14:宿縁(2)
「――躾のなっとらん塵芥共じゃのう」
背筋を撫でるような声。思わず振り向いた。
聖堂の入り口に、見覚えのない女性が立っていた。
だが――わかる。
本能が、即座に理解を叩き込んでくる。
こいつは――人間じゃない。
女性はコツコツと石畳を鳴らしながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。
「思ったよりも早くお越しでしたね。まぁ、大体の話は済みましたので、良しとしましょうか」
ノルンが俺の脇を抜け、一歩前へ出た。
すれ違いざま、こちらを一瞥して「後で、お鉢を回しますね」とウィンクする。
お鉢――つまり、順番が来るということだろうか。
ルーンもシグも、リルでさえ、一歩も動かずに警戒を保っている。
俺も言葉を飲み込み、ただ静観するしかなかった。
「主が、今代の聖女か?」
「はい」
「くかっ……まぁ、勇者よりはマシか。とはいえ、随分と弱くなったものじゃの」
「貴女こそ、随分と弱々しい姿でいらっしゃるようですね――ニーズヘッグ」
やはり、そうか。
この身の毛のよだつ恐怖――覚えがある。
震えそうになる指先を無理やり押さえ込み、手に力を込めた。
「塵芥であれば、我の名を呼ぶ不敬など許さんが……まぁ、及第点じゃの」
ニーズヘッグは悠然と歩み、ノルンの目前で立ち止まった。
「こんな姿でおるのも、主の結界のせいじゃろうが」
「あら、それは失礼しました。
まさか、弱った聖女の結界ごときで止められるとは思いませんでしたので」
「減らず口を……全く、力を取り戻しておれば、こんな粗末な結界などなぁ」
二人の声は穏やかだ。だが、その瞳には一片の慈しみもない。
空気の温度が、じわじわと下がっていく。
ニーズヘッグは頭を掻き、冷笑を浮かべた。
「まぁ良いわ。ほれ、さっさと教えんか」
「何をでしょう?」
「惚けるな。世界樹の枝葉はどこにある」
「それは、貴女が一番よくご存じではありませんか」
ノルンの返答に、ニーズヘッグは顔を顰める。
「我の知る歪みは、とっくに塞がれておったわ」
「まぁ、そうでしたか。それは残念でしたね」
「下らん言葉遊びに付き合うつもりはない。
言わねば、この一帯を焦土にしても構わんのだぞ?」
凄む声に、ノルンは微動だにせず、涼やかに笑う。
「では、やってみればよろしいのでは?」
「……何?」
「結界ごと消し去れば良いのでは? それだけの力が、貴女に残っているのなら」
ニーズヘッグの表情が、一瞬だけ凍った。
だがすぐに苦虫を噛み潰したように顔を歪め、黙り込む。
「……」
「どうされました? ああ、なるほど。そういうことですか」
ノルンは笑みを深める。
「これは、失礼しました。出来ないのですね。あの邪龍ニーズヘッグともあろうお方が、ずいぶんと弱くなられたようで」
「……頭に乗るなよ、小娘」
「貴女も、大概にされた方がよろしいのでは? 足元を掬われてしまいますよ」
「……人間ごときが」
ニーズヘッグは深くため息を吐き、踵を返した。
聖堂の入り口へと歩み去る。
「あら。もうよろしいのですか?」
「時間を無駄にする気はない。力を取り戻しておらんのは、事実じゃからの」
「そうですか。では、道中お気をつけて」
「心にも思っておらんことを言うでないわ。……ではの。焦土となったこの地で、再び会おうぞ?」
邪悪な笑みを浮かべ、首だけをこちらに振り返るニーズヘッグ。
ノルンはにこりと笑みを返す。
「ところで――彼を見て、気づきませんか?」
ノルンは俺を見つめ、意味ありげに微笑んでいた。
ノルンは俺を見た。
その微笑みに、背筋がざわりと粟立つ。
――まるで別の何かが、ノルンの内側から覗いているようだった。
「……? ただの塵芥ではないか」
怪訝な顔をするニーズヘッグに、ノルンは吹き出した。
「ふふ……ふふふっ、ふふふふふふっ……」
「ええい、何だと言うのじゃ!下らん言葉遊びは付き合うつもりは……ない……と……」
ニーズヘッグの動きが止まる。
「……ばかな」
「ようやく気づきましたか?」
その瞬間、ニーズヘッグの目が見開かれた。
「――枝葉か?」
意味がわからず困惑するが、ニーズヘッグはそれ以上に驚いている様子だ。
枝葉って……なんだ?
意味がわからない。
だが、ニーズヘッグは確信を得たようにこちらへ歩み出す。
前に立ちはだかったのは、シグだった。
グラムを構え、殺気を纏う。
ルーンも俺の隣で両手を祈るように組み、厳しい眼差しを向ける。
「それ以上トネリコに近づけば――殺す」
「トネには、指一本触れさせないわ」
その言葉に、一瞬だけニーズヘッグの足が止まる。
だがすぐに、口元の歪みがゆっくりと吊り上がる。
視線が合った。
ぞくりと、背筋が冷える。
まるで、巨大な舌先で転がされているような感覚。
「――くかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかっ!!!」
聖堂の天井が震えた。
響くのは、人の声ではない狂笑。
狂気と飢えを混ぜた、異界の音。
「ふふふっ、ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふっ……!」
ニーズヘッグは、よだれを垂らしながら俺を見据える。
その瞳には、理性も、敵意もない。あるのは――飢え。
「ようやく、わかったわ……そうか、そういうことか……!」
ヒタ、ヒタと近づくたび、空気が焦げる。
息を吸うことすら、恐怖に遮られた。
「フギン、ムニンっ!あいつを止めて!」
ルーンの叫び。
蒼い閃光が奔り、シグがその影を追う。
だが、ニーズヘッグは舌を伸ばし、光を舐め取るように笑った。
「ああ、愚かなる我よ……こんな近くに、こんな姿で……果実がぶら下がっておるとはなぁ!」
全身の血が凍る。
親愛でも憎悪でもない、純粋な捕食者の眼差し。
頂点捕食者たるニーズヘッグの瞳が、俺を捉えて離さない。
ニーズヘッグは、俺を捕食対象として認識していた。
「僕の仲間に、手を出すなぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
シグと閃光が一直線に突っ込む。
瞬間。
「――芥が」
ニーズヘッグの右手がシグの腹を貫いた。
左手が閃光を握り潰す。
「ごは……っ!?」
シグの体が壁へ叩きつけられる。
石壁が砕け、粉塵の中で彼が力なく崩れ落ちた。
「シグっ!」
ルーンの悲鳴。
その声に振り向こうとして――息が止まった。
ニーズヘッグが、もう目の前にいた。
「まさか……枝葉が。世界樹の枝葉が……人の姿をして、生きておるとはな」
その声は、恍惚と飢えが溶けた音色だった。
ニーズヘッグの口角が異様に吊り上がる。
笑ってはいるのではない。
飢えの歓喜に狂っているのだ。
理性の皮が剥がれ、ただ、食欲だけが体を引き裂くように浮かび上がってくる。
「トネぇっ!」
ルーンがこちらへ手を伸ばす。
「動くなぁぁぁっ!」
喉が裂けるほど叫んだ。
「でも――!」
「動くな!そこを、絶対に動くんじゃねぇぞ……っ!」
シグは生きている。
勇者なら、あれしきで死にはしないだろう。
だが、ルーンは違う。
あの拳を一撃でも受ければ――死ぬ。間違いなく。
それだけは、絶対に許せなかった。
例え、俺が代わりに死ぬとしても。
ニーズヘッグのよだれが、床に落ちて蒸発した。
その口が、ゆっくりと開かれる――。
「――醜い姿ですね」
氷の刃のような声が響く。
「……なんじゃと?」
ニーズヘッグが振り返る。
ノルンが立っていた。光を纏い、静かに。
「まぁ、汚らしい。よだれ、垂れてますよ?」
「口を慎め。枝葉の所在がわかった今、主を生かす理由などない」
「嫌です。ふふ……こんなに近くにいたのに、気づかないなんて。意外と鈍感なんですね」
「黙らんか。其方と話すと興が削がれる。疾く失せよ」
ノルンの周囲に、透き通る光が立ち昇った。
清浄な気配が、ニーズヘッグの威圧を押し返す。
ノルンは微笑む。
穏やかで、しかし底の見えない笑みで。
「ニーズヘッグ。どうして貴女が、この結界に入れたと思いますか?」
「……何を言っておる?」
ノルンの微笑みは変わらない。
だがその声音には、絶対の拒絶が宿っていた。
「ご飯は、お預けです。お帰りは――あちらですよ?」
パンッ。
聖堂に、乾いた音が響く。
その瞬間、世界が音もなく裏返った。
光が奔り、空間が震える。
不可視の膜が弾け、ニーズヘッグの輪郭が滲んだ。
「……っ!? これは……!」
その身体が、足元から崩れるように霞んでいく。
まるで、世界そのものが存在を拒絶しているかのように。
「貴様、わざと……っ!?」
咆哮を上げるニーズヘッグに、ノルンは微笑む。
「これでも、古の聖女様を除けば、歴代最強と呼ばれているんですよ?」
くすりと笑い、掌を合わせる。
「力を制限すれば侵入できる――そんな甘い話、あるわけないじゃないですか。貴女は精々、手の届かないご馳走に涎を垂らすのがお似合いです」
「……な……ぁ……っ!」
ノルンが再び手を合わせる――その瞬間。
ニーズヘッグが跳んだ。
霞む身体を無理やり維持し、霧を裂いて飛びかかった。
「小娘ぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
「では、さようなら」
パンッ!!
二度目の柏手。
雷鳴のような音が聖堂を満たした。
光が爆ぜ、ニーズヘッグの姿が掻き消える。
その牙がノルンに届く寸前、虚空へと溶けた。
リルが地に伏せ、狂気と威圧の残滓が風に流れる。
静寂。
俺は、ただ呆然と立ち尽くしていた。
ニーズヘッグのいた場所には、何も残っていない。
ただ――その飢えの残り香だけが、聖堂の空気に溶け、いつまでも漂っていた。
ノルンは勇者と対になる存在なので、相応に強いです!




