13:龍の夜(1)
トネリコ視点に戻ります!
――音が、遠い。
風も、光も、すべてがぼやけている。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
黒――次いで、白。
視界の中に、見慣れた修道服があった。
上体を起こす。
そこに、ルーンがいた。
「……ルーン」
声が出ない。
喉の奥で、言葉が溶けた。
自然と、青白い頬に手を伸ばす。
だが――左手に鋭い痛みが走る。
「……あ」
ぼんやりとしていた思考が、急速に輪郭を取り戻す。
左の掌が、黄金に輝いていた。
『ここに呼んだ理由はひとつ。目覚めたら、ママを守ること』
『せっかく呼んだんだから!絶対にママ、守るんだよっ!』
フギンとムニン。――さっきまで、確かにあいつらと話していた。
「……守る、か」
だが、ルーンはもう――死んでいるはずで。
『いや殺してないし。ただ、ちょっと食べすぎただけだよ』
『それそれ!フギンってそういうとこあるんだよねーっ!』
「……っ!」
ルーンの体を抱き上げる。
氷のように冷たい。
だが――フギンは殺していないと言った。
左胸に耳を押し当てる。
……………………………………………………トクン。
「……ああ……」
胸の奥が震えた。
腕の力が抜ける。
それでも、強く抱き締めた。
「……っ」
涙が頬を伝う。
『特別サービス。ママを絶対に離すなよ』
『特別サービス!死んでも離さないでよねっ!』
「離さねぇよ」
――ゴゴゴゴゴゴゴ……!
大地が鳴動した。
空気が悲鳴をあげ、世界が轟音とともに揺れる。
遅れて、衝撃。
暴風が吹き荒れ、体が吹き飛ばされそうになる。
ルーンを抱きかかえ、地に伏せて耐える。
フヴェルミルの中心から、巨大な何かが天へと這い上がっていった。
土煙が晴れた先に――黒き龍がいた。
その眼は、天そのものを睨みつけていた。
――aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!
腹の奥を痺れが駆け抜ける。
鼓膜が破れそうな咆哮。
耳を塞ぎたくても、塞げなかった。
代わりに、ルーンを抱く腕に力を込める。
見上げた瞬間、全身を走る異様な嫌悪感。
胸が締めつけられ、血の気が引く。
まるで、皮膚の下の神経一本一本まで、俺の体があの龍を拒絶しているかのようで――目を逸らしたくても、視線が勝手に固定されてしまう。
理由はわからない。
けれど――本能が警鐘を鳴らしていた。
「頼まれたって、離さねぇ」
山よりも巨大な龍を睨み据える。
「来るなら来いよ、糞ったれ。――こいつは、俺が守る」
あんな龍、胸に穴が空いたような、あの後悔に比べりゃ怖くもねぇ。
突風が吹き荒れ、砂が肌を打つ。
咆哮の余波で暴風が荒れ狂い、目を開けていられないほどの砂が頬を叩いた。
大地が再び轟音を上げ、崩壊した街並みの残骸が空を渦巻く。
上体を起こそうとしても、風の圧力がそれを許さない。
大地は唸り、崩壊した街の残骸が空を渦巻く。
ルーンを抱き締め、地に伏せる。
腕の中の冷たさが、決意を鋼に変えていく。
砂粒が皮膚を打つ。
息を吸えば砂が肺に入り、咳き込んで痛みが走る。
砂を吸い込み、咳き込みながらも、視線を逸らさなかった。
砂煙の向こうで――龍が、遠ざかっていく。
それだけで、再び大地が裂け、風が暴れる。
それでも、膝を地につけて耐えた。
ルーンに顔を寄せる。
心の奥にあるのは、ただ一つ。
守る。絶対に。
「こんなん、余裕だぜ……なぁ、ルーン」
抱いた腕の中で、ルーンが小さく呼吸を始めた。
冷たかった体が、わずかに温もりを取り戻していく。
生命を感じる。
それだけで、体の奥底から希望と力が際限なく湧き上がる気がした。
次第に地面の揺れが収まり、轟音も遠のいていく。
荒野の荒れた大地が、少しずつ落ち着きを取り戻した。
砂煙の匂いと、振動の余韻だけが残る。
「……終わった、か?」
ルーンを抱いたまま、ゆっくりと上体を起こす。
龍は森の方角まで飛び去り、奇妙なことに――そこで動きを止めた。
静寂。
空白の時間が流れる。
ルーンの呼吸は安定している。
意識は戻らないが、血の気がわずかに戻っている。
もう大丈夫そうだ。
フギンとムニンが、なにかをしてくれたのかもしれない。
ニルファとシグは……無事だろうか。
あの化け物に立ち向かっていなきゃいいが。
まぁ、大丈夫か。
大きさが違いすぎる。
山みたいな龍とどう戦うってんだ。
相手にもされねぇよ。
息をつく。
今は、心配したって仕方がない。
手の届かない仲間より、まずは目の前の仲間だ。
今度こそ、間違えねぇ。
そのまま、しばらく龍の様子を伺っていると――奴が、こちらを向いた。
ニタリと、嗤った気がした。
世界が息を止める。
視界が、薄紫に染まりはじめた。
ルーンも、俺も。
肌の下から光が滲み出すように輝く。
足元が、震えた。
足元が震え、地面のひび割れから光が漏れた。
それは次第に繋がり、形を成していく。
円環。幾何学の線。
似たものを見たことがある。
――これは、魔法陣だ。
魔法使いが術を放つとき、宙に浮かび上がる独特な紋様。
だが、規模が違った。
空を仰ぐ。
地に走る紋様と同じ光が、天一面を覆っている。
呼吸を忘れるほどの光景。
龍のいる森の先から、フヴェルミルの果てまで空が裂けていた。
誰の仕業か、すぐにわかった。
「……無茶苦茶だろ」
ルーンを抱き直す。
指先が震える。
「……まぁ、任せろよ」
紫の輝きが強まり、空気が震える。
ピシピシと、世界が軋んだ。
「あんなもん……どうにかするのは、無理かもしれねぇけど」
世界を包む紫の光が限界まで飽和し――。
――雷が、降った。
「お前一人くらいは、守って見せるさ」
走馬灯のように、世界がスローモーションになる。
紫の稲妻が、視界一面に落ちてくる。
目前に迫り、世界が紫で満ちる。
――その時、蒼い光が瞬いた。
小さな化けガラスが、目の前に現れる。
思考が止まる。
反射的に、叫んでいた。
「ルーンを守れっ!」
体の熱が、ゴソッと抜け落ちる。
蒼が紫を塗りつぶす。
雷光が弾け、紫電が霧散した。
《君しては及第点》
《頑張ったじゃんっ!》
続く雷も、蒼の光に弾かれて消える。
バチチチチッと紫電が走るが、蒼は揺らぎもしない。
《相変わらず、彼女は品がないねぇ》
《ほんっと嫌い~っ!全然反省してないじゃんっ!》
ルーンを抱いたまま、現れた化けガラスーーフギンとムニンを見据える。
「知り合いなのかっ!?」
《腐れ縁でね。最後に見たのは、五百年前くらいかな?》
《ニーズヘッグだよっ!ずっと寝てれば良かったのにーっ!!》
「止めろって言ってくれ!」
《無駄無駄。彼女、話通じないから》
《無駄無駄!食べることしか考えてないもんっ!》
問答無用で雷の雨を降らすようなやつだ。
確かに話は通じなさそうだが――恐怖が、じわじわと焦りを生む。
そんな時間がしばらく続き、声を上げる。
「いつになったら終わるんだよ!?」
《さぁ? 気のすむまでじゃない?》
《あいつ、すんごくねちっこいの。おまけにしつこいっ!》
最悪じゃねぇか。
そう思った瞬間、雷が止んだ。
パリンとガラスが割れる音がして、世界が色を取り戻す。
空一面に浮かんでいた魔法陣が粉々に砕け散った。
ようやく終わった――そう思った刹那。
ーーaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!
轟音。
フギンとムニンが言っていたニーズヘッグの咆哮かと思えば、声音が違った。
ニーズヘッグの咆哮が天を嘲るようなものだとすれば、これは――慟哭。
はちきれる悲しみに泣く子供のような声。
もう一頭。
ニーズヘッグと比べれば幼体のような、それでも巨大な龍が姿を現れる。
《なるほど。今代は随分と性格が悪いらしいね》
《うわぁ、フギンそっくりっ!ドン引きーっ!》
フギンとムニンの声が、遠く霞んで聞こえた。
その姿に、既視感。
胸の奥が疼く。
あの姿――どこかで見たことがある。
それどころか、懐かしいとさえ思える。
あれは。
あの龍は――。
「――ニル……ファ?」
不思議と、そうとしか思えなかった。
あれは、ニルファだ。
森で見た姿よりも、ずっと大きく、禍々しい。
けれど、その姿がかえって――らしいとさえ思えた。
《ファフニール。相変わらず、不憫な子供だ》
《怖がりなんだよねっ!悪い子じゃないんだけどさっ!》
言い終えると同時に、蒼い光が揺らぐ。
フギンとムニンの輪郭が、残像のように滲む。
《もう治ったか。結構本気でやったんだけどね》
《ありゃりゃっ!久々に出れて、面白かったのになーっ!》
「……帰んのか?」
《うん。王様によろしく伝えといて》
《またねーっ!王様によろしくっ!》
蒼い光が急速に薄れていく。
フギンとムニンが、空に溶けようとして――。
《――サービス》
《――サービス!》
声が重なる。
《運命を信じるな》
《運命を受け入れないでっ!》
その言葉を残し、光は空へと消えた。
言葉の意味が気になったが、もう当人たち……当精霊たちは、ここにはいない。
そんなことより、あの龍――ニルファを助けなければならない。
「問題は、どうやって助けるかだな……」
空に浮かぶ二頭の龍がぶつかり合う。
その衝撃だけで、遥か離れたここにも風圧が飛んでくる。
荒野が唸り、砂塵が舞い上がった。
無力感が、胸を締めつける。
どうすればいいかもわからない。
その時。
ニルファたちの方角から、白い影がこちらに向かって疾走してくるのが見えた。
「……狼?」
その風貌を形容する言葉が、他に思い浮かばなかった。
それは、あまりに巨大だった。
通常の何倍というレベルではない。
通常の何十倍もある巨体――その背に、誰かが乗っている。
距離が詰まるにつれ、その誰かが見知った仲間だとわかる。
「――シグ!」
シグが驚愕の表情でこちらを見ている。
風を裂いて迫るその姿。
「……おいおい」
ルーンを強く抱きしめる。
次の瞬間、背後に影。
見上げるほどの巨大な顎が――地面を噛み砕くように迫ってきた。




