18:世界樹の枝葉(2)
”聖剣グラム”が、俺の腹を貫く。
刃先は正確に、臍下を斜めに貫いていた。
呼吸が止まり、腹の痛みが熱を帯びて、思考を焼き焦がす。
――けれど、大丈夫だ。
この体がどれほど頑丈か、俺が一番よく知っている。
体内から、音もなく何かが溢れ出す。
それは血ではなかった。
赤くも、熱くもない。
黄金だ。
黄金の液体が、聖剣の根元からどろりと滴り落ちる。
金箔を溶かして流し込んだかのような、粘性と輝きを帯びた幻想的な樹液。
「くはは」
予想通りだ。
やっぱり、やっぱりそうだったんだ。
フギンとムニンの声が脳裏を過る。
『特別サービス。ママを絶対に離すなよ』
『特別サービス!死んでも離さないでよねっ!』
あの時は、あいつらの力が左手に宿ったもんだと思ってた。
でも、違った。
あいつらは、俺の左手に傷をつけたんだ。
世界樹の外皮に覆われた俺の魔力を、外へ流し出すために。
そして、その魔力をルーンの魔力の代替として扱うために。
あいつらは、ルーンを抱き締めろって言った訳じゃない。
離すなって言ったんだ。
今ならわかる。
理由は二つ。
ひとつは、ルーンの魔力を補填し、生命力を取り戻し、フギンとムニンが活動するため。
ひとつは、復活したニーズヘッグに感知されないよう、フギンとムニンが痕跡を隠すため。
左手の黄金は何時の間にか消えていた。
だがそれは、力が尽きたのではなく――。
『もう治ったか。結構本気でやったんだけどね』
『ありゃりゃっ!久々に出れて、面白かったのになーっ!』
――俺の再生力が、傷を塞いだだけだった。
「くはははははははははははははははっ!」
魔力を放出する手段、あったじゃねぇか。
なら、後は実行すれば良い。
俺の体を傷つけられるのは、枝葉と対等の力をもつ邪龍と――ユグドラシルに由来するものだけ。
”聖剣グラム”は、元を正せばユグドラシルが勇者に授けたものだ。
なら、それで俺の体を傷つけられない道理はない。
刃が食い込んだ胴から、黄金の樹液がどろどろと溢れ出してくる。
お膳立ては、整った。
――後は、”名前”だけだ。
耳鳴りが世界を裂く。
キィィ……という細い音が、空の端で光を引き裂いていく
「――!」
俺に聖剣を突き立てたシグが泣きそうな顔で何かを叫んでいた。
水の底から聞くように、声が霞む。
何で泣いてんだよ、シグ。
大成功じゃねぇか。
ただ……なんか、足りねぇ気がすんだよな。
あれを呼ぶには、もっと魔力がいる。
不思議と、そんな感覚があった。
だがまぁ、問題ない。
足りなければ、足せば良いだけだ。
聖剣を持つシグの手を、ギュッと握る。
驚いたシグが抵抗しようとするが、どうやら、世界樹製の俺の体は本当に特別らしい。
抵抗する勇者の力を物ともせずに、聖剣を握る手を掴み、そのまま横に引く。
光刃が俺の腹を裂き、皮膚を断ち、音もなく世界樹の外皮を割る。
――次の瞬間。
ドボォッ。
信じられないほどの量の黄金が、腹の奥底から噴き上がった。
まるでダムが決壊したように。
魔力を蓄えた泉が、今この時を待っていたかのように。
魔力の泉が、世界の光を塗り替える勢いで解き放たれる。
それは液体ではなく、もはや光そのものだった。
シグが目を見開いて、硬直する。
その頬に一滴が跳ねた。
たったそれだけで、空間が震え、世界が軋む。
これが、俺の中を流れていたもの。
世界樹の根の中核――命そのものの樹液。
黄金の雨が降る。
聖剣にも、地にも、俺たちの身体にも。
そして、やっと――魔力が足りた。
世界が静まる。
だがその静寂の下で、確かに震えていた。
脳裏に、ふっとその名前が思い浮かぶ。
それは、名付けに近い感覚だった。
今ならわかる。精霊を呼ぶのに名前が必要な理由。
魔力を与え、名を与える事で――初めて、精霊たちはユグドラシルから、この世界に実態をもつ事を許されるのだ。
この世界の誰よりも膨大な魔力を消費して、俺はその精霊と契約する権利を得る。
呆然とする意識。
気づけば、その名前を呟いていた。
「バハムート」
静寂の中。
呟かれたその名前が、確かに世界に届いた瞬間。
世界が、裂けた。
現実の皮膜が、音もなく軋む。
空が、地が、光が、魔力が――その名に呼応してざわめく。
裂け目から、光の渦が生まれ、現実の膜を引き裂いていく。
やがて現れたそれは、まさに世界の理に抗う存在だった。
青緑――翠玉のごとき鱗が、光を受けて静かに煌めく。
瞳は深い翠の光を宿しており、深い慈悲を湛えていた。
背の翼は光を抱き、金と白の粒子を循環させている。
全身を縁取る様に、金と白の輪環が幾つも浮かんでおり、胸元には、黄金の紋章が浮かび上がる。
生きとし生けるもの全ての命を象徴するかの様な円環の紋が、呼吸に合わせて脈打ち、時に純白の脈動を放った。
『王様によろしく伝えといて』
『王様によろしくっ!』
フギンとムニンは、その精霊を王様と呼んだ。
世界樹ユグドラシルに住む、全ての精霊たちの王にして、世界を超越する龍。
俺はそれを、バハムートと名付けた。
黄金の雨を浴びながら、精霊王――バハムートがゆっくりと首を持ち上げる。
そして。
咆哮が、世界を貫いた。
――グォオオオオォォォォォォ――――――――――――――――――ッ!!!
大地が割れ、雲が砕け、空が震える。
鼓膜を超え、魂が震えるほどの声。
それは、目覚めの咆哮。
ユグドラシルの奥底にあった神性が、名を得て顕現した証。
咆哮に呼応するように、周囲の魔力が逆流を始める。
まるで、世界そのものが、翠玉の王に向けて膝を折り、拝礼しているかのように。
その姿を見上げながら、俺は、震える意識の中で、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「――賭けは、俺の勝ちみてぇだな」
黄金が光となり、紅蓮と黒嵐を散らして世界を満たしていく。
荒れ狂う世界の只中で、二体の邪龍がこちらを振り返った。
その中心に立つバハムートは、ただ静かに――彼女らを見つめていた。




