弟が消えた日
わたしが婚約を決めたその日、弟は消えた。
「楓ちゃん、幸せになってね」
弟は最後まで、わたしを姉と呼ばなかった。
茹だるような熱気が町をつつむ晩夏。
あちらこちらで、陽炎が揺れていた。
◇
「ほら。紅葉、おねえちゃんよ。挨拶して」
弟の紅葉と出会ったのは、わたしが十五になろうかという夏の終わりのこと。
湿気を帯びて纏わりつく熱に包まれてなお凛とした立ち姿の彼はまだ十歳だった。
その時の衝撃は、今でも思い出せる。
およそ男子とは思えないやわらかな輪郭と、均整のとれた扁桃色の瞳。絹を束ねたような髪。熟れた果実よりも瑞々しい唇と、斜陽に紅潮した頬が、彼の名を表すかの如く色付いていた。
紅葉は、端正な顔にわずかな緊張を浮かべて「よろしくお願いします」と頭を下げる。柳が枝垂れるようにしなやかな礼は、わたしの学友よりも大人びたものだった。
「楓です。よろしくね、紅葉くん」
途端、彼の視線がわたしを真っ直ぐに貫いて光る。
「楓ちゃん……」
確かめるように呟かれたわたしの名は、わたしの知っているそれとは一線を画していた。まるで彼の一部になってしまったかのような錯覚を起こしてしまうほどに。
「おねえちゃんって呼びなさいよ。ごめんね、楓ちゃん。ちょっとぼんやりしたところがあるのよ。仲良くしてくれると嬉しいわ」
溌剌とした義母とは似ても似つかない少年は、やがて、深く色を灯した秋葉のように、嫣然たる笑みを浮かべた。
わたしと紅葉は、彩色硝子や飴細工のように繊細な、静かで澄んだ距離感を幾重にも敷きつめて、数百、数千、数万と言葉を交わし合った。
西瓜の種を植え、庭で焼き芋を焚き、懐炉の暖を分け合い、桜の枝を手折り。風鈴をこさえ、落葉を踏み、雪の兎を並べて、新緑の中を歩いた。
組紐のように編み上げられる日々。隙間なく、整然と絆されていく感覚。それら全てが、不思議なほどに心地がよかった。
家族。その枠組みに寸分違わずおさまった関係性も。
わたしたちは、確かに姉弟だった。
たったひとつ。たったひとつだけ――紅葉がわたしを「おねえちゃん」と呼ばないことをのぞいては。
もとより、突然できた姉である。いくら本物の家族のようとはいえ、紅葉も思春期に差し掛かっており、わたしを「おねえちゃん」と呼ぶのは気恥ずかしかったのかもしれない。
何より、わたしたちはひとつ屋根の下に暮らしていたのだ。
繭のようにやわらかで、湖面のように静謐で、平穏を脅かされることもないあたたかなその場所で、わたしたちの立場など明らかにせずとも誰一人として困りはしない。
わたし自身、形式的で符号的な関係性よりも、紅葉と揃いの「楓」という名で呼ばれることが嬉しかったから、気に留めるどころか、違和感を覚えることすらなかった。
けれども、それは名目上の話だけではなかったらしい。
紅葉はあくまでも頑なに、自らの、なんらかの意思をもってして、わたしを姉とは認めなかったのだ。
わたしがそのことに気付いたのは、紅葉と出会って二年が経ってから。高校からの帰路。同じく帰宅途中だった紅葉と顔を合わせたのがきっかけだった。
「紅葉」
呼びかければ、彼は当然、わたしを「楓ちゃん」と呼んだ。
隣を歩いていた彼の友人が、紅葉に尋ねる。「お前の姉ちゃん?」と。
もっともな質問である。わたしも紅葉の友人など片手で数えるほどしか知らず、お互いに初対面だったのだから。
かくいうわたしは、紅葉がわたしの名を呼ぶことにすっかり慣れてしまっていたから、世間一般には「姉弟」であったことを、ようやくその子の問いかけで思い出したくらいだ。
わたしが「はじめまして」と口を開くより先に、紅葉は瞭然と答えた。
「いいや。楓ちゃんは、楓ちゃんだよ」
「姉ちゃんじゃねえの?」
「楓ちゃんと僕は、血が繋がってないんだ」
何かが、ことり、と音を立てた。
事実だ。紅葉は正しい。わたしたちの間には血の繋がりもなく、さすれば姉弟でなどあるわけがない。
けれど――理屈ではない何かが、わたしという存在が、わたしと紅葉の間にある繋がりが、確かに消えた瞬間だった。
家族だと、思っていた。
姉弟だと、思っていた。
紅葉の姉になれたことを誇らしく思っていた。
紅葉も、慕ってくれていると思っていた。
今までの何もかも。わたしが紅葉と共に過ごした年月が、当たり前のように寄り添っていた日常が、弟自らの言葉によって呆気なく崩れ去った。
もしや、紅葉はわたしが疎ましいのではないか。親の再婚によって、十全すぎる紅葉に突如出来てしまった欠陥。隣に並べるにはあまりにも歪なわたし。
そんな考えが頭を過り、悪い白昼夢を見ているのではないかと疑ったくらいだ。
いつの間にかわたしは、姉弟という関係で紅葉を繋ぎ止めるのに必死で……いつの間にかわたしは、彼と結ばれたであろう頼りない糸を断ち切られることを恐れていたらしかった。
けれども、これ以上嫌われるくらいなら関わらないでいようとも思った。
どういうわけか、彼には特別嫌われたくなかったから――
そうして、わたしが透明な防御壁を築きあげることに時間はかからなかった。守られた内側は冷たく、孤独の体温を知れば、ひとり肩を抱きしめてうずくまった。
「楓ちゃん」
そう呼ばれるたび、今までならば小春日和よろしくあたたかに感じられたものが、氷柱のようにわたしの心を突き刺した。
彼の、姉でありたかった。わたしは、彼の姉でいなくてはいけなかった。けれど。
「楓ちゃん」
紅葉は、わたしの態度には気づかぬふりをした。敏いはずなのに、その時ばかりは鈍感なふりをして、わたしの心を土足で踏み荒らし。完璧なまでの微笑をたたえて。
そうして、作り上げた線引きを当の本人である紅葉が気にもとめずに侵入したせいで、残念ながら内に溜め込まれた想いはあえなく決壊してしまった。
むしろ、わたしが遠ざかろうと試みた距離を埋めるように、以前に増して彼が距離を縮めてきたというべきか。
紅葉は、神様のように残酷で、やさしかった。
わたしもそのうちに、あの日のことは、思春期独特の自尊心や羞恥心の生み出した幻影か、はたまた晩夏の陽炎か、そうやり過ごす以外になくなった。
紅葉に悪気はない。わたしが、正しくあればいい。
何度もそう言い聞かせねば、紅葉との距離感を見失ってしまいそうだった。
弟と姉。姉と弟。
本物でなくても、それが確かにわたしたちの関係性だ。
紅葉は、日増しに美しくなっていった。弟に対して、美しく、なんて表現はどうかと思う。思う、けれど……毎日のように顔を合わせ、見慣れているはずの姉という立場から鑑みても、美しいという形容する以外に言葉は見つからない。
紅葉が高校へと上がる頃、大学へ通っていたわたしにまでその噂が耳に入ってくるほどに。
わたしの通っている大学の附属高校に紅葉が入学したこと。噂が決して褒められたものばかりではなかったこと。
主に、その二つが原因で。
特に後者に関しては、姉であるわたしにまで付けが回ってくることもあり、彼の秀麗さを手離しで称揚することは出来なかった。
虚構的なまでの造形美を持つからこそ、紅葉は、小説や御伽噺の類を現実にしてみせたようだ。数多の女性を誑かし、狂わせてなお、紅葉は超然としている。それらの噂すら、彼を引き立てる装飾にしかなり得なかった。
「一緒にいてほしいって言われたから、一緒にいたんだ。でも、それだけだよ。そうしたら、女の子はいつも怒っちゃうんだ。どうしてって」
これには、わたしも窮するほかない。何度目かの焦燥と不安。些細な苛立ちを混ぜ込んでなお、言葉にはならず。理屈でもない靄がわたしを駆り立てた。
姉としてか、一人の女として、か。
異常なまでに他人への関心が希薄な彼は、きっと影があり、妖艶で、けれど慎ましやかに見えることだろう。
それこそ、宵月にさざめく紅葉のように。
本人にそのつもりはなくとも、幼い頃から変わらないやわらかな物腰で誘惑し、期待させて、挙句失望されているのだと、容易に想像がついた。
だが、紅葉にとっては、その一連全てが『それだけ』のことなのだ。
そう思うと、無性に紅葉が恐ろしかった。
けれど、彼を突き放せないのは、弟だから。
しなやかな指で花を愛でるように頬を撫でられては、その弱々しい力でさえもわたしは無下に出来ない。
「女の子って、よく分からない。難しいんだね。楓ちゃんのことなら、何でも分かるのに」
紅葉は、夢や希望が生まれる瞬間を易々と体現してみせる。
花ひらいたのは小さな光。やわらかな笑みは潜熱を携えて。
飲み込まれそうになる――
空気を微かに震わす鼓動、膚を伝う粛然とした体温、心の奥底を露わす瞳。寓意を含んだその全てに、身を委ねてしまいたくなる。
「姉弟、だからね」
絞り出した声が、紅葉から笑みを一瞬にして消し去った。
彼は、残酷だ。
残酷なまでに、態度で語る。雄弁に。言葉以上に。
「違うよ」
「……そりゃ、血は繋がってないけど」
「そう。僕らに血の繋がりはないんだ」
紅葉は、わたしの言葉を復唱して、満足気に目を細めた。わたしの自惚れだと、思いたかった。
わたしは、一層、姉弟という関係性に固執した。
簡単に崩れてしまいそうな紋切型を、切れてしまいそうなたよりのない糸を、失ってしまわないように。
だからこそ、わたしは決死の思いで世界の一半を閉蓋し、甘美なものを遠ざけた。
椿が落花する雪原。梅香の立ち籠める庭。菖蒲咲き誇る川縁。
紅葉彩る世界を。
浮ついた話を避けて生きる。息を潜め、目立たぬように、静かに、慎ましく。
色恋を理性で整理しようとすればするほど、違和感だけがわたしを支配する日々に、どうにかして見切りをつけたかった。
誰かを愛することにはひどく臆病で、恋愛などという不定形なものを無理矢理箱に押し込めた周囲の固定概念に嫌悪していた。
そんな自らの行動が表すもの。その意味を、理解もしないままに。
どこまでも頑なに恋愛なるものを否定するわたしに、両親が見合いを勧めたのは先月のこと。
まだ二十五で早いだろう。わたしは断ったけれど、両親は古風な人間だったし、わたしを見兼ねていたのかもしれない。ついには、会うだけだからと話をおしすすめられた。
無意識のうちに助けを求めるように紅葉へと視線を投げたけれど、彼は切なく、蠱惑的に笑う。止めることもせず、両親のように見合いを勧めることもせず、ただ、凪いだ湖面のようにそっと。わたしだけを見つめていた。
蜘蛛の糸だ。それを手繰れば、わたしは堕ちていけるのだろう。
無性に、たまらなく美しかった。
わたしが恐れている感情など一つとして意識もせずに、悠然と飲み込む紅葉の瞳が――たまらなく、愛おしかった。
結局、見合い自体は断れなかった。
わたしも、どこかで分かっていたのだ。
このままではいけない。わたしも、紅葉も。
けれど。
渋々顔合わせへと向かったその日、わたしには不釣り合いな料亭の襖に手をかけた瞬間。
わたしは不意に理解した。
紅葉に出会ってからの今まで。色恋が嫌な理由も、紅葉の見せた笑みの意味も、両親がやたらと見合いを勧めたことも、全て。
蓋をしていた世界の半分。
そこに押し込められた、本当の想いを。
わたしは即決した。
――この想いは、死ぬまで秘密にしておこう。
世界には、きっと、知らなくて良いことが溢れている。これは、その一つに過ぎない。特別なことは何もない。言うべきことなど何もなく、伝えるべきことだって何もない。
家族としての、姉弟としての思い出だけがあればそれでいい。それ以上、わたしたちの間には、何もいらなかった。
いや、何かあってはいけないのだ。
だって、何かあったら、きっと……。
その日の夜、弟は、紅葉は、ゆっくりとわたしを抱きしめた。
わたしたちは姉弟で、互いの考えていることを読み解くのに言葉はいらなかった。
――名前がなくとも、言葉にならずとも。想いを伝える方法なんて、いくらでもあるのだから。
◇
わたしが婚約を決めたその日、弟は消えた。
わたしたちは、罪を、贖罪を、婚約の中に閉じ込めた。
両親から預かった捜索依頼書が、わたしの足元から空へと昇ってゆく。夏の日差しが白虹を生み出して、巻き上げられた灰をかき消す。過去と共に。
「楓ちゃん、幸せになってね」
弟は、最後までわたしを姉と呼ばなかった。
季節外れの焚き火の熱が、茹だる晩夏を連れてくる。
そしてまた、町に、ひとつ陽炎が生まれた。
お手に取ってくださり、ありがとうございました!
このお話の結末をどう捉えるかは、読んでくださった皆さまにお任せしております。
あえてどうとでも捉えられるように書いたつもりですので、感想欄やツイッターで「こう考えたよ」と教えていただけましたら嬉しいです。
皆さまの胸の中に、ほんの少しでもこの「熱」が残れば幸いです*




