11:フギンとムニン
霧の戦場は、まだ破壊と煙の匂いに覆われていた。
だが、俺の目の前にあるのは、ただ一つ――ルーンの姿だった。
地面にそっと横たえた彼女の身体は軽く、まるで存在そのものが薄れていくように冷たかった。
「……ルーン……」
声にならない声が漏れる。
返事は、ない。
胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚が広がる。
呼吸は浅く、どれほど吸っても空気は胸に届かない。
重苦しい沈黙だけが、体の内側で響いていた。
全身の力が抜け、立ち上がる気力も湧かない。
後悔だけが、身を包んで離れなかった。
その時、遠くから歓声が聞こえた。
気怠く顔を上げると、紅と白金の光が戦場の彼方で瞬いている。
戦況は、どうやら押し返しつつあるようだった。
脳裏に、軍勢の奥で蠢いていた怪物の影がよぎる。
まだ戦いは終わっていないのだ。
ニルファとシグの姿が思い浮かび、無意識に手を膝につき、立ち上がろうとする。
だが、足に力が入らず、逆に仰向けに倒れた。
ネチャリ、と粘つく音。
疑問は浮かぶが、確認する気力もない。
魔物の血か、それとも人のものか――もう、どうでもよかった。
視界の隅に、戦場の残像が流れる。
紅の嵐を巻き起こすニルファ。
黄金の光を振るうシグ。
そして――フギンを操り、戦況を支えたルーン。
あの強さも、覚悟も。もう、二度と見られない。
胸の奥が鋭く締めつけられる。
「……なんで、俺は生きてんだ……」
頭の中で、自分を責める声が鳴り止まない。
戦況ばかりを見て、隣のルーンの顔も、声も、疲れも――何も見ようとしていなかった。
あの時、無理やりでも止めていれば。
後悔が渦巻き、心臓の鼓動が遠のいていく。
視界がじんわりと滲んだ。
頬を伝う涙だけが温かく、そのぬくもりが、ルーンの冷えきった体温を思い出させた。
顔を覆う。
今すぐ、このまま終わってしまいたいと思った。
「……結局、守れず仕舞いか……」
誰かを守るのに、力なんて関係ない。
それを分かっていたはずなのに、俺は守れなかった。
脳裏に過去の光景が流れる。
孤児院で共に過ごした日々。
笑い声、穏やかな眼差し、祈りの声――全てが遠く、手の届かないものになっていた。
脱力して、顔から手を下ろす。
その瞬間。
――視界の端で、微かに緑が揺れた。
幻覚か。
いや、違う。
緑光は揺らめきながら形を保ち、尾のような残光を引きつつ、確かにそこにあった。
心臓が早鐘のように打ち始める。
胸の奥で固まっていた感情が、ゆっくりと溶け出した。
「……フギン……?」
その緑は、ルーンのように静かで――どこか、優しかった。
声が震える。
俺の声に反応したのか、フギンがゆっくりと近づいてきた。
そして、淡く明滅する。
「……ぁ……」
気づけば、縋るように手を伸ばしていた。
緑光に触れた――その瞬間。
「……がっ……ぁ……!」
指先から腕、背中、胸へと、熱と冷気が一気に流れ込む。
体は火に包まれたように熱く、同時に氷のように冷たい。
心臓が暴れ、喉が詰まる。
胸が締めつけられ、頭が揺れる。
視界がぐにゃりと歪み、光と影が交錯する。
世界が遠のく。
体から力が抜ける――いや、逆に重く沈む。
魂が体から引きはがされるような感覚。
意識がすっと引きずり抜かれていった。
「……ルーン……」
視界が白く染まる。
目を開ける。
「……あ?」
そこは、果てしなく広がる木の床――いや、木そのものの上だった。
見渡す限り、無数の幹が林立し、枝葉の先は霞の中に溶けている。
世界の境界すら見えない。
「ここ……どこだよ……」
呟いた瞬間。
《――落ち着きなよ、トネリコ。相変わらず大げさだねぇ》
《――お喋りするの?久しぶりだねっ!》
上を見る。
巨大な葉の上に、双頭の蒼い化けカラスが佇んでいた。
《ふむ、今回はずいぶん間抜け顔だね、トネリコ》
《女の子見てその反応!?失礼しちゃう!》
直感でわかった。
この二羽――いや、この二つの頭を、俺は知っている。
「……フギン……ムニン……か?」
《今更かい?忘れっぽいのは相変わらずだねぇ》
《フギンはともかく、ムニンは覚えててよ!ねぇ、トネリコっ!》
左の頭――フギンは冷静で皮肉屋。
右の頭――ムニンは陽気で、感情的。
同じ言葉でも、テンポも熱量もまるで違う。
「二人同時にしゃべんな! 耳が死ぬ!」
《無理無理。体は一つなんだから》
《無理無理! 生理現象だもん!》
頭が痛くなるが、それ以上に気になることがあった。
「フギン!お前……ルーンを、殺しやがったな、この糞ったれがっ!」
《殺してないよ。ただ、少し食べすぎただけ》
《そうそう! フギンってそういうとこあるんだよねー!》
聞き逃せないワードに耳が反応する。
「……は? ルーンは……死んでないのか!?」
《理屈で言えばね。生命反応はもうない》
《死んでるけど、生きてもいるんだよ!》
意味がわからない。頭が混乱する。
だがフギンたちは構わず続けた。
《時間ないから手短に話すよ》
《パパッといこう! めんどくさいもんね!》
《もうすぐニーズヘッグが復活する。君は止められない》
《あいつが来るよ!ユグドラシルを齧る迷惑龍!気をつけてねっ!》
《ここに呼んだ理由はひとつ。目覚めたら、ママを守ること》
《せっかく呼んだんだから!絶対にママ、守るんだよっ!》
――ママ。ルーンのことか?
「どうすりゃ、俺はルーンを守れる……!?」
《自分で考えなよ……って言いたいのは山々だけど》
《格好悪ーい!ママってば、トネリコのどこが良いんだろ?》
《特別サービス。ママを絶対に離すなよ》
《特別サービス!死んでも離さないでよねっ!》
左手がズキリと痛む。
掌を見れば、黄金の亀裂が走っていた。
誰がやったのかは明白だ。
「おい、これ何だ!?これだけじゃなにも――!」
《時間切れ。じゃあ、ママをよろしく》
《ばいばーい! ママのこと、よろしくねー!》
言葉を浴びた瞬間、全身の力が抜ける。
視界が暗転し、意識は深い闇の底へと沈んでいった――。
フギンは緑の小鳥。ムニンは青の水滴。
二人を出すと、緑+青で蒼になります!




