里宮の一日
お宮の宿坊には、何がいるのか分かったもんじゃない。
太い梁のわたる天井は高く、暗い。
朝の光は透き通るように明るいのに、それをもってしても、天井の奥までは見渡せない。
昨夜はとたとた、かりかりと動物の気配がした。昔、ハナ村さんに聞いたところによると、ハリネズミが住み着いているらしい。
鈴は梁の木目をにらみつける。あの目が大きくふくれやしないか、闇の中からハリネズミが出て来やしないか。だが、見つめるほどに闇は深さを増し、たとえ何者がいたとしても判別できなそうだった。
「おはようさん。入りますよ」
障子が空き、手拭いを頭にまいた女性が入ってきた。お手伝いのハナ村さんだ。着替えと盆を持っている。
「あら早起きだね。すうちゃん」
鈴は無言で右手を挙げ、ハナ村さんの手元を指さす。
「甘いにおいだ」
「挨拶くらいしなさいな」
呆れ、笑いながらハナ村さんは手元の布巾を持ち上げた。すると、盆の中からは焼けた砂糖のにおいと、ゴフレットが現れた。
「夢の中でね、ケーキ屋さんを始めたのよ。けど、アイスクリーム屋さんになろうか悩むの。それでどっちも食べれずじまいよ。甘いにおいがするから、そんな夢をみるんだ」
鈴は目に恨めしそうな色を浮かべ、寝ぼけた調子でぶつくさ言い始めた。
「なるほどねえ、つまりおやつが食べたいんだね」
ハナ村さんが強引にまとめたので、鈴は目を剥いた。
「そんなこと言ってないでしょ。食べたいけど」
「そしたら、お手伝いしてもらおうかな。さあさ、そうしたら着替えして、わたしのあとについといで」
お宮の売店は二つある。ひとつは社務所で、お守りや絵馬を売っている。もう一つは食べ物の売店だ。
そこではゴーフルやクッキー、お宮の裏の畑で採れた野菜まで販売している。外装は白いペンキで塗り固められ、ガーデンアーチとベンチが設えてある。
境内の建物らしからぬ外観だが、そばの楠がベンチに木漏れ日を落とし、アーチに時折小鳥が舞い降りる様は、宗教施設らしい静謐さが漂っていた。
ハナ村さんは売店へ入ると、盆をガラスケースの上に置いた。
「お嬢さあん、お願いしますよ。ここに置くからね」
中から眼鏡の女性が現れ、盆を受け取る。イヤホンをしているせいか、返事はない。
「ここの人たちときたらそろって口を置き忘れてるんだ。おかげであたしが特別おしゃべりみたいじゃないか」
ハナ村さんは笑いながら文句を言い、売店を出ると、さっさと鳥居をくぐった。鈴は驚いて立ち止まる。
「女神さまは鳥居を出たらだめなのよ」
「二つ目の鳥居の外にでなけりゃいいんだ。女神さまの遊び場は、結構広いもんだよ」
石段を下り、獣道に似た脇道へ逸れる。しばらく歩くと、白い柵でくくられた薬草園へとたどり着いた。
ハナ村さんはバスケットから鍵を取り出すと、柵の扉に差し込む。
「竹ちゃあん!女神さまに仕事おしえてやってくれえ」
薬草園の中から、竹雄の姿がひょっこりと現れた。鈴を見つけ、了解の合図に首を振る。
「なにしてんのさ、おにい」
「イチゴつみ!」
ぶっきらぼうな声が返ってくる。
「…竹ちゃんなあ、昨日のことで罰しごとさせられてるんだよ」
バスケットを手渡しながら、内緒話のようにハナ村さんがささやいた。
「ふうん」
鈴は気のない返事をすると、竹雄のそばへ駆け寄った。
茎の間に指を差し入れ、手首をひねっていちごを摘む。慣れたもので、その仕事ぶりは早い。竹雄のバスケットはじきに満杯になりそうだ。鈴は兄の様子にすっかり見入って、その手元を観察し続けた。
「おまえもやるんだよ」
一向に仕事をしない鈴にしびれを切らし、竹雄はつぶやいた。
「おにい、昨日のことって何さ」
「…お前を置いて行った罰だよ。あのう…悪かったよ。いらいらして」
話を聞いている途中だが、鈴は急にひらめいて、身を乗りだして竹雄の顔を覗き込んだ。
「昨日魔女にあったんだ!」
「はあ?何言ってるんだ急に」
「ほんとなのよ」
「で、女神さまのお力で倒したのかよ」
「倒すかどうかはこれから決める。まずは会議よ」
竹雄はきょろきょろと辺りをみまわし、誰もいないことを確かめると、イチゴの苗より低く身を屈めた。鈴も真似して体を隠す。
「聞いてやるからひみつのところで話すぞ」
竹雄はまじめな顔をつくって低い声で言った。鈴もその仕草をまねて言う。
「そんなら、ひみつ基地だな」
「ばかだな。あそこはもうなくなったんだぜ」
かつては池のほとりにあった場所だ。屋外舞台づくりのため、何十枚もの板材が運び込まれ、放置されていた。祭りの委員さんが工夫して、板をずらして積んでくれたので、そこは小さなひみつ基地になったのだ。
人が寄り付かず、雨風もしのげる快適な場所だったが、ついこの間板材がすべてそろったので、それはすべて舞台へと変わってしまった。
「ばかとは何よ。知らないのはあたしの知らないとこで誰かが勝手に片づけしたからよ。それがばかだなんて決まらないよ」
「またもんくだ。わかったよ。そうだな、朝ご飯を食べたら、お風呂掃除をかってでるんだ。そこで続きをはなそう」
鈴が頷くと、竹雄はバスケットからいちごをわしづかみにして、自分と鈴のポケットに押し込んだ。
「いいの?」
鈴はにやにやして聞いた。
「…会議には甘いものがいるんだ。お前はおやつを多くもらってこいよ」
竹雄もにやにやして言った。
いちごはすぐに集まった。兄弟は魔女会議のことで頭がいっぱいだったので、仕事は早かった。バスケットを返しに再び売店へ立ち寄る。
「ハナ村さん!おわったよ」
「おつかれさま。さあごほうびだよ」ハナ村さんが包装済みのゴフレットを取り出し、手渡す。
その時、奥で声がした。
「ラベルのスタンプ、こんなんでどうかなあ」
「はいはい、お嬢さんは絵が得意だね。後で見るよ」
ハナ村さんが後ろを向いたその瞬間に、鈴は盆の中からゴフレットを抜き取ると、すぐさまその場を逃走した。追って怒鳴り声が飛んでくる。
「こらあ、悪がき。ひとり一枚だよ」
「あたしとおにい、女神さまと案内さんの分!ちょうどよ」
竹雄はでかしたとばかりに鈴の背中をたたき、それを合図にふたりは笑いながら駆け出した。
「真っ白い霧の中から、魔女が現れました。魔女は、顔が浮かんでいるみたいでした…」
モップをバケツにつけ、何度かしごく。魔女のそれさながらの泡の鍋を作ると、鈴は仰々しい物言いで語り始めた。
「なんだそのしゃべりかた」
「おにい、もんくだこと。すきにさせて」
鈴は雰囲気にこだわりたかったので、口を尖らせた。
「…なぜなら、髪の毛が白かったからです。霧みたいにね!でも口は赤くて、なんと、目は緑だったのです!」
竹雄は雄たけびを上げ、雄々しくモップを掲げる。
「よし、討伐隊を組むぞ!一番隊、前へ!」
「竹雄、そういうんじゃないの。まじめにして」
鈴の言葉に竹雄は困惑し、不安そうな表情を浮かべた。
「え…大丈夫だったのか?なにか、悪いことされたりしてないのか」
「うん。神社まで送ってくれた。髪も結んでくれたよ」
「ただのいいひとじゃないか」
竹雄はしらけてポケットのイチゴを洗い桶に入れると、蛇口で洗い始めた。鈴もタイルに腰かけ、ゴフレットを頬張る。
「でも変な格好だったよ」
「へえ…。森じゃなくて山にいたんなら、やまんばだったんじゃないか」
「なにそれ」
「本で少し見ただけだから覚えてないけど、たしか子供を食べたりするやつだよ」
鈴は噴き出してわらった。口に含んでいたゴフレットがこぼれる。
「何それ!なんだって食べたりするの」
「知らないよ。うまいんだろ」
竹雄の答えがなおさら面白く、鈴は笑いがとまらなくなった。ひいひいと呼吸を乱しながら、やっと声を絞り出す。
「昼ごはんの後は、座敷の本棚で調べものね」
「やだね。そんなに付き合っちゃいられないよ。おれも仕事があるんだ」
「あらそう」
鈴はあっさり引き下がった。調べものなら一人でも足りるだろう。モップを手に床掃除をしながら、漠然と思う。
あの赤い口は、子供を食べたあとなんだろうか。洞窟の前で別れた後は、髪の色さながらの、霧の中に消えていったんだろうか?
北側にある座敷は薄暗く、少しかびくさい。部屋の中央には大きな石油ストーブがどんと置かれ、部屋の輪郭を淡く照らしている。
朝は元気のありあまっていた鈴だったが、昼食を済ませると一気に眠くなり、探し物は捗らなかった。
やまんばというタイトルの本はなかったので、一冊ずつ本を開いて目次を読む。
それは途方のない作業だった。
開いてみては横に積む。数冊もしないうちにすっかり飽きて、鈴は外国の絵本を読み始めた。
鈴の手に取った本は、冒険譚だった。花屋がとっておきの種をまくのに、一番の場所を探しに行くという物語だ。
となりの畑、大様の庭園、わにの背の上…なかなかその場所は見つからない。淡い色彩を目にするうち、鈴は居眠りをし始めた。
ひい、ふう、みい、よの、よろず…
頬がちりちりと熱い。
遠くで、食器のぶつかる音がする。夕食の用意をする声だろう。
しゅうしゅうと、何か鳴いている。こんなふうに鳴くのは、きっと鰐のしわざかもしれない…
頬に冷たいものが触れた。滑らかな女の手だった。頬を転がし、鈴の体をストーブのそばから離す。
部屋には甘いにおいが漂っている。きっと、ストーブの上でジャムを作っているんだろう。
「女神さまはこんなとこで寝て。今年はずいぶん元気が良いもんだ。幼いころのお嬢さんとは大違いだこと」
「あたしそんなでした?あ、イチゴまだ固いっすね」
鈴はまだ眠気がさめず、目を開けられなかった。だが、変に感覚が研ぎ澄まされ、会話の様子はしっかり頭に入ってきた。
二人の女の声がする。一人はハナ村さん。そしてもう一人は…
「こらまたこのひとは。まだ火にかけたばっかりですよ。…昔はね、おとなしくて思慮深くて、深窓のご令嬢なんてお呼びしてもいいくらいだったのに。今はつまみぐいの不良になっちまって」
「あはは。深窓て」
―あ、魔女だ。
この声、独特の雰囲気。わかる。霧の中で出会った魔女に違いない。
「ああ、そうだ。お嬢さんがお宮に遊びに来て、行方が知れなくなったことがありましたね。あの時はひやひやしたもんだ。みんな、神隠しにあったなんて言って」
「ふふ。ご迷惑おかけしました」
二人は笑いあったのち、しばし無言になった。
ジャムが煮込まれる音と甘いにおいが部屋に充満する。それらが、二人を遠い昔に連れて行っているようだった。
「放浪癖は生まれつきかね…。今でもどこかふらっと山に入って」
「やー、散歩してるだけですよ。ここの山、普通にいみわかんない石像とかあって、マジで面白くないですか」
「意味はあるでしょうよ。そこにあるんですから」
「ほうほう。意味があって存在があるというやつですね、ハナ村さん深い」
「あらまあ!ごめんですよ。そういう難しい話にまきこまれるのは」
二人のやり取りを聞きながら、鈴はまた眠りの波が押し寄せてくるのを感じていた。魔女は昔、神隠しにあった…。森の中で散歩している。
―森を探検したら、きっと会える…。
大事なことを覚えた気になって、鈴は再び眠りに身を任せた。
しかし目を覚ました時にはすっかり忘れ、その出来事は、再び光が差すまで深い記憶の海の中に沈み込んでしまった。