9:共に踏み出す(1)
街中の灯りが、一斉に消えていく。
日が沈み、夜が街を包んだ。
衛兵の怒声、警鐘の音、逃げ惑う人々の足音――。
全てが混ざり合い、頭の中が白く染まっていく。
俺はただ、立ち尽くしていた。
「トネ、行こう」
ニルファが手を握る。
強く、迷いのない手だった。
それなのに、思わず俺は身を引いてしまう。
「……トネ?」
俺の震えが伝わったのだろう。
ニルファはじっと、俺の目を見ていた。
その瞳が、ほんのり紅く光る。
まるで、内側から何かが呼びかけているようで――。
怖かった。
紅蓮の光が、俺たちを飲み込もうとしている気がした。
「大丈夫だよ。あたしが守るから」
「……守る?」
「うん。絶対に。約束っ!」
ニルファの弾ける笑顔に、冷たかった恐怖がゆっくり溶けていく。
――守る、か。
両頬を叩く。
乾いた音が夜気に響いた。
「ト、トネ……!?」
ニルファの瞳が揺れる。
守ると誓ったばかりなのに、心配させてどうする。
取り返すように、彼女の手を力強く握った。
「悪い。ちょっと、ビビってた」
にやりと笑うと、少し間を置いて、ニルファもにっこりと笑い返す。
「全然大丈夫! あたしに任せて!」
「頼むぜ、相棒。情けない俺を、引っ張ってくれ」
「任されましたっ!」
深呼吸をひとつ。
固まっていた身体が、少しずつほぐれていく。
視線を離し、仲間たちに目を向ける。
「待たせたな」
ルーンが静かに微笑む。
「頑張ったわね」
「……そうかな?」
「そうよ。自信を持ちなさい」
頷く。
ルーンが言うなら、きっと間違いない。
「……ふふっ」
「どうした?」
「貴方は、いつだって私を信じてくれるのね」
「当たり前だろ」
仲間の言葉を信じなくて、どうする。
それがルーンの言葉なら、なおさらだ。
「出会った時のことを思い出すわ」
ルーンが静かに言葉を重ねる。
「貴方の信頼が、私たちを支えてくれる。
貴方は、自分を無力だと思っているかもしれない。
でもね――誰よりも仲間を信じるその心こそが、本当の強さなのよ」
「……お前が言うなら、きっとそうなんだろうな」
「ええ。それに……そう思っているのは、私だけじゃないはずよ」
ルーンがシグに目を向ける。
シグは静かにうなずいた。
「ルーンの言う通りさ。トネリコ、僕たちはいつも君に支えられているんだ」
「シグ……」
「行こう。僕も、たまにはいいところを見せないとね」
シグの笑顔に、安心が体を包む。
そのおかげで、俺も――立ち上がる覚悟が湧いた。
「ああ、行こうぜ。なにが来たって、俺たちならきっと勝てる」
四人で走り出す。
目的地は南門。
人波をかき分け、突き進む。
大通りを抜けると、人の数が減った。
南門が近づくにつれ、血生臭い気配が鼻を刺す。
門前には冒険者や衛兵たちが集まっていた。
人間、獣人、ドワーフ、エルフ――種族もさまざまだ。
皆、忙しなく準備を進めている。
剣を抜く音。
精霊が舞う気配。
荷車の武具がカチャカチャと鳴った。
「さっきまで、祭りだったってのに……」
思わずつぶやく。
たった数時間で、世界が変わったみたいだ。
ギルドの手練れの冒険者たちでさえ、顔に余裕はない。
俺たちは広場を抜け、門へと歩を進める。
「――トネリコじゃねぇか」
呼び止められ、振り向くとドワーフの男が立っていた。
「アンタも来てたのか」
手をあげて応じる。
ギルドで何度か言葉を交わした顔見知りだ。
「まぁ、仕方なくな」
「……なぁ、この街になにが来てるってんだ?」
男は門の方を顎で指した。
「実際に見た方がいい。言葉じゃ、あれのやばさは伝わらん」
「そんなにか?」
「……ああ。逃げ出したくなるくらいには、な」
手を振って別れようとすると、背後からもう一度声が飛んだ。
「お前さんは街で待っていた方がいい!
……戦えない奴には、あれはちと酷すぎる!」
振り返ると、男は仲間の元へと去っていくところだった。
「トネ、早く行こう」
「……あぁ」
門へと辿り着く。
その瞬間、空気が変わった。
「――地獄ね」
ルーンが小さくつぶやく。
門の外。
森に、どす黒い霧が立ちこめている。
その奥で、なにかが蠢いていた。
霧の中には、巨躯、異形、獣、そして――。
「確かに、言葉じゃ伝わんねぇな」
息を呑む。
そこにいたのは、龍の形をした『なにか』だった。
腐りかけた鱗が剥がれ、骨が覗いている。
肉の代わりに、黒い泥のような影が脈動しながら流れ落ち、地面を染めていく。
影は生き物のように蠢き、龍の脚を這い、尾を伝っていた。
瞳はもう光を失っている。
そこには、真っ黒な空洞だけがあった。
「スタンピード、ね……」
ルーンの言葉どおり、それは地獄の光景だった。
地平を埋めつくす魔物の群れが、この街に向かってくる。
圧倒的な冷気と圧力が肌を刺した。
もはや、それは『群れ』ではない。
街を滅ぼす『軍勢』だった。
誰も口を開かず、静寂だけが広がる。
ニルファが俺の腕を掴んだ。
快活な笑顔は影を潜め、恐怖と決意が入り混じっている。
「……トネ。先に、宿に戻っといてくれる……?」
なにを言われているのか、理解できなかった。
「は?」
「あいつら倒したら、すぐに帰るからさ。だから――」
「――ニル」
ルーンが間に入る。
「それを決めるのは、トネよ」
「……っ! でもっ……!」
「この際、戦えるかどうかは問題じゃないの。
貴女がそれを言ってしまえば、トネがここに居る理由はなくなってしまうわ」
「……だ、だけどぉっ……!」
ルーンの言葉が胸に刺さる。
その通りだ。
俺がここに立っていられるのは――ニルファが、俺を必要としてくれたからだ。
ドワーフの男の言う通り、俺は本来ここにいるべき存在じゃない。
実際、周囲の視線は冷たく突き刺さる。
それでも、俺がここに立てるのは、ニルファがそう望んだからだ。
その理由を、彼女自身の言葉で奪われたら――俺は何者にもなれなくなる。
「宿に戻れ、か……」
天を仰ぐ。
ニルファは、俺を危険から引き離そうとしている。
ルーンは、俺の意志を受け入れようとしている。
なら、シグはどう思っているのだろうか。
「お前は、どう思ってるんだ?」
「……僕かい?」
「打算なしで、正直に答えてくれ」
少しの沈黙ののち、シグはゆっくりと目を開いた。
「――共に、戦ってほしい」
「シグ!? なに言って――!」
「止めなさいっ!」
ルーンの一喝に、全員が息を呑む。
「ルーン……?」
ニルファは、信じられないという表情をルーンに向けた。
俺とシグも、言葉を失う。
ルーンが、あんなふうに怒るのを――初めて見た。
「ニル。貴女はいま、大きな過ちを犯そうとしているわ」
「なんで……なんで、ルーン……?」
ニルファの目に涙が滲む。
それでも、ルーンの瞳は揺らがなかった。
「最後まで、黙ってシグの話を聞きなさい。それから、トネの話も」
「嫌だっ! なんでそんなことを――」
「――ニル!!」
「……っ!?」
ルーンの声が空気を震わせた。
強い意志が、ニルファの言葉を封じる。
驚愕で目を見開いたまま、涙がニルファの頬を伝い落ちる。
「なんで……」
ニルファが小さく俯く。
ルーンはようやく表情をやわらげ、静かに歩み寄った。
そっと手を伸ばし、ニルファの頭を撫でる。
ニルファは最初、ビクリと体を震わせたが、その震えは徐々に収まり、やがて顔を上げた。
ルーンは膝を折り、視線を合わせて穏やかに微笑む。
「ニル。私の話を、聞いてくれる?」
まるで、幼子を諭すような声だった。
「……うん」
「ありがとう」
ルーンはニルファを抱きしめる。
驚きで固まる彼女を、そっと包み込むように。
「怖かったわよね。ごめんなさい」
「……うん」
「私は、ニルが大好きよ。世界で、二番目に大好き」
「一番じゃないの?」
「……ごめんね。一番はもう埋まってしまっているの。
でもね――もし、どちらかを選ばなきゃいけないなら、私は迷わずニルを選ぶわ」
「……変なの」
「ふふっ、本当よ」
ルーンが笑う。
ニルファも、小さく笑った。
「ねぇ、ニル。
貴女はトネのことが心配で仕方ないのよね?
トネのことが、世界で一番大好きだから」
「……うん。あたしは、トネが世界で一番大好き」
頬を掻く。
だが、今は俺の出番じゃない。
それくらいは、わかっていた。
「あらあら。はっきり言われると、妬けちゃうわね」
「ごめん。でも……二番目は、ルーンだから」
「まぁ、本当? ありがとう。……すっごく嬉しいわ」
ルーンは抱きしめていた腕をそっとほどき、ニルファの顔を見つめた。
「ねぇ、ニル。シグとトネの話を、最後までちゃんと聞いてあげてほしいの」
「でも……怖いよ……」
「そうよね、怖いわよね。
その気持ちを教えてくれて、ありがとう。
人の話を最後まで聞くのって、とても勇気がいることよ」
ルーンは、ニルファの涙を指先でそっと拭った。
「でもね――人は、そうやって少しずつ強くなるの。
誰かと向き合って、立ち向かって……時には負けてしまうこともある。
それでも前に進もうとすることで、一歩ずつ成長できるのよ」
「前に……?」
「ええ。人は、前に踏み出すことで強くなっていく。
その機会を、他の誰かが奪ってはいけないわ。
どんなに怖くても、見守ってあげる。
助けてって言われたら、その時に支えてあげる。
――辛くて、苦しくて、怖いけれど。
それでも、そうしていくことで初めて、
人は前を向いて笑い合えるの。
誰かと繋がり、共に生きていけるのよ」
「……よく、わかんない」
「ふふっ、少し難しかったわね。
けどね、私――嬉しかったの。
わからない話を、最後まで聞いてくれたでしょう?
ありがとう、ニル。
私の話を、ちゃんと聞いてくれて。……私は、貴女が大好きよ」
「うん……私も、ルーンが大好き」
ルーンは、微笑みながらその手を包む。
「シグとトネの話も、最後まで聞いてあげて。
もし途中で苦しくなったら、その時は私が必ず助ける。
だから……私を信じてくれないかしら?」
「……わかった。あたし、ルーンを信じる。ちゃんと、聞く」
ニルファはルーンの袖をぎゅっと握り、涙の跡を拭った。
「もし嫌になっちゃったら……ルーン、助けてくれる?」
「もちろんよ。言ったでしょう――私は、ニルが大好きなの」
ルーンは微笑みながら、もう一度ニルファの頭を撫でた。
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