3:三頭の熊
周囲の空気が、一変した。
木の葉がざわつき、風が止み、鳥の鳴き声がピタリと消える。
背中をぞくりと冷たいものが這い上がる。
――気づかれた。
「先に行くね」
ニルファが音もなく地を蹴った。
軽やかな足取りで、足場の悪い山道をぐんぐんと進む。
「トネリコ。ルーンをよろしく」
「おう。……っても、俺にできることなんて、盾になるくらいだけどな」
「そんなことないさ。いつも頼りにしてるよ」
そう言って笑い、シグもまた、先を行くニルファを追って駆け出す。
「フギン。二人を守ってあげて」
ルーンが祈るように手を組んで、小さく呟く。
小鳥の精霊――フギンが、ルーンの肩から羽ばたき、空へと舞い上がる。
そして、勢いよく駆けていく二人の背中を追い、緑光に輝きながら飛び立った。
その瞬間、遠くの茂みが大きく揺れ、バキリ、と音を立てて崩れる。
――ヴゥゥゥ……グラァアアアアア!!
「出やがったな……」
咆哮と共に現れたのは、異形の怪物――瘴気熊。
見上げる巨体に、紫の魔眼を宿した異形の熊だ。背には禍々しい黒鉄色の瘤がいくつも盛り上がり、そこから噴き出す瘴気が周囲を妖しく漂っている。
「フギン。瘴気熊の動きを止めて」
ルーンがささやくと、組んだ掌の間から淡い緑がふわりとこぼれた。
精霊術の発動だ。
周囲の小枝や落ち葉がざわめき、彼女の元に集まって小さな渦を描く。
その瞬間、シグの背後を飛ぶフギンの羽が緑光に輝いた。
羽ばたきと共に風が裂け、ヒュンと鋭い音を残して風の刃が放たれる。
瘴気熊は鬱陶しげに腕を振って風刃を払おうとするが、遅い。
刃が頬を裂き、紫がかった鮮血が弧を描いて宙に舞った。
「隙ありっ!」
僅かに体勢を崩したその懐へ、ニルファが迷いなく飛び込む。
鮮やかな陽動に、ルーンへと指を向ける。
「ナイスアシスト」
「これくらいはね」
ルーンの口元がふっと緩む。
「そーいっ!」
上段に構えたニルファが、勢いよく踏み込み、剣を振り下ろす。
小振りな刀身が、瘴気熊の胸部にずぶりと沈み、縦一文字に切り裂いた。
――ヴォォッ!?
どぽり、と粘性の血液が音を立てて滴る。
予想外の痛みに吠え、瘴気熊が腕を乱暴に振り回す。
ニルファはすぐさま跳躍。
暴れる腕をひらりと避けて、後方へ軽やかに離脱する。
そして――何故か、手元の剣をじっと見つめた。
「あれ?」
戦いの最中とは思えないほど呑気な声で、ニルファが首をかしげた。
その様子に違和感を感じたが、声をかける暇もない。
――グラァァァァァッ!
ぼんやりとしたニルファに追い打ちをかけようと、瘴気熊が前に出る。
しかし、瘴気熊の側面には既に、シグが低い姿勢で踏み込んでいた。
「――せらっ!」
ぐっと腰を落とし、地面に垂らした剣を勢いよく振り上げる。
刃紋が空を切り裂き、瘴気熊の横腹が裂けた。血しぶきが舞う。
――ガァァァァァァッ……!
怒りに任せた瘴気熊の両腕が振り下ろされる。
シグが素早く避けると、腕の突き立った地面から土が爆ぜ、岩が砕け散った。
「おっと、危ないな」
軽い口調で瘴気熊に寄り――
二閃。瘴気熊の両腕を刻むように剣を振る。
瘴気熊が両腕の痛みに、体を起こすと――
三閃。ニルファがつけた傷口を抉るようにして、剣を振り終えた。
計六度の斬撃に、瘴気熊の体が血に染まる。
「剣振んの早すぎんだろ……」
「神殿騎士の中でも、飛びぬけて優秀だったらしいわよ?」
「あんなんがゴロゴロいてたまるか」
ルーンと軽口を叩き合っていると、瘴気熊が力を貯めるように屈む。
――グゥゥオオオオォォアァァァ!!!
解放。咆哮は岩をも砕く圧を持ち、空気を震わせた。
鼓膜を突き破らんばかりの衝撃に木々の葉が一斉に散る。
「流石に耳が痛いね!」
たまらず、シグは片耳を押さえ、一息に後方へ下がった。
「フギン」
その隙を見逃さず、ルーンの指示でフギンが飛び出した。
飛翔し、咆哮をあげる瘴気熊の胸部に接触すると――
「爆ぜて、散りなさい」
一瞬の閃光。
甲高い爆音が瘴気熊の全身を切り刻み、吹き飛ばした。
猛烈な勢いで後方の大樹に打ちつけられた瘴気熊が、ゆっくりと崩れ落ちる。
そう思った時には、その首下に長剣が差し込まれていた。
「終わりだ」
自重に合わせて振り上げられたシグの剣が、瘴気熊の頭部を跳ね飛ばした。
「おえっ」
目をそらす。
その先で、ルーンが肩に乗ったフギンにお礼を伝えているのが見えた。
フギンが淡い緑光と共に、空気に溶けていく。
ルーンが、口元に手を当てる俺に気づいた。
「大丈夫?」
心配そうな表情に、強がって笑う。
「最初の頃と比べりゃな。でも、まだ直視すんのはきついわ」
元来、血を見るのは苦手だった。
荒事は避けてきたため、ここ数年は怪我をしたこともない。
これでも、慣れた方だった。
初めのうちは、ニルファが殺した魔物を見て、よく吐いていたのを思い出す。
「頑張ったわね」
「ん。サンキュー」
ルーンの微笑みが、妙に照れくさい。
「お疲れ様」
拳大の結晶――魔核を握りしめて、シグが戻ってきた。
視界の端では、瘴気熊の死骸が綻ぶように空に散っていく最中だった。
「お疲れ。随分大きな魔核だな」
手をあげる。
お互いの手を合わせ、パチンと打ち鳴らす。
「大型だったからかな?良いエネルギー源になりそうだ」
薄っすら紫色に発光する魔核は、討伐の証明でもある。
ギルドに渡した後は、魔道具の燃料として売却されるのだろう。
「あと二頭。この調子でサクサクいけると良いな」
「そうだね」
会話を終え、ニルファを目で探すと、死骸から少し離れた藪の前にいた。
時に手首を返しながら、じっくりと刃先を眺めている。
「ニルファ、どうかしたのかー?」
大声をかけると、ニルファがこちらに気づく。
「あ、うん。実は、剣がさー」
こちらに歩み寄ろうとして――驚いたように、横の茂みを見た。
「ニルファちゃん!」
言うと同時、シグが目を見張る速度でニルファの元に駆け出す。
その直後、茂みからもう一頭の瘴気熊が飛び出した。
「ニルファ!」
「ニルっ!?」
一瞬の出来事に、俺とルーンは声をあげることしかできなかった。
――グラァァァァァァァァッ!
瘴気熊の両腕がニルファに振り下ろされる。
ニルファが咄嗟に剣で受け止めようとして――
剣が、衝撃に耐え切れずに破砕した。
振りぬかれた両腕が直撃して、ニルファの体が勢いよく吹き飛ばされる。
「嫌ぁっ!」
地面にバウンドして転がっていくニルファを見て、ルーンが走り出した。
「ルーンっ!?」
俺も慌ててついていく。
「そっちは任せたっ!」
既に二頭目の瘴気熊と戦闘を始めていたシグに、短く声をかける。
「二人をよろしく!」
シグは振り返らず、声だけを返してくる。
シグからルーンに目を戻すと――土煙があがった。
そこから先は一瞬のことだった。
転がるニルファが受け身を取り、足から地面に着地する。
「痛いなぁっ!」
その瞳が深紅に輝いた。
地面が抉れ、蹴りだす音と共に、ニルファが弾丸のような勢いで飛び出した。
そのままの勢いで、シグの猛撃を受けている瘴気熊の腹部に潜り込む。
「ニルファちゃん!?」
シグの驚く声にも耳を貸さず、ニルファは右手を弓のように引き絞った。
――パアンッ!
水風船が破裂するような音とともに、瘴気熊の腹部中央が吹き飛んだ。
瘴気熊の瞳孔がぐるりと回転する。
ゆっくりとその巨体が後方に傾き、やがて、地響きを立てて大地に崩れ落ちた。
少しの静寂。
瘴気熊の周辺に飛び散った血痕が、綻ぶように空に散る。
ルーンが一目散にニルファの元へ駆け寄った。
「ニルっ!」
「ん?ルーン、どうしたの?」
困惑するニルファをよそに、ルーンがニルファの両肩を掴んで揺さぶる。
「どうしたの、じゃないわ。早く傷口を見せなさい!」
「うわわっ」
それから、体の隅々まで、ルーンはまさぐるように傷を探し始めた。
一難去ったのを感じて、俺もゆっくりと三人の元へと歩き出す。
「……擦り傷だけみたいね」
俺が辿り着いた頃に、ようやくルーンは納得した様子で、安堵の息をもらした。
「大丈夫だよー。こんな熊に殴られたくらいじゃ、へっちゃらだもん」
ルーンがぎゅっとニルファを抱きしめる。
「そうかもしれないけど、見てる方は心配なのよ」
「そうなの?」
「そうよ。無事で良かったわ」
「えへへ。ルーン、好きー」
「私も大好きよ」
ニルファが俺に気づき、声を出す。
「あ、トネ。剣折れちゃった」
ニルファが、恥ずかしがるように、柄しか残っていない剣を見せてくる。
その態度に、黒い感情が湧き上がったが、押し殺す。
大丈夫なことはわかっていたが、剣を優先するその思考が気に入らなかった。
「無事ならいい」
「折れちゃったよ?」
きょとんとした顔でこちらを見るニルファに、溜め息を返す。
「体の話な。剣なんてどうでも良いわ」
「えへ。トネも心配してくれるの?」
「当たり前だろうが」
ルーンから離れ、ニルファがトコトコ近寄ってくる。
そのまま、ギュッと抱きしめられた。
「トネ、大好き」
胸元に頭を擦りつけてくる。
「撫でて」
「……はいはい」
手慣れたもので、催促されるままにニルファの頭を撫でた。
「んー、最高」
「体、痛くねぇか?」
「全然平気」
「そうか。ならいいんだ」
小さな頭をなでながら、安堵の息をつく。
ニルファは他の人より少しだけ頑丈で、少しだけ力も強い。
でも、まだ子供だ。
守ってやらないといけない。
「あと一頭か……」
呟いて、シグに目をやる。
「シグ。二頭は倒したんだし、一度街に戻らないか?」
「……」
「……シグ?」
シグは暗い顔でなにかを考え込んでいた。
「シグ。おい、シグ!」
「え?ああ、ごめんよ。どうしたんだい?」
「お前、怪我でもしたのか?」
「いや、無傷だよ。ちょっと……考えごとをしていてね」
「……街に戻ろうぜ。ニルファの剣も折れちまったし、休んだ方が良い」
「そうだね。じゃあ魔核だけとってくるよ」
シグは、塵になりつつある死骸に近づいていく。
「あいつ、大丈夫だよな?」
ルーンに尋ねる。
「傷はないと思うわ。でも……」
「でも?」
「……なんでもないわ。まずは、街に戻ることを優先しましょう」
ルーンはフギンを召喚すると、上空に飛ばした。
「フギン。敵が来たら教えて」
「便利なもんだな」
「乱用はできないんだけどね」
精霊術は便利な反面、魔力を大きく消費するらしい。
少しして、魔核を回収したシグが帰ってきた。
「じゃあ、街に戻ろうか」
「おう。先導頼むわ」
シグの先導のもと、上空を旋回するフギンと共に、来た道を引き返す。
「いい加減離れろよ」
「嫌!」
「……まぁいいか」
ニルファは、街に着くまで俺から離れなかった。
その後、街に戻り、瘴気熊の魔核をギルドに提出した。
ニルファの剣を新調し、何度か森へ調査にも出たが――
フギンの協力を得ても、三頭目の瘴気熊は見つからなかった。
森の奥へ戻ったのか、それとも縄張り争いに敗れたのか。
ギルドとの話し合いの末、そのように処理され、依頼は完了となった。
結果として、ギルドからは瘴気熊二頭分の正当な報酬を受け取る。
連日の調査で疲弊していた俺たちは、しばらく休暇を取ることにした。
――魔物の活性化に、三頭目の行方。
胸の奥に残る違和感は、日を追うごとに濃くなっていった。




