13:龍の夜(2)
「――うおおおおおおおおっ!?」
ぽい、と宙へ放り上げられる。
わずか数秒の浮遊。
胸の中のルーンを離すまいと、必死に抱き締めた。
次の瞬間、強い腕が俺たちを受け止める。
シグの顔がすぐ目の前にあった。
「大丈夫かいっ!?」
「大丈夫なわけあるかっ!」
死ぬかと思ったわ!
けれど、その恐怖とは裏腹に、胸の奥に小さな火が灯る。
安堵と希望の、確かな光。
俺は思わずにやりと笑った。
「生きてるって、信じてたぜ!」
その言葉に、シグが目を丸くする。
そして、ふっと優しく笑った。
「もちろん。血反吐を吐いてでも生きろって――そう言われたからね」
大狼の背に下ろされ、ようやく足が地を踏む。
腕の中のルーンをそっと寝かせた。
左手に握っていた黄金の輝きは、いつの間にか消えていた。
ルーンの顔色は戻りつつあり、呼吸も穏やかだ。
まるで深い眠りについているだけのように見える。
「随分と口が軽くなったじゃねぇか」
「おかげ様でね。それより……」
シグがルーンに視線を落とす。
静かな寝息を確かめると、どこか安堵したように微笑んだ。
「今はもう、大丈夫だ。ちゃんと生きてるよ」
「そうか。……良かった。けど、どうやってあの雷を生き延びたんだ?」
「色々あってな」
短く答える。
この場で話すには、あまりにも多くの事がありすぎた。
遠くの空では、いまだ二体の龍がぶつかり合っている。
けれど、形勢は明らかに黒き龍――ニーズヘッグの優勢だった。
圧倒的な力の差。天地が逆転しても届かないほどの隔たり。
それこそ、戦えているのが不思議なほどに。
「……なぁシグ。あの龍、ニルファだろ?」
シグが驚いたように目を見開く。
「わかるのかい?」
「なんとなくな。……で、どう助ける?」
そう問うと、シグの表情が一変した。
沈痛で厳しいその顔つきに、嫌な予感が走る。
「トネリコ」
名を呼ばれた瞬間、次の言葉の意味を悟った。
「……やっぱ、お前でも無理か?」
「ごめん。僕では、ニーズヘッグはおろか……ニルファちゃんですら止めることは不可能だ」
シグが深く頭を下げた。
拳を握りしめる俺の耳に、風が刺さる。
「すべては、僕の力不足だ。考えが甘かった。……ニーズヘッグの復活を許してしまった」
「……」
頭を掻く。
大きく息を吐いて、肩の力を抜いた。
「顔、上げろよ」
「トネリコ……」
「俺だって、ついさっき失敗したばっかりなんだ。お互い、さっさと取り返そうぜ」
「……そうだね」
シグが顔を上げる。
その瞳に、かすかな決意が戻っていた。
「ニルファの奴、どうしてああなったんだ?」
「雷だよ。……二人が死んだと思ったのさ。僕を含めてね。それで――」
シグが空を見上げる。
黒雲を裂く狂気の閃光。
二体の龍がぶつかるたび、世界が壊れていくようだった。
「理性を失った。悲しみと……憎しみのあまりね」
シグの声は静かだったが、その奥に痛みが滲んでいた。
「ニーズヘッグには、勝てない。ニルファちゃんでもね。彼女は、とても力の強い核ではあるけど……それでも、所詮は核でしかない」
「核って、なんだよ?」
「断片のようなものさ。三体の邪龍が封印される前、力を世界中に分散させた。その中でも特に強力な力を宿すもの――それを、僕たちは核と呼んでいる」
三体の邪龍。
内二体は検討がつく。
ニーズヘッグと、フギンとムニンが呼んだファフニール――ニルファのことだろう。
残る一体が誰なのか気になったが、今はそれどころではなかった。
「結構戦えてるように見えるけどな」
「遊ばれてるだけだよ。ニーズヘッグは……あの邪龍は、とことん性格が悪くてね」
シグの声に、憎しみが滲んだ。
「なんでそんなことわかる?」
「少し話した。ニルファちゃんが泣き叫んでいるのを見て、嗤っていたよ」
「……あいつ、喋れんのか」
「ニルファちゃんだって話せるだろう?」
「……まぁ、そうだな」
頭の奥に、ニルファの咆哮が響く。
やっぱり、泣いていたのか。
守るって、決めたのにな。
――グルルルル……。
振り向くと、大狼がこちらを見た。
「……時間、ということかい?」
シグが呟く。
大狼は頷き、次の瞬間――走り出した。
「うおっ!?」
突風と衝撃に耐えきれず、しゃがみ込む。
背中の毛を掴み、体勢を保つ。
焦ってルーンに目を向けるが、眠ったまま、穏やかな顔で背に収まっていた。
寝転がった方が抵抗が少ないのだろう。俺よりよほど安定していた。
シグも低く身を伏せながら、前を見据えている。
その横顔は、もう覚悟を決めた者のものだった。
リルは荒野を信じられない速度で駆け抜ける。
ニルファたち――戦場から遠ざかっていく。
「おい、逆だ!遠ざかってどうすんだよ!?」
叫んでも、大狼は止まらない。
「シグ!こいつ止めろって!」
「彼はリル。教会都市フランクにいる聖女様に仕える神獣だよ」
「そんな事聞いてねぇわ!説明はいいから止めろっての!」
「――トネリコ」
シグの声が低く響く。
その表情には、悲しみと決意が入り混じっていた。
「さっきも言っただろう?無理なんだ。僕たちでは、ニーズヘッグはおろか――ニルファちゃんを止めることすら、できない」
「だから見捨てるってのか!?あいつは、俺たちのために怒ってんだぞ!」
「……わかっているよ。僕が、一番近くで見ていたんだからね」
「なら――」
「トネリコ、聞いてくれ」
シグの声が真っ直ぐに響く。
「これから僕たちは、教会都市フランクへ向かう。そこで、聖女様と会うんだ」
「そんな悠長なことしてたら、ニルファが死んじまうだろうが!」
「ニルファちゃんは死なないよ」
「はぁ!?何を根拠に――」
「――ニルファちゃんは核だ。破壊されても滅びはしない。本体の元へ還る性質がある」
シグは聖剣グラムを呼び出し、その刃を見つめた。
「核を滅ぼせるのは、”世界樹ユグドラシル”に由来する武具だけ。だから、ニーズヘッグにはニルファちゃんを殺せない」
「破壊されたら同じ事だろうがっ!」
「違う。ニルファちゃんはファフニールに統合されるだろう。けれど、その人格は失われない……はずだ」
「確信がある訳じゃねぇのかよ……!」
怒りで胸が焼ける。
拳を握る手が震えた。
シグに掴みかかりたいが、今は立ち上がることすらできない。
下手に立ち上がって大狼――リルの背から落ちれば即死だ。
握った拳に、爪が食い込む。
「全ては、聖女様の導きだ。可能性はゼロじゃない」
「……て、めぇ……っ!」
「君もわかってるだろ。今の僕たちじゃ、全滅するだけだ。ニーズヘッグにとっても、ニルファちゃんにとっても……僕たちは路傍の石。戦いの余波で塵になる程度の存在さ」
「だから、納得しろってか!?」
シグの言葉は正論。
理性は理解しても、心は拒絶する。
理性が「無理だ」と叫び、感情が「守れ」と叫ぶ。
その狭間で、心が軋む。
シグは俯き、静かに言った。
「納得は、しなくていい」
「……いいのかよ」
「僕だって、納得してるわけじゃない」
息を呑む。
顔を上げたシグの瞳に、涙が光っていた。
「ごめんよ、トネリコ。僕は勇者なのに、誰一人守れなかった。トネリコとルーンが死んだと嗤うニーズヘッグに、一撃すら入れられなかった。自分の無力が憎い。後悔ばかりだ。ずっと目を逸らしてきた。そのツケが今なんだ」
「……お前」
「それでも生きる。君に言われたからだ。血反吐を吐いてでも生きて、失くしたものを取り戻す。ルーンを、ニルファちゃんを、君を――守る。その日のために、今は退くんだ」
シグが遠くの空を見上げる。
ニルファの姿は小さくなりつつも、まだ見える。
紫電が夜空を裂き、やがて光が弾けた。
その影が地へと落ちていく。
「詭弁だってわかってる。でも、それでも希望を信じて行動するんだ。希望を失ったら、僕たちは前に踏み出せなくなる。いつか必ず――ニルファちゃんを救い出すためにも」
ルーンを見下ろすシグの目に、優しさと痛みが混じる。
「ルーンが眠っていて、本当に良かった。もし起きていたら……迷わず飛び降りていただろうね。勝算もなく、ただ守りたい一心で」
「……そうだな」
遠く、ニルファが崩れるように大地へ沈んでいく。
気づけば、涙が頬を伝っていた。
シグの言葉を、受け入れるしかなかった。
「なぁ、シグ」
「なんだい?」
「ニルファの奴……本当に生きてんのかな」
太陽がなければ、人は凍えて死ぬ。
俺も同じだ。
ニルファがいなければ、生きる理由を失う。
「可能性はゼロじゃない」
「……そうか。なら、信じなきゃな」
目を閉じ、深呼吸。
そして、強く目を開く。
涙はまだ止まらない。
けれど、ニルファと過ごした五年の歳月が、俺にまだ熱を残してくれていた。
「決めたぜ、シグ。俺は……俺は――」
胸に手を当て、言葉を刻む。
「――ニルファを取り戻す。必ずだ。どんな手を使っても、どんな代償を払っても、絶対に」
「……その時は、僕もお供するよ」
「頼むわ。お前がいりゃ、百人力だからな」
決意は固まった。
やるべきことは単純だ。
聖女に会い、ニルファを取り戻す方法と、ニーズヘッグの糞野郎を倒す手段を手に入れる。
リルの背が静かに揺れる。
冬の風が荒野を渡り、頬を刺した。
「フランクまで、どのくらいだ?」
「リルの速さなら、二日もあれば着くはずだよ」
「そうか」
リルの背に身を預け、空を見上げる。
リルの背に身を預け、空を見上げた。
暗雲が夜空を覆い、星は一つもない。
時折走る紫電が、一夜にして世界が変わったことを暗示しているようだった。
「なら、少し寝る。明日に備えねぇとな」
「そうだね。ルーンのことは僕が見ておく。安心して眠ってくれ」
「ん……頼むわ」
目を閉じる。
眠気がすぐにやってきた。
抗わず、そのまま身を委ねる。
――ニルファがいない夜は、酷く冷たかった。
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