃねぇか」
「……それは、今の私が純粋じゃないってことかしら?」
「そういう意味じゃ――って、お前……わかってて言ってるだろ」
ルーンは子供のような笑顔で笑っていた。
思わず、どきりとする。
誤魔化すように皿に視線を戻すと、ルーンが続けた。
「もし、貴方が精霊術師だったら……そう思ってしまうわ」
「俺が?」
「精霊は気まぐれだけど、誠実なの。
呼びかけて、応えてもらって、それにちゃんと感謝して……。
それを繰り返すうちに、少しずつ距離が縮まっていく」
ルーンが、ムニンを見つめながら言葉を続ける。
「貴方の言う通り、子供みたいな存在よ。
純粋な彼らには、言葉だけじゃなく、想いで伝える必要がある。
だから、精霊術師は『お願い』するの。力を貸してくださいって」
ムニンを見て、ルーンが微笑んだ。
「精霊はね、主人の命令じゃなくて、友達の頼みを聞くのよ」
「……友達の頼み、か」
「精霊に好かれるのは、彼らが力を貸したくなるような人よ。
ちょっと不器用でも、一歩ずつ相手に歩み寄ろうとする――」
ルーンは小さく息を吸い、静かに言葉を結んだ。
「貴方みたいな人」
ルーンの言葉が、ゆっくりと心に染み込んでいく。
ほんのりとした温かさが、じんわりと胸いっぱいに広がるのを感じた。
「なぁ、ルーン」
「なに?」
「お願いって、どうやるんだ?」
その問いに、ルーンは少し驚き、それから柔らかく笑った。
「難しい話じゃないわ。魔力を込めて、心からお願いするの。ただそれだけ」
「そんなんでいいのか?」
「本当に心から願えば、それで良いのよ」
朗らかに笑うルーンを見て、ふと思う。
ルーンが子供の頃に出会った“聖女様”は――きっと、今のルーンのような人だったのだろう。
俺も、精霊を召喚してみたいと、素直にそう思った。
童心に返ったような気持ちで、ルーンに笑いかける。
「俺が精霊を召喚したら、どんな奴が出ると思う?」
「貴方なら、お伽噺にある精霊王だって召喚できちゃうかもしれないわよ?」
二人して、笑い合った。
――もし、俺に魔力があったなら。
精霊と友達になれただろうか。
ニルファの力になれただろうか。
そんな叶わぬ想像を、そっと胸の奥にしまい込んだ。
孤児院からの帰り道。
俺たちの服はすっかり汚れていた。
子供たちがこぼしたジュース、泥まみれの手形、そして最後は水遊びに巻き込まれて。
濡れた服が肌に張り付き、少し気持ち悪い。
けれど、そんな中でもルーンは楽しそうだった。
普段は見せない、柔らかな笑みを浮かべている。
――俺も今、同じ顔をしているのかもしれない。
やがて別れ道に差しかかる。
混雑の関係で、俺たちは別々の宿を借りていた。
「今日はありがとう。おかげで、子供たちもすごく喜んでたわ」
「迷惑じゃなかったか?」
「またお願いしたいくらいよ」
互いに手を振り合い、ルーンは街灯の灯る道を歩いていく。
その背中を見送り、俺は反対の道へと足を向けた。
一人で歩いているのに、今日は不思議と寒くない。
服は濡れているのに、体の芯がほんのり温かい。
子供たちの笑顔が、胸の奥で小さな火種になっていた。
宿に戻り扉を開けると、勢いよくニルファが飛び込んできた。
「トネ、おかえり~!」
笑顔で抱きついてくる。
よろめきながらも、自然と頭に手を伸ばし撫でた。
ベッドに腰を下ろすと、ニルファが隣に座ってくる。
「ねぇねぇ、聞いてよー! 今日さあ――!」
ニルファが身振り手振りで話す。
俺はひとつひとつ相槌を打つ。
笑ったり怒ったり、ころころ変わる表情が、孤児院の子供たちと重なる。
――今日、俺は、大事なものを少しだけ知れた気がした。




