第六十五話 『泡沫の夢と不屈の冒険者』
力に呑み込まれたノアの全身は燻る灰のように、ただひたすらと黒い煙をあげていた。
さっきまでの身体の膨張や黒い血のようなものもすっかり止まり、ただ静かに立ち上がり周囲を見渡す。
そんなノアと真っ先に目が合ったのはシグレだった。
「ちょうどいい……俺の為に殺されろよ」
そう言い、ノアが魔剣を雑に振り抜くと巨大な黒い斬撃が刹那な内にシグレの鎧を縦に真っ二つに切り裂き、後ろの地面と壁が深々と割れた。
「……は?」
「おっと、危ない。鎧が頑丈でよかった、遊んでからじゃ無いと……勿体無いからな」
「は? 何が起きた……この鎧には数え切れない程の付与を上書きしてんのに、一撃だぁ? ――ハッ、面白くなって来たじゃねーか!」
凍てつく氷の剣と灼熱の炎の剣を両手に持ち、壊れた鎧に柄だけの武器から溢れ出た血を纏わせる。
あからさまにハイテンションになった声と共に、青と赤の閃光を残してノアの身体を通り過ぎ様に切り裂くと傷口から氷柱が発生して身体を突き破り、その後に発生した火柱がノアの身体を包み込んだ。
「おいおい。もう、終わりか? ……んな訳ねーか」
燃える業火の中でノアは身体を突き破っている氷柱を抉り取り、身を焼いている炎がそれを溶かすより前に大きく開いた身体の穴が塞がる。
氷柱が溶けて空になった手に小さく渦巻く黒い煙が現れると、その渦に炎が全て吸われて消え去った。
焼けた皮膚が治癒していく中、ノアは首を傾げてシグレを見つめる。
「どうして手を休めるんだ、お前に立ち止まってる暇は無いだろ? 全力で死に抗ってくれないと、俺が楽しめない」
「ハッ、なんだ? 黒薔薇へと意趣返しのつもりか?」
「意趣返し? いいや、ただの"暇つぶし"だが? 弱者がもがき苦しむ様はなんとも愉快なものだからな」
「何だお前、アイツとおんなじ事抜かすじゃねーかよ。それに今までそんな事思いながら"人助け"してたのか? 悪趣味だなぁ、随分と……あ、なるほど! だから、残されてる依頼ばっかり受けて依頼主が苦しむ様を間近で」
「――ふざけてないで!」
シグレの言葉を遮ってアイリスが大声をあげると、ノアの動きが一瞬止まった。
「何、キレてんだ。本人が言った事だろ? お前も加担してたからバレるのが嫌か? 偽りの善人さんよ」
「違います! 今の兄さんは"力"に影響されて、おかしなことを」
「類は友を呼ぶって言うもんなぁ〜。よし、それじゃあ今から俺は正義に目覚めたって事で、今回の一件も全てお前らの仕業って事で報告しとくぜ。――死ね、悪党共! 【氷炎・極双竜】」
凍てつく氷の剣と灼熱の炎の剣が氷と炎の巨大な竜へと形を変えて、咆哮と共にノアへと放たれる。
竜は周囲を氷と炎の世界に変えながら突き進むが、ノアに触れた瞬間に霧散して消えた。
「おいおい、ありかよそんなの」
「なんで……生きてんだ? 化け物」
「――え?」
渾身の技をいとも簡単に消されたシグレは目を見開いて声を漏らし、ノアが誰に対して言ったのか分からない呟きを聞き取ったアイリスは頭の中でノアが自分に切り掛かってくる光景が見えた事に驚く。
「お前は殺さないとダメなんだ……"――"が目覚める前にッ!」
「今、なんて?」
ノアの言葉は一カ所だけプツリと聞こえなくなり、なんと言ったのかを尋ねると同時にノアの姿は消えた。
しかし、先ほど見た"光景"と全身で感じる"嫌な気配"に従って剣筋から身体をズラすと、その直後にノアが現れて魔剣をズラした剣筋になぞるように振り下ろしていた。
豪快に空振りしたが避けていなければ今頃、深々と切り裂かれた地面と同じ有様になっていただろうと思い、アイリスはノアに対してロッドを向ける。
「早く、目を覚まして下さい! 兄さん!」
「おい! 何してんだよ、ノア! アイリスを殺す気かよ!」
「――うるさい。大人しく、死ねッ」
ノアが実際に動くより先にアイリスの頭の中では既にノアは動いており、その剣筋から身体を素早くズラして攻撃を次々と回避する。
これは魔術師が魔力の流れを読み取り、どういう行動をするのかを予測する基本的な魔力感知だが、現在のアイリスはノアの行動を数手先まで完全に読んでいた。
これが可能なのは今も尚、ノアの身体から出ている目視出来るほどの膨大な魔力がより一層と"濃く"なっているからだった。
「やめろって言ってるだろ! いい加減にしろよ! 本当に怒るぞ!」
攻撃の手を一切緩めないノアに、アルバートが闘気を放出して威嚇するとアイリスの予測にすこしブレが生じて肩を魔剣が掠めた。
「アルバート! 兄さんの魔力が見えなくなるから闘気を抑えて! それと、出来るだけ離れて! 巻き込まれたら正気に戻った時に兄さんの"心"がどうなるか分からない」
「――わ、わかったぞ! ごめんな!」
闘気の放出を止めて真上に飛び上がり距離を取ったアルバートが二人を見下ろすと、アイリスの周囲には光のオーラがカーテンのようにゆらゆらと揺れており、ノアから発生する黒い閃光を遮っていた。
そこに、青と赤の閃光が加わる。
「――俺を無視してんじゃねぇ! 【氷炎・烈火氷撃】」
「「――邪魔」」
攻撃を仕掛けたシグレだったが、ノアとアイリスに難なくその攻撃を対処されて続く二人の攻防に置き去りになる。
一人残されたシグレはアイリスに対する違和感がより強く、確実なものになりつつあった。
「待て待て、流石におかしいだろ? 全身から魔力を垂れ流してるノアの行動を予測出来るのはまぁ分かるとしても、その垂れ流しの魔力が溢れる空間で"攻撃する瞬間まで闘気を隠してた"俺の行動をなんで予測出来んだ? それと、これが一番の謎なんだが……一体、いつになったらお前の魔力は底を尽きるんだ? アイリスさんよ」
二人を眺めながらそう呟いたシグレの声は、アイリスが発動した三重の魔法陣が崩壊した音と閃光に掻き消される。
「もう少しで、成功する……はず。今度こそ、【浄化魔術】」
再度、同じ魔術の発動を試みる。
その魔術はエレオノーラが旧魔術教本を読み解いて習得したという"超高等魔術"であり、アイリスは未習得の魔術の筈だがエレオノーラの"見様見真似"で試したそれは見事に形を成して発動した。
三重の魔法陣が手元に展開されて、強烈な閃光が目の前で魔剣を振り下ろしているノアへと放たれる。
「なッ!」
「――やめろやめろ! 浄化魔術だなんて、正気にでも戻ったらどうするつもりだ?」
浄化魔術の閃光がノアに触れる寸前にノアとシグレの位置が変わり、シグレが全身に閃光を浴びながら必死にそう言う。
閃光が収まると目の前には血の兜と血の鎧が無くなり、壊れた鎧を身につけているシグレが立っていた。
「戻す為にやっています! 邪魔しないで! 魔力波」
「ぐはっ――おいおい、なんで血の鎧が消えてんだよ! イテェじゃねーか!」
みぞおちに衝撃波を受けて、後ろ向きのままで数メートル飛ばされたシグレが血の鎧と兜を形成しながら叫ぶ。
その間に、アイリスはもう一度ノアに浄化魔術を発動して閃光を浴びせることに成功した。
暗い湖の底深くに沈むノアは安らかな気持ちで、ただ緩やかに沈んでいくことに身を任せて微睡んでいた。
(ここはなんって居心地がいいんだろ。沈むことに抗わなければ、抵抗しなければ、痛くも苦しくも悲しくも無いなんて……ならそれで良いじゃないか。何もしないで、何も知らないままで堕ちていこう……どこまでも)
――目を覚まして!――
(なんだ? この光は?)
一筋の光がノアの眩しく照らす。
その光の先には、少女がこちらを覗き込んで手を差し出していた。
(あれ? なんで"――"が? 夢か?)
底から無数の泡が湧き上がり、その泡には自分と上にいる少女が共に居る姿が映っている。
とても、嫌な気分になった。
(やめろ、考えるな)
再び、底から無数の泡が湧き上がる。
その泡にも少女の姿と自分が楽しそうにしている光景があった。
それは、守れずに失った"過去の記憶"。
そんなものをこの居心地のいい空間で思い出したくなど無かった。
(もう、いいだろう。過去なんて忘れてしまおう……それがいい――ッぐは!)
忘れようとしたその時、自分の口から大量の泡を吐き出す。
その泡の中には本当に大切で忘れたくない記憶と感情が閉じ込められており、咄嗟に手を伸ばす。
すると、全身に鋭い痛みが走り急激に息苦しくなった。
それでも尚、上に上がっていく泡を必死で掴み取ろうと縋ると、頭の中で自分の声が響く。
(やめろよ、もういいだろ? そんな記憶、忘れちまえ)
「ダメだ」
その声を振り払うように言葉を発しながら、更に手を上に伸ばす。
(失ったものは戻らないってのに、何を今更……記憶の中の夢や幻に縋るのか? そんな事をして)
「構わない。例え、夢でも幻でもいいから……もう一度、妹を――なら」
(……なら、好きにすればいい。但し――本当にソレでいいのかしら?)
頭の声が途中で切り替わり、女の声に変わった。
(だって、考えてみて? 現実なんてのは、痛くて苦しくて、悲しい事だらけよ? 特にアナタはとびっきりの絶望を抱えてる。それなのに、なんでまだ抗い続けるの? 全てを諦めて終えば楽よ?)
「……確かに、そうかもしれない。だけど、痛くても苦しくても悲しくても現実に絶望しようとも、前に進み続ける事でしか自分の罪は償えない。逃げる事など、出来るはずが無い。だから、お前は引っ込んでろ!」
そう決意した瞬間、ノアの伸ばした手は上にいる少女の手をしっかりと掴んでいた。
暗い湖の水面から顔を出し、手を繋いでいる少女と目を合わせると意識が急激に身体へと戻っていく。
空から降り注ぐ燦々たる陽射しの中で、ノアは目の前の少女に自分が目覚める前にどうしても伝えたい事を口にしようとするが、それは少女が取った"口の前に人差し指を添える仕草"によって封じられる。
「それは私じゃなくて、"本人"に伝えることですよ。それじゃ、またね」
少女が手を振ると、ノアの意識はこの空間から遠ざかっていき視界の端から"鎖"が伸びてきたのを最後に意識は途切れた。




