結城琥太郎の秘録
暇で書いてみました。
思い返してみれば、あれはまさしく一目惚れだった。初めて人を心から美しいと思った。あの瞳には人を惑わす力でもあるんだろうかと思うほど吸い込まれそうだった。あんな経験、後にも先にも一度だけだ。それほどの衝撃だった。あの一瞬、あの空間、周り全てが確かに静止していた。入学式特有の和やかな、あの浮かれた雰囲気も、周りの喧騒も、満開に咲き誇る桜も、全てが遠のく感覚。自分とあの人だけがこの世界に存在しているのではないかという錯覚に陥った。
高校へ入学して間もないある日の放課後、結城琥太郎は頗る機嫌が悪かった。
「自慢じゃないけど、俺は人と関わるのが大嫌いなんだ」
「なぜ得意げなんでしょう」
「まずそもそも人間が大嫌いでさ。用がないなら話しかけないでくれる?」
「ではそんなに嫌いならなぜ結城くんは人間界に…いえ風紀委員に?」
「むかつくね、君。人間だからに決まってるだろ。君こそ人の話を聞かない星から来た宇宙人じゃないの。…寝てる間に押し付けられたんだよ」
「お可哀想に。友達と呼べる人も居らず寝たふりをして休み時間を凌いでいるんですね。御愁傷様です」
「なんなの君」
一階の端にある教室からゾロゾロと風紀委員たちが出ていく。その中の一人である結城は顔を顰めながら歩いていた。横にいた彼女はそんな彼を見て、寝てたあなたが悪い、と呆れた顔をした。
結城は人嫌いの割に口数が多かった。嫌いな分、文句も多いのだ。
この学校の風紀委員会は他の委員会に比べて活動も多く、色々な人と関わらなければいけない。結城にとってそれは地獄であった。そのため初回の委員会でたまたま隣に座って話しかけてきた彼女に八つ当たりしていた。
しかし彼女は結城の棘をのらりくらりと躱しつつ丁寧な物腰でアッパーを入れてくるような好戦的な女だった。
結城琥太郎は大変面倒くさい性格をしている。彼は他人に興味がなく、生産性のないことに意味を見出せない、加えて変にこだわりが強く、職人気質の頑固ジジイのような、青春真っ盛りの高校生にあるまじき性格だった。オブラートという言葉など俺の辞書にはないとでもいうようなきつい物言いに加えて冷血漢で完全無欠な結城に、当然周りも近づかず距離をとっていた。
ところが結城と同じ風紀委員となった彼女は、彼の気難しい性格をものともしなかった。人との距離感の取り方が上手いのか、それともただ図々しいだけなのか、気づいたら懐に勝手に入られている、そんな人だった。いや、結城は懐に入れたつもりはこれっぽっちもないが、周りから見れば結城が手懐けられている様に見えた。
結城には珍しく、彼女との会話は一分以上続く。たかが一分と思うなかれ、この学校で彼と会話が十秒以上続く人が物理教師の橘充御年五七歳と彼女を除いて他にいない。それほどに結城の性格は周りから見て面倒くさかった。
そんな彼の相手を飽きずし続ける彼女は由緒正しいお家柄の血筋らしく、教養があり、一つ一つの所作が美しかった。たおやかな彼女の一挙手一投足は周りの目をよく引いた。傷みを知らない艶やかな長い髪を持つ彼女は誰にでも分け隔てなく接し、笑うと百合の花が綻ぶようで誰もが釘付けになる、まさに高嶺の花だった。
そんな彼女は、結城が初めて同年代で話して楽しいと思える人だった。会話のテンポが良く、お互いざっくばらんに話すので心地よいのだ。趣味嗜好が非常に似ていて、そして喋っていると意外と腹黒く強かな女であるとわかった。そこもまた面白かった。彼とまともに話せるのは彼女だけなので、自然と二人が一緒にいる時間は増えた。結城は認めなかったが、誰がどう見ても二人はすっかり親しい友人であった。
それから二年と七ヶ月後。
受験真っ只中の高校三年生となった現在でも二人の交友関係は概ね良好である。概ねというのは、結城はその歯に衣着せぬ物言いと、思いやりや愛想を母の胎の中に置いてきていて、さらには余計な一言は多いのに大事なところで言葉足らずであるため、一度だけ彼女をブチ切れさせたことがあるのだ。
普段怒らない人が怒ると恐ろしいと言うのは本当だったのか、と怒りの矛先が自分であることを忘れ、静観していたためさらに怒られた。あれは怖かった。気をつけよう。結城は反省した。
この三年近くで、驚くべきある変化が生じた。
あの朗らかで掴みどころのない彼女と一緒に長いこといたせいか、結城の性格が大変丸くなっていた。無駄なことを切り捨てるばかりは勿体無いと、彼女と過ごすうちに気づいたからだった。無駄を楽しむことを彼女は結城に教えてくれた。
他人にほんの少しミジンコレベルだが興味を持ち始め、愛想が良いとまではいかないが、クラスメイトとなんでもないような雑談を出来るまでになっていた。
今でこそ捻くれているが、彼はもともと遠慮がない分周りにも寛容な性格を持ち合わせていた。それが彼女のおかげで垣間見えるようになり、それに加え眉目秀麗・成績優秀・スポーツ万能の三拍子により、二年生に上がる頃には結城の人気はすごかった。彼の人嫌いはその女子たちからの熱狂的な好意が起因しているため、騒ぐ女子に対する対応はそれはそれはもう酷かった。それを目の当たりにして、あぁ、これが人でなしかぁ、と横で呟いた彼女のお墨付きである。
多少マシになったとはいえ相変わらず結城の人間嫌いは治ったわけではなかった。他愛もない話をする仲の友人はできても、深く関わる人間を彼女以外に作ろうとはしなかった。彼女と過ごす時間に対して、人間嫌いにあるまじき安寧と安らぎを感じていた。
入試もそう遠くなくなった十一月の初旬頃、結城は彼女と放課後に図書室で勉強していた。
「ねえ、なんで隠すの」
「なんでも」
「そう頑なにされると余計気になる」
「合格したら教えてあげる」
彼女は志望校を結城に教えてはくれない。理由はわからない。自分たちが通う高校は都内でも有数の進学校だ。進学先は自分と同じでなくても都内の有名な難関大学だろう。自分の志望校からそう遠くはないはずだ。結城はそう思い聞き出すのをやめた。
それに彼女とは、高校を卒業して別の大学へ行ったとしても、社会に出てからも、ずっとこのまま関係が途切れないような気がしていた。
それからはお互い集中していて、気づけば分針が一周していた。結城は休憩ついでに飲み物を買うため席を立った。
それを見て向かいに座っていた彼女はミルクティー、と言った。
「分かってる」
図書室をでて同じ階にある自動販売機の前で何を飲むか悩んでいた最中、結城の後ろを女子数人が通り過ぎる。彼女の話をしていた。女子たちは喋るのに夢中で結城に気づかない。
「ねえそういえばあの噂聞いた?」
「何の話?」
「ほら、一組のお嬢さまの!」
結城は今し方自分の耳を疑った。
あの子、来年フランス行っちゃうんだって。幼馴染みの財閥子息と婚約してるって。
「えー財閥とか漫画じゃん、世界違いすぎ」
そんな声が後ろで聞こえた。
心臓が何かに抉られる音がした。呼吸が荒い。今までになく動揺しているのが自分で分かった。いや待て、あの女子が言うようにそんな漫画のような話があるだろうか。しかもジャンルは少女漫画の中でも蜂蜜を砂糖で煮たような甘ったるい胸焼けを起こすようなやつだ。妹が持っていたのだ。自分も無理やり読まされたので知っている。ご都合主義甚だしく実にくだらなかった。妹に感想を求められたので全巻しっかり読破してから馬鹿馬鹿しいと一蹴した。あんなのに夢中になっている妹の将来を心配したのも覚えてる。あいつは脳内が常日頃からお花畑なので最近本気で心配している。現実逃避するあまり思考が逸れた。そもそも彼女から何も聞いていない。もし本当なら自分に一番に言うはずだ。いや、本当だとして別に自分には何の関係もないじゃないか。そうだ、何も気にする必要はない。だからどうしたというのだ。そう自分に言い聞かせている時にはすでに足は彼女の元へ急いでいた。千円札は自動販売機に入れたままだった。
逸る気持ちを抑えながら、図書室へ結城は足を早めた。
なぜ彼女は何も言わない。ただの噂だからか。いやわざわざそんなデタラメを流すメリットがない。彼女にとって自分はその程度の存在なのか。なぜ自分はそんなことを気にするのか。普段は冷静でまとまっている結城の思考は、ぐちゃぐちゃだった。
図書室のドアは開けっぱなしで、彼女以外は誰もいなかった。椅子に姿勢良く座り、ノートを広げ難解な計算式をすらすらと解いている彼女がいた。最近はすっかり日も短くなりマフラーが欲しくなる寒さだ。窓から覗く西日が眩しかった。
綺麗だと思った。結城は思わず目を細めた。
何て声を掛けようか迷いながら、ぼーっと眺めていると、彼女が人の気配に気づき顔を上げこちらを見遣った。
それまで色々な感情思考がごちゃ混ぜになって判然としなかったのに、あ、こたろう、と自分だけに向けられたふわりと百合のように笑う顔を見た瞬間、結城は、あぁ、と思った。
この人には、敵わない。
彼女のことがどうしようもなく好きなんだと、自覚してしまった。こんなこと気づきたくはなかった。今まで人に敗北感を感じさせることはあっても感じたことはなかった。それが彼女の前では彼女のことを好きになるたびに味わっていた。おそらくずっと前から抱えていた気持ちに、自分は人より理性的でそんな無駄な感情を持ち得ないと思いたかったのに、今気づいてしまった。わかってしまった。
自分は一生、彼女の笑顔に敵わないんだとわかってしまった。
「ねえフランスに、」
「なあに」
「…いや、
俺は、頭が良い」
「はい?」
「それに要領も良い」
「はあ」
「将来は出世街道まっしぐらの予定だよ」
「左様でございますか」
「うん。それに身長も高くて、顔も良い」
「自分で言うの?」
「客観的な意見に基づいた事実でしょ。どう、世間で言うこの上ない“優良物件”だと思わない?」
「そうね」
「…俺は花なんて興味はないけど」
そう呟きながら彼女のもとへ近づき、真っ直ぐ見つめた。
「百合の花は、結構好きなんだ」
彼女の頭にははてなマークが浮かんでいた。
何も伝わっていない様子の彼女に結城は眉を顰めた。相変わらず彼は言葉が足りなかった。
仕方がない、もっと簡潔にわかりやすくしてやろう、と結城は少し考える仕草をし、口を開いた。
「俺は人間が嫌いだ」
「知ってる」
「でも君のことは大好きだ」
「だから知って…は?」
「だから、ずっとそばにいてほしい。かや、行かないで」
これで流石に伝わっただろうと、結城は椅子に手をつき屈んで彼女の顔を覗き込んだ。彼女が自分の瞳に弱いことを彼は知っていた。
彼女の顔を見て、結城はその目を大きく見開いた。
彼女の顔が茹で上がったように真っ赤に染まっていた。
ゆでだこみたいだと結城は思った。しかしこれまでの経験から、こんなことを言えば拗ねて帰るまで口を聞いてくれなくなることも知っていた。
しかし普段は強かで人をおちょくってくる彼女が、こんなに取り乱しているのが可愛くて、新鮮で、普段の仕返しの意味を込めて揶揄いたかった。
だから彼は言った。
「(ゆでだこみたいで)かわいい」
すると彼女はさらに顔を赤くした。心なしか目が潤んでいる。なぜ泣く、結城はさらに覗き込んだ。
「泣いてるのか。なんで。どうして」
原因はお前だと言わんばかりにこちらを睨む彼女がとても愛らしく、結城は思わず笑った。
これ以上いじめると後が怖いと冷静な判断をした結城は、こんなの全く自分のキャラじゃない、と思いつつ自分が出せる限りの思いきり優しく甘さを含んだ声でもう一度言った。
「かや、好きだよ。付き合って。」
もうなりふり構ってはいられなかったのだ。自分がこんな声を出せるとは思わなかった。今日の夜は自分のキモさに耐えられずのたうち回り寝られないだろう事は分かっていたが、自分の睡眠時間を代償に彼女を引き止められるなら構わなかった。それにこんなに恥ずかしい思いをしてでもそばにいてほしいと思えるのは彼女だけだった。
するとしばらく固まっていた彼女が、その言葉を待ってましたとばかりに、咲くのを待ち侘びていた百合の花がようやく開花したように、泣いているようにも見える笑顔をこぼした。そして一言、喜んで。と。
その日の帰り道、彼女は横を歩く結城を視界に入れず前を見たまま、まるで独り言のように呟いた。
「フランスへ行くっていうのは両親の話なのよね」
「は?」
「私は日本出ないし婚約者なんかいないわよ。漫画じゃあるまいし。春から一人暮らしする予定だから。志望校も貴方と一緒」
「…謀ったな」
「人聞きの悪い。こっちは何年かけたと思ってるの。作戦勝ちと言って」
「…まってそれいつから?まさか最初から?
ん?まって」
「まってまって煩い」
「幼馴染も嘘なんだよね?漫画だもんね?」
「さあ」
本当はそんな人いないのだが、さっきの仕返しができたのが嬉しかったのか、彼の隣で彼女がコロコロと楽しそうに笑った。
西条伽耶、十八歳。彼女は二年と七ヶ月前、十五歳の時、恋をした。一目惚れだった。
思わず眠ってしまいそうな暖かい日差しと、程よい風に煽られながら、新しい制服に身を包み、期待と少しの緊張が混ざった顔をしている人たちの中で、私はあの人を見つけてしまった。
中学までは車で送迎してもらっていたが、高校からは比較的近くの公立に通うため、両親の反対を押し切り電車通学を選んだ。今日は入学式だが、両親は仕事が忙しく一人で行かなければいけなかった。一人で電車に乗るのは初めてだった。初めて通る改札に感動し、携帯で自分が乗る電車のホームを確認し、何とか電車に乗り込んだ。
しかし話には聞いていたが、思った以上に東京の満員電車というものは恐ろしく、殺傷能力が高かった。命を狙われる人の気持ちが分かった。このままでは三年以内に確実に死んでしまう。何とかしなければ。真剣に悩んでいるうちに学校の最寄りまであと一駅だった。なんとか人波を掻き分け最寄り駅で下車した私は、あんなに人に押し潰されたことはなかったので、人酔いしてしまった。入学初日の緊張も相まったのだろう。この距離なら家より学校の保健室で休んだ方がいいと思い、何とか学校まで辿り着いた。
やっと着いたと思って気を緩めた私の視線の先には、自分と同じ制服を着ている大勢の新入生とその保護者たちが集まっていた。せっかく治ってきた酔いが再発した。最悪だ。立っているのもしんどかった。どうしたものかと途方に暮れて、蹲りかけた時、誰かが私の上に影を落とした。
「ちょっと君大丈夫?」
耳元で低くすぎず高すぎず耳触りのいい落ち着いたテノールが耳に響いた。
見ての通り大丈夫じゃないから今倒れかけているのだ。察してくれ。貧血を起こしていたようで、体調不良からくる私のお茶目な捻くれ部分が出てきてしまい焦ったが、心配してくれた人にそんな失礼な口を叩くこともできないくらい視界も歪んで意識が朦朧としていた。
目が覚めてはじめに見えたのは保健室らしき天井だった。
「あら目が覚めたのね、気分はどう?よくなるまでいてくれて大丈夫よ」
優しそうなタレ目の保健医は、これまた一段と優しい声音で私に言った。
「ありがとうございます。もう大丈夫です。あの、誰がここまで…」
「そう、よかった。それが同じ新入生の子なんだけどね、彼、新入生代表なんですって。今頃登壇して挨拶してるんじゃない?」
途中から式に参加するのはなんだか気が進まなかったので、終わるまで保健室で過ごした。
式が終わる頃、保健医の先生にもう一度お礼を言って、保健室を後にした。
「おい君」
今日はもうゆっくり帰ろうと、ゆったりとした足取りで校舎の外に出ると、誰かに声をかけられた。
声で、わかった。この上からな感じ、間違いない。
振り向いてお礼を言おうと目を合わせた。が、感謝の言葉が私の口から出ることはなかった。
目の前にいた人の瞳が、あまりにも美しかったから。
時が止まったように私が見つめる視線の先の美術品のような綺麗な桑茶色の瞳には、私を映しているようでなにも映していなかった。
「おいってば。聞こえないの」
その声に現実に引き戻された。引き込まれ飲み込まれるような感覚に一抹の恐怖を覚え、私は彼の目から少し目を逸らした。
「…はい」
「もう大丈夫なの」
「はい。おかげさまで、なんとか。先程は本当にありがとうございました」
「うん」
そう短く返事をして彼は踵を返し行ってしまった。
惚けそうになる表情を取り繕うのに必死だった。必死すぎて自分がなんと言ったのか覚えていないが、お礼だけは言っていたような気がする。よくやった自分。
動悸が、興奮が、止まらなかった。頭はぼうっとするし、手足が震えている。貧血じゃない、これはきっと、もっと違う何かだ。
入学してからは、私の使える全てを使って彼の情報を集めた。名前は結城琥太郎。大学三年生の兄が一人と中学二年生の妹が一人。好きな食べ物は川上屋の栗きんとん。(こだわりが強いところもかわいい)中学まで弓道部で、全国制覇している。高校ではまだ部活動には所属していない。新入生代表を務めるほどの秀才で文武両道。趣味はチェスとスポーツ観戦。読書も好きなようだ。そして、人間嫌い。
入学式のことは、私にとっては一大事件でも、おそらく彼にとっては私の存在ごと忘れてしまうくらい些細な出来事だろう。彼はきっと私を覚えていない。その瞳に私を映してはいなかったから。でも、それでいい。無関心上等。人間嫌い上等だ。何がなんでも振り向かせる。あの瞳に、私を映してもらえるように。
一人で外堀を埋めるのは大変だから周りも取り込んでしまおう。大掛かりなぐらいでちょうどいいだろう。彼、人に興味がない分鈍そうだから。
まずは彼と接点を持つことから始めよう。
偶然同じ委員会ぐらいが自然でいい。
古代ローマでは百合は「希望」の象徴でした。「彼女の笑顔は百合のようだ」これはずっと結城が勝手に心の中で思っていたことなので、彼女に言っても伝わるわけがないんですよね。