―第34話―夢と現実と五感の虚実
夢は不思議だ。
夢の中は現実ではないのに感覚があるからだ。
その感覚の対象など、存在しないはずなのに。
まずは、視覚だ。
見ていないのに見えるのだ。
そして、見え方も様々だ。現実より視界が狭かったり、あるいは広かったり、白黒だったり、はたまた現実よりもフルカラーだったり。
聴覚もそうだ。
聴いていないのに聞こえるのだ。
そしてよくよく、観察してみると、夢の中で聴く作業は、どちらかというと、聞こえるよりは、わかる、という感覚に近いことが多い。
これは、中沢先輩が言っていた、テレパシーの感覚に近いのかもしれない。
ただ、しっかり聴覚として聞こえることもあって、そのときは、その声に目を覚まさせられることもある。
ふいに、別の方向から聞こえるしっかりとした声だ。
その声は、耳からというよりは中から響き、聴く、という感覚は、耳からだけきているわけではないのだと思わされる。
そして聴くについて、不思議なのは、そもそも人間は、現実に耳で聞こえている音でさえ、ずいぶん取捨選択しているということだ。
寝ているときに、耳は閉じていないのに、大抵の生活音は聞こえることはない。
そして起きているときでも、音は、認識から外されることが多い。
換気扇の音、冷蔵庫の音、時計の針の音……
さらに、日本人と一部の国の人に聞こえる虫の音は、多くの外国の人にとっては聞こえないかまたは騒音らしいから、どうやら、実際に存在する音であっても、その認識、その必要性は、随分差があるらしい。
かと思えば、誰も声など発していないのに、聞こえる声にふりむいてしまうことさえある。
触覚はどうか?
夢の中で多くはないが、確かに触覚を感じることがある。
さらさらした砂の感覚。ざらざらした猫の舌の感覚。ごつごつした人の手の感覚。柔らかな人肌の感覚。
かと思えば、現実で、着ている服の感覚は、日頃、ない。
味覚はどうか?
これも、夢の中では、多くはないが、感じることがある。
母親の作りおきしてくれた、冷たい塩おにぎりの甘さ。どうしてもなれないニガウリの苦さ。
そして、現実では、全く同じものを食べても、ずいぶん味が変わることがある。
もっとも顕著なのは、満腹時と空腹時の違いだ。
空腹時には、おいしいと感じるだけでなく、味覚も鋭敏になっていて、とくに塩分の感じ方は差が大きくて、普段は薄いと感じるお吸い物でも、十分以上に塩味を感じるのだ。
嗅覚はどうか?
これも多くはないが、夢の中でも、線香やお茶の匂いを感じることがある。
そして、現実では、これもオンオフがある。
もっとも顕著なのは、ニンニクを食べた後の自分の息の匂いだろうか。
他人には、わかっても、自分はわからないし、また、他人がニンニクを食べていれば他人はわからないのに、自分はわかるのだ。
日本人は、醬油臭いなんて、そんな話もあるから、それが本当なら厄介だ。
また、逆に実際はどこにもないはずの線香の匂いが、突然することもある。
聴覚、触覚、味覚、嗅覚いずれも人にとっては、あいまいなものらしい。
そして、実は、視覚でさえ、見ている人によって違うのだということを知ると、もう実体とは何なのか皆目分からなくなる。
現実においても感覚は、随分自分に都合のいいように変化させられているのだろう。全てが自分を通す以上、もう絶対の現実なんてものは、どうあがいても見出すことはできないのかもしれない。
そんなことを考えるようになったのは、西村部長から、神の形について話を聞いたことがきっかけだったと思う。
そして、その話を聞いた数日後、僕は夢の中で、声を聴いた。ただ、聴いたという表現は正確ではなく、なんというか、その言葉を、聴いたと見たの中間のような感覚であった。
「空不空」
姿は、はっきりとは見えなかった。ただ、扉ごしに、透明で静謐な存在が僕にそう伝えた。その存在の名前なのかどうかは、わからないが、僕はそれからその存在を、空不空様、空不空さん、とそう認識するようになった。
その存在が、在るものかどうか? それはこの世が在るものかどうかと同じくらいにわからない。
ただ、僕を通しては、それはやはり在るものなのだ。




