プロローグ:世界の始まり
『世界樹ユグドラシル』が信仰される異世界。
その片隅にある街――ヘイズへと、俺は立ち寄った。
ヘイズの中心部にあるダンジョンを、龍の傷跡と呼ぶ。
魔物を狩る冒険者も多いが、俺には縁のない話だった。
日本生まれ、日本育ち。
そんな俺が、魔物と戦えるわけがない。
この世界で目覚めて、もう二年。
帰る術もなく、日雇いで食いつなぐ日々。
まともな食事もままならず、冬の寒さに震える日もあった。
どこにも居場所はなく、街から街へ流れるように暮らしていた。
「飽きたな」
ヘイズの大通りには、出店が立ち並ぶ。
獣人の店主と、エルフやドワーフの旅商人たちが、手振りでやりとりをしていた。
乾いた肉や香辛料の匂い、金属の鈍い響き。
あんなに賑やかなのに、俺だけが別の世界にいるみたいだった。
ボロ布のような旅荷物を背負い、街の中心部に足を運ぶ。
吹き込む風に、秋の寒さが身に染みた。
魔物がはびこるこの世界では、安全すら金で買うしかない。
行商に同乗料を払って街を出るのが、旅を続ける唯一の方法だった。
世界が、灰色に色褪せて見えた。
そして、そんな世界が永遠に続くと思っていた。
――けれど、その日。
俺は、太陽と出会った。
道端の影に、幼い少女がいた。
死んだように動かない。
息遣いもなく、まるで影の一部のように佇んでいた。
気にせず通り過ぎようとして、足が止まった。
目が合った瞬間、懐かしさが胸をかすめたからだ。
――なぜか、胸の奥がぎゅっと締めつけられるようだった。
少女もまた、驚いた顔でこちらを見ていた。
「……誰?」
紅蓮の瞳が、胸の奥を焼いた。
「……お前こそ、誰だよ」
「あたし?名前なんてない」
「名前がない?」
小学生くらいの子供だった。
髪はボサボサで、服もボロボロ。
砂埃まみれの手足が、痛々しく見えた。
「親はどうした」
「……なに、それ?」
「生んでくれた人とか、育ててくれた人とか」
「そんな人、知らない」
「なら、面倒見てくれるやつは?」
「いない」
「一人くらいは、いるだろ」
「いないよ」
言葉に詰まる。
どうして、こんな小さな体で生きてきたのか、想像もつかない。
「お前、今までどうやって生きてきたんだ?」
少女の指先が、街の中心部を差す。
意図が掴めず、首を捻る。
「あっちには、ダンジョンくらいしか――」
「そう」
「……は?」
「あの中に、ずっといた」
思考が止まる。
何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
「魔物を殺して、食べてた」
「……」
一瞬、冷たいものが背を走った。
淡々と話す様子が、嘘ではないことを示していた。
「なんで、ダンジョンから出てきたんだ?」
「……なんでだろう」
「わかんないのか?」
「うん」
首を傾げる様子に、自分の姿が重なって見えた。
少女は、黙ってこちらを見上げている。
その顔に、どうしようもない既視感を感じて、目をそむける。
「ねぇ」
「……なんだよ」
「貴方も、一人なの?」
胸を鷲掴みにされたようだった。
言葉を返せず、逃げるようにその場を離れようとして――手を、掴まれた。
「離せよ」
「嫌」
「なんでだよ……」
頭を掻く。
少女に握られた手を伝って、胸がほんのりと温かくなる。
最後に人と触れ合ったのは、いつのことだったか――
「くだらねぇ」
なにを考えているんだと溜息を吐く。
「……」
屈んで、少女と目線の高さを合わせる。
貧相な体をじろりと見渡す。
震える指先、細い肩。とてもじゃないが、強そうには見えなかった。
「魔物、殺せんのか?」
「うん」
「……ゴブリンとか?」
「熊とか」
「熊殺せんのかよ……」
その小さな体が、まさかと思う。
けれど、この世界において、強さと見た目が比例しないことを知っていた。
「そんだけ強いなら、冒険者になるといい」
「冒険者?」
「少なくとも、今よりはマシな生活が送れるようになるだろうよ」
「わかった」
素直に頷く少女に、思わず笑ってしまう。
日本だったら、子供になにを言っているのかと問題になっていたことだろう。
けれど、この世界ではなにが起きても自己責任だ。
俺とこいつの立場に、なにひとつ違いなんてない。
「頼りになるのは、自分だけだ」
「……」
「強く生きろよ」
まるで、鏡の中の自分に話しかけているようだった。
気持ちが揺らいでいるのがわかる。
手を振り払って歩き出さなかったのが、なによりの証拠だった。
「元気でな」
立ち上がろうとして――動けない。
少女に掴まれた手が、固く結ばれていたからだ。
無言で少女を見ると、その口元がきゅっと引き締められているのがわかった。
次第に、その両目から、ぽろりと涙がこぼれる。
「なに、泣いてんだよ……」
涙が地面を濡らす。
嗚咽する姿から、目を離せなかった。
少女の押し殺したような泣き声だけが、静寂に響く。
理性が必死に止めろと叫ぶ。
同情は無力で、感情に従えば足手まといになるだけだと、頭の中で声高らかに説得してくる。
――だが、胸の奥を這う熱は、それを無視して暴れ出す。
泣きじゃくる声が耳に残り、震える指先が視界に映るたび、心臓がぎゅっと締めつけられる。
呼吸が詰まりそうになり、自然と息を呑む。
目をそらせば楽なのだ。
立ち去れば、自分の生活はそのまま続けられる。
理性と感情がぶつかり合い、火花を散らす。
溜息を吐く。
思えば、足を止めた瞬間から、この感情は避けられなかったのかもしれない。
まるで運命に手を引かれるかのように、自然とこの場に立ち止まり、彼女の側にいる自分がいた。
理性は必死に抵抗するが、感情の熱はあまりにも強く、抑えきれずに膨れ上がる。
独りぼっちで泣いている少女を、俺は、どうしても放って置けなかった。
胸の奥で渦巻く熱は、冷めることなく、ただただ燃え広がるばかりだった。
「一緒にくるか?」
気づけば、言葉がもれていた。
その言葉に、少女が涙を流しながら顔をあげる。
わずかに震える唇と、紅蓮の瞳が、こちらをまっすぐに見つめていた。
「……いいの?」
涙に濡れた瞳がこちらを映す。
――まるで、透き通る光のように。
「ちょうど、護衛が欲しかったところだしな。つっても、報酬は出せねぇぞ」
「うん……うん……っ!」
止めどなく溢れる涙を拭ってやる。
すると、少女も同じように、俺の頬に手を伸ばしてきた。
「俺は泣いてねぇよ」
「……泣いてるよ?」
「――あ?」
気づけば、俺の頬を涙が伝っていた。
呆然としていると、再び少女の手が伸びてくる。
思わず払いのけようとして、途中で手をとめる。
「俺は、いいって……」
「ダメ。あたしが、やりたいの」
されるがまま、幼い手が頬を伝う。
「えへ。これで、もう大丈夫」
にっこりと笑うその顔は、泣き顔の面影を残しつつ――
まるで、太陽のようだった。
「……あ」
思わず息を呑む。
――世界が、一瞬で色づいた。
透き通る空、活気ある街、人々の笑顔――
すべてが、鮮やかに輝きを取り戻す。
灰色の世界は、目の前の少女に照らされ、生き返ったように光る。
温かさが胸の奥までじんわりと染み渡る。
「名前」
気づけば、言葉がもれていた。
「名前?」
「……ないと不便だろうが」
「でも、あたし」
「知ってる。だから、今決めんだよ」
少し考えて、ぱっと思いついた名前は、口には出さずに却下した。
今の少女には、なんとなく似つかわしくない気がしたからだ。
だから、思いついた名前を少し変えて、彼女に贈ることにした。
「ニルファ」
「にるふぁ?」
「お前の名前。気に入ったか?」
「うん……うんっ!あたし、ニルファ!」
笑顔ではしゃぐ少女――ニルファの瞳が、ふと、俺を捉えた。
「名前、なんて言うの?」
「忘れた」
「あたしと一緒?」
「似たようなもんだな」
ニルファの表情が喜色に染まる。
「あたしが、決めてあげるっ!」
少しの間考える素振りを見せた後、ぱっと顔色が華やぐ。
「トネリコ!」
「トネリコ?なんつーか、変わった名前だな」
「じゃあ、別のにする」
不貞腐れるニルファに、つい笑ってしまう。
「それでいい」
「変なんでしょ?」
「妙にしっくりくるんだ。だから、それでいい」
「そう?なら、決定っ!」
手を繋いで、二人で大通りを歩く。
「ずっと一緒にいようねっ!」
「気が変わらないうちは、な」
「だーめっ!あたし、もう決めちゃったもんねー!」
太陽に、冷え切った心が溶けていくのを感じる。
気づけば、秋の寒さも気にならなくなっていた。
街のざわめきも、風の冷たさも、いつしか遠くへ消えていく――
――その光が、いつか夜を裂く紅蓮となることも知らずに。
ここまで読んでくださって感謝です。
第8話まで一括更新しましたので、感想や☆などいただけると嬉しいです!




