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魔女の庭

 早朝、鈴は化粧台の前に立っていた。


 どの位そうしていただろう。寝間着姿の体はすっかり冷えきっていたが、まるで気にならない。何かを待つようにじっと自分の姿を見つめ続け、おもむろに化粧台の引き出しを開けた。桐の箱をあけ、扇を取り出す。


 ふうと息を吐き、吐く息とともに踊りの旋律を口ずさむ。

 ―ここは“のばす”。てんてん、てーん…回って…


 手にした扇を開きながら腕を広げ、指の先を鏡で確認する。そして次の動作に移る…だが、「のばす」のか「縮まる」のだか、踊り方がわからなくなり、指の先から扇を取り落としてしまった。


 女神役の仕事は主に三つ。

 一つが、山宮から里宮へ下る儀式をすること。

 二つ目が、里宮へ2週間籠ること。

 そして三つ目が、祭りの期間中、毎夜開かれる舞への参加だ。


 ただし、女神の踊りはそう重要なものではない。この祭りの要は、里にとどまる女神をもてなすところにある。


 殆どの演目の間、女神は酒を注がれ、催される舞を堪能すればいい。

決まった型はあるが、振りを忘れてでたらめに踊っても咎める者はおらず、不出来な姿をかえって楽しみにする者も多くいる。


 昨夜のことだった。

 婦人部に見守られながら、鈴はひとさし舞った。


 出来は良かった。型の通り淀みなく踊り切り、参加者は笑顔で拍手を送った。ただひとりの老女を除いて。


 うさぎの毛のように真白い髪の毛、高い鼻、深く刻まれたしわの中に、灰色がかった色素の薄い瞳が光る。何百年も生きた大樹の如き老女。


 彼女は皆から「みやさま」と呼ばれ、名前すら曖昧な人物だった。


 みやさまは言葉を発しない。いつもお手伝いさんの言うことに頷くか首を振るかで、説明を求められるとぷいとどこかへ行ってしまう。けれども瞳だけはやけに煌々ときらめいて、何らかを執拗に訴え続けるのだった。


 ーみやさまは、あたしになんの文句があるっていうの。あんなふうに、意味ありげにみてくるのは、ずるいやりかただ…。


 鈴は首を曲げて頬を掻きむしった。すると、障子越しに何か立っているのが見えた。

 ぱしんと乾いた音が響かせ、勢いよく障子を開く。すると、そこにいたのは猫だった。猫は片耳を揺らしただけで、驚いた様子はみせない。


 猫と鈴は見つめあった。


 猫は好きだ。見かけるとつい背中を撫でたくなる。しかし今、鈴はその気になれなかった。

 白い腹をし、背には灰色の縞模様の入った、ごく普通の猫。どこもおかしなところはない。なのに違和感があった。


 辺りに人の気配はなく、鳥の鳴き声すらしない。


 猫の瞳を見つめていると、不思議と鈴は違う世界に迷い込んでしまうような気がした。

 記憶に埋もれた旋律が、無音の世界で唄われている。どんな歌だっただろう。忘れてしまった歌だ。ただ、胸を突き動かされる衝動だけに覚えがある。


 鈴は踏み石に降り立ち、猫に近づいた。撫でようとしたのか、いじめてやろうとしたのかは自分にも分からない。だが靴を履きかけた瞬間、猫は急に駆け出した。


「あっ」


 反射的に後を追う。


 猫の脚は驚くほど早かった。体を低く、尻尾を太くし、けもの道を縫って走った。鈴もまた、前のめりになって追いかける。


 姿が見えなくなり、鈴が探し始めるとササの茂みから飛び出し、また全速力で駆け出す。


「いいたいことがあるなら、逃げるんじゃない!」

 鈴は腕を振り上げ、感情のままに甲高い叫び声をあげた。


 追いかけっこは長く続かなかった。


 鈴は猫は見失い、大の字になって草の上に寝ころんだ。

 疲労は血液の流れに取り込まれ、活力となって体を巡った。心地よい感覚だ。


 森は鳥のさえずりに満ちていた。無音の世界から解き放たれたように、うるさいほどの鳴き声があちこちで上がっている。


 鈴はあらい息を整えると、ふと思いついて鳥の歌をまねてみた。


「ふー、ぽぶ、ぽふーふっふっふ」

「ろんろんろんちょーふちょーちょちょ」


 鳥のさえずりは一瞬止み、呼応するようにまた始まった。

ーあたしのこと、仲間と間違えないかしら。

やればやるほど鳥に近づけるようで、鈴は面白くなってきた。


 しばらく続けると、奇妙な感覚が芽生えてきた。頭の芯に金属が育ち、自分が発する音で振動している感覚だ。鈴だけに聞こえる、澄んだ、やや煩わしい音。


 ―何か忘れている気がする。歌を?いいや、もっと他のことを…


 頭の金属を震わせると、どんどん記憶の底へ潜っていけそうだった。暗闇に手を伸ばし、ざらりとした感覚を確かめてく行く。


 踊りの民謡。昨夜見た夢。果樹園のいちご…。

 そこまで思い出すと、焦げた砂糖のにおいが鮮明に蘇り、昨夜の出来事を思い出した。

 知らず知らず、鈴の唇は旋律を紡いでいた。それこそが、いつかの老婆の歌、鈴の忘れものの歌だった。


 みおやのみこのおとおりの…みちにあかりをつけまして…さとにむかえてはるがくる…ひいふうみいよのよのよろず…


 ―魔女が、この森のどこかにいる。


 鈴はやるべきことを思い出した。

 うつぶせに体を倒し、頭を振りながら草の中に顔をうずめる。朝露に濡れた草のにおいが鼻孔を抜ける。


「魔女、魔女よ。いるんなら、出てきなさい。もし、空にいるなら落ちてきなさい…ええと」

 その先の呪文を考え、続ける。

「土にいるなら、出てきなさい。ぼこぼこと。…出て来なさい」


 掌でこぶしをつくり、ノックするかのように地面をたたいた。そして固く目を閉じる。


 今思いついた即席の儀式だった。

 だが、鈴は漠然と感じ取っていた。儀式に重要なのは方法ではない。未来を信じることだ。

 

 十分な間をおいて、勢いよく立ち上がる。

 

 辺りを見回すと先ほどの猫がこちらを見つめていた。


「あんたじゃないのよ」


 鈴はめいいっぱい眉根を寄せて、ブウと唾を飛ばして唇を鳴らした。すると、草が揺れるような笑い声が聞こえた。


「変な鳥がいると思ったら」


 木叢をかき分ける音が響き、風景と化した緑の中から、突如白い手が現れた。手は灰色の猫を抱きかかえる。


「女神さま。あたしの森へようこそ」


 猫は白い腕に顔をこすりつけると、そのままするりと降り、どこかへ歩み去った。猫の後ろ姿から視線を戻す。そこにいたのは、魔女その人だった。


 鈴は奇跡を起こす自信があった。

 ただ、その後どうするかは決めていなかった。改めて魔女の姿を眺めると、彼女は体じゅうに形容しがたい色をまとっていた。


 おそらくもとは白かったであろうワンピースは、ひどい有様だった。全体的に茶色く染まり、ところどころに紫や青の斑点が飛んでいる。まるでカビの育った生ごみだ。

 そこへ灰色の髪をたらし、今日の瞳の色は黄色かった。さらに、どうしたことか裸足だった。鈴は急に不安になった。


「あんたもしかして、空から落ちてきたの」

「え、ちょっと待ってうける。なんでそうなるの」

「あたしが空から降って来いって願ったから」

「ウソひどくない?」

「ひどいのは魔女のかっこうでしょ」


 魔女はきょとんとして、片足を持ち上げる。


「あーね。ちょっと気分だしたくて、靴置いてきちゃったんだよねー。あ!やば。血ぃ出てるじゃん」


 いや、それだけじゃない。むしろ足も絵の具まみれなので、切り傷など目立たない。鈴は魔女が不憫になった。


「あたしのくつしたを貸そうか」

「うわうれしー。いいこだねえ。とりあえず平気平気」


 魔女は手をひらひらと振り、今来た道を戻ろうとした。


 そして、ゆっくり振り向いた。言葉はなく、赤い口紅だけが挑発するようにつややかに光る。

「ついてくるだろう?」魔女は無言でそう伝え、さっさと歩き始めた。


 鈴は悩んだ。頭の中に、好奇心と恐れが同居していた。しかし、彼女の足はためらわず、魔女の後を追っているのだった。


 魔女は緑の壁の前で立ち止まり、蔦をかき分けた。

 すると、ぽっかりと暗い穴が現れた。次いで、近くの枝にひっかけられた燭台を取り、マッチを擦る。使用済みのマッチは湧き水に浸ける。魔女の爪は青い光を放ちながら、一連の作業を流れるように遂行した。


「扉を開けるのにも儀式があるのね」

「あるあるだねー。門番がなぞなぞしたりするよね」


 いまいちかみ合わない会話をしながら、二人は洞窟を進む。


 洞窟の中は暖かかった。いつの間にか魔女は左手で鈴の手をつなぎ、右手で頭を掻きむしりながら、独り言を言っていた。


「虫にしようかな。いや、それは難しいかな…星が…」


 魔女の手のひらは、中へ進むほどに湿り気を帯びていった。


 ほどなくして開けた場所へ出た。

 そこは、鈴がこれまで訪れたどんな場所よりも奇妙な空間だった。


 ほぼ円形の形をしたそこでは、壁に何本も蝋燭がかけられ、おびただしい数の生物たちを照らしているのだった。


 側面には植物、いくつかの虫も描かれている。そして天井は青く塗られ、その中に無数の動物たちが浮かんでいた。


 ネズミ、オオカミ、クマなどの哺乳類。カラスやハゲワシなどの鳥類もいた。動物は簡略化され、カラスがクマの倍もあったり、大きさもめちゃくちゃだった。しかし、それとわかる特徴をとらえており、鈴でも見分けることができた。


「あれはハチ!蜜吸ってるでしょ。あっちはなんだろ。モグラ?あ、ねえねえ。あれなに?ほら、あそこの影」

「あれはハゲワシ」

「ほんとだはげてるー!昔の人が描いたのかなあ。巨人とか、地底人とかかなああ。あっ、背は高かったよねきっと」

「これ描いた人?あたしよあたし」


 鈴はぎょっとして魔女を見返した。魔女は何でもないことのように自分を指さして笑っていた。


 魔女と鈴なら、魔女のほうが大きくてできることも多いだろう。けれど魔女と洞窟なら、魔女が圧倒的に小さい。洞窟は数多の生命を宿していた。これらを生み出し、支配すること。そんな真似がこの女ひとりにできるとは到底思えない。


「証拠はあるの」

「言うねえ。そうきたか」


 魔女は不敵な笑みを浮かべると、奥へ行き、脚立を引きずって戻ってきた。鈴へ登るように促し、自分も後からついてくる。


 絵の中に、ひときわ大きな黄色い光があった。その中にはまだ何の動物も描かれていない。筆を持った魔女の手が、光の中へとのびる。筆はよどみなく動き、淡い色の輪郭の中から、大きな甲虫の姿が形作られていく。


「うわあ、あああ」


 脚立と魔女の間に立ち、鈴は虫の誕生をはっきりと目にした。魔女の筆が甲虫の背にオレンジの色を置く。完成だった。鈴は息を吐いてつぶやいた。


「これ、何の虫」

「シデムシ。チャームポイントは背中の色だよ」


 鈴は手を伸ばしてシデムシの背をさわった。まだ絵の具が乾いておらず、指にオレンジ色の染みがついた。


「…ネズミって見たことある?」

「あはっ。あるある。昔生活してた家でね。帽子を床に置きっぱにしてたら、巣になってんの。持ち上げたら家族で住んでてさー。びびったけどかわいかったなー」

「クマはどう?」

「はくせい…死んで、加工されたクマなら見たよ。旅先のレストランに飾ってあったんだ。めっちゃ人襲いそうだったよ。こういうの」魔女は無邪気に笑って、指先に力をこめ、爪を立てる様子をまねた。


 子持ちのネズミに口を開けたクマの絵が、魔女の言葉を得ると、一層生き生きと迫ってきた。


「…明日もきていいですか。魔女さん」

「どうした急にかしこまって」


 鈴は振り向いて、魔女の瞳をみつめた。瞳は蝋燭の火に染まり、ちろちろと炎が宿っていた。鈴は、自分の瞳も同じ色をしていると確信していた。


「あたしもここにおいてください。あなたの見習いをさせてください。…あの、二人分、おやつを持ってきますから」

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