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女神の山下り

 身を切るような寒さがゆるみ、心地よい日差しが降り始めるころ、山からは女神が降りてくる。この地域では古くから山へ祈りをこめ、山の女神の祭りを絶やさず執り行ってきた。里宮へ女神を迎え、踊りや食事を奉納し、数日間もてなすのだ。


 今まさに、山を降りる女神がいた。しかし彼女とその従者は祠のそばに腰かけ、じっと座り込んでいる。あどけない顔に化粧を施し、紅を入れたその目元は、今にも爆発しそうな怒りをはらんでいた。

 里に向かって流れる川から朝霧が立ちのぼり、春の知らせの若葉や花のにおいは漂っていても、その姿は霧に覆われ、数歩先を見渡すことさえ難しい。


「ねえ、はやくお宮へ行くよ」

「言っただろ。霧が晴れるのを待ってるんだ」


 女神役の娘は鈴といった。今年で6つになる幼子だ。従者役がその兄の竹雄だ。

祭り装束をまとい、翡翠の装身具を身につけ、華やかななりをしている。だが二人の表情はしかめ面で、晴れがましさを感じさせないものだった。


 鈴は石の上を片足でぱっぱと飛ぶと、ふいに下駄の裏を見て、大声を上げた。

「いやだ!泥だらけじゃない!なんだって泥なんかつくの」

「知らないよ。静かにしてろよ、もんくたれ」


 鈴は憮然として兄を睨みつける。

「その呼び方はやめなさいって言ってるでしょ、竹雄」

「そうしてほしけりゃもんくをやめろよ。何だい、お母さんの口癖を真似やがって。お前だっておれを呼び捨てのくせに」


 鈴はふんと鼻を鳴らし、頭を振った。そうすると、冠の玉飾りが揺れてしゃんしゃんと鳴るのだ。涼やかな音だが、苛立った時に聞くとやたら煩く聞こえる。鈴はそれをわかって、威嚇に使った。

「やめろよ、次やったら承知しないからな」

 竹雄は鈴の服の裾をはたいた。


 二人は里宮へ向かう儀式の途中だった。古い伝承の通り、昨晩は山宮に一晩泊まり、今日は二人きりで里宮まで下るのだ。大した距離ではないが、急斜面もある山道だ。霧が出ていては足元が危ない。


「歩けないんだったら、遊びましょうよ。わたしが山の女神様なんだから、お兄は動物の役ね。魔女がやりたかったらやってもいいのよ」

「やだね」

「あら、魔女っておもしろいのよ。まじないで動物になったり、毒とかつくれるのよ。あたし詳しいのよ、あとねえ…」

「そんな気分じゃないんだよ」

 竹雄は舌を鳴らしてそっぽを向いた。

「じゃあ何してりゃあいいのよ!あたしこんなじめじめしたところでじっとしてたら、もんくしかいえなくなるわ!」


 鈴がまた頭を振り始めたので、竹雄はかっとして鈴の冠をはたいた。すると、冠が頭から外れ、ぬかるんだ地面に転がった。


「いやだあ!あたしの冠が」


鈴は悲鳴を上げて、火がついたように泣き出した。冠と髪の毛をピンで留めていたので、髪もぐしゃぐしゃになってしまった。


「お前が悪いんだろ!余計なことばっかりして」

「何さ、何さ、お兄なんか大嫌い。あんたなんかどっかいっちゃえばいいんだ。あたしにいじわるして」

 鈴はめいいっぱい泣いた。この際だから、きのうトイレに起きたら怖かったことやら、朝ごはんが野菜ばっかりでつまらなかったこと、自分の身に起きた惨めなことを沢山思い出して、それもひっくるめて盛大に泣いた。


 普段なら、派手に泣きさえすれば上の兄さんやお父さんが助けてくれる。そんな調子だから、鈴はままならないことが起きたら泣く癖がついていた。


 しかし、泣き疲れてむせながら辺りを見回すと、祠のそばに座っているのは鈴一人きりになっていた。


 あいつ、本当にあたしを置いていった!鈴は冠を拾い上げ、派手に振りまわした。「いじわるたれ!いじわる竹雄!」大声をあげ、ぴょんぴょん跳ね、めいいっぱいうるさくしてやった。


「あたしのくまさん、もう貸してやらないよ」

「お絵かきだって、仲間に入れてやんない」

 鈴は思いつく限りの意地悪を叫んでみた。

しかし、騒がしい音も、鈴のとっておきの意地悪も、みんな霧に飲み込まれ、消えてなくなってゆく。辺りは真白い海のようで、鈴は自分がいまどこにいるのか心配になってきた。


「なんてことない。あたしがいなきゃ、お祭りにならないんだもん。きっとそのうち、慎にいさんかお父さんがくるんだ」


 気持ちを奮い立たせて呟いた言葉も、やはり霧の中に消えてゆく。鈴はしゃがんで、膝の間に顔をうずめた。この格好で呟けば、きっと上手くいく。


「だれか、助けに来るのよ」

 鈴はそっと囁いた。言葉は霧に消されないで、鈴の足の間に息づいている気がした。成功だ。鈴は続ける。

「すぐに空が晴れて、誰かが来るわ。お兄なんかいなくても大丈夫」

「あたしは山の女神様よ」


 こうしていれば、きっと安心だ。


 ほっとすると、眠気が襲ってきた。ちょうど眠るときの体勢に似ているのだ。いくらもしないうち、鈴はうたた寝をしてしまった。


―きものを脱いだら、里のお宮の周りを探検しよう。そのあとは、おかしをもらう。いつだか食べた、黒いつぶつぶのケーキはおいしかったっけ。おかしのあとはお昼寝、あとはお夕飯だわ。踊りはたいしてつまらないでしょうね、けどまあ、おとまりだもの、楽しくなるわ。夜、寝る頃には…


 鈴は夢うつつの中で、昨夜のことを思い出していた。夜中、なんだか寝付けなくて目が覚めたのだ。障子には正体の分からない影が揺らめいて、おまけに誰かの歌声も聞こえてきた。


 あれも儀式の内容なのだろうが、鈴には知る由もなく、ただわけがわからず怖かった。あの歌は、いったい何をうたっていたんだろう…


 みおやの、みぃこが、おとおりの…


 止せばいいのに、怖いことを思い出してしまう。

 しわがれてぼそぼそとしているのに、やけに耳につく老人の声だった。

 そもそも、人の声だったんだろうか…?


歌詞の断片ををたどりたい好奇心と、怖れとが入り混じり、頭が自由に動かせない…

 ふいに、鈴の体がぐらりと揺れた。昨日の夜の住人が呼び戻しにきたのかと、鈴はおどろいて目を見開いた。


「大丈夫、お腹痛いの」


 目の前にいたのは、見知らぬ女だった。心配そうに鈴の顔を覗き込んでいる。


「いい気持ちで寝ていたんだから、揺するのはよして。お兄とはぐれたから、迎えが来るのを待ってるのよ」

 鈴はうるさそうに言った。正直なところ、必要以上にびくびくしてしまったことがくやしかった。


「あら…そりゃごめんね。お兄ちゃんが迎えに来るんだね」

「ううん、お兄はきっとこない。でも、だれかが迎えに来るから、あたしは見つかるように待ってるの」


 女は立ち去りかけていたが、思案顔になり、引き返してきた。

「それじゃ、誰かが来るまで隣に座らせてよ」


 鈴は真横に座った女の顔をあらためて見つめた。なんと、髪の毛が灰色で、緑の目をしている。裾の長い白いワンピースに、深紅にひかれた口紅が目立ち、異様な存在感を放っている。鈴は声を落として聞いた。


「あんた、魔女?」

「ええー、何それ失礼じゃない?いや、失礼かわからんけど。そういうあんたは何?どこかのお姫さま?」


 失礼だと口にはしたものの、気さくな調子で女は問いかけた。


「ちがうわ、女神様なのよ」

「あー、ぽいねえ。めっちゃわかる」女は笑いながら、弾んだ声で続けた。「なになに、女神さまは何をしてくださるわけ」


 鈴は得意になって答えようとしたが、足元に転がる泥だらけの冠が目に入り、やめた。


「いまは何もしてあげない」

「へえ。なんで」


 鈴は地面をけり上げ、足の裏を見せつける。


「髪の毛も、服も、ぐちゃぐちゃなんだもん。足の裏もどろだらけよ。見てよ!」

「それはそれは」


 女は咳払いをしてまじめな顔をつくり、言った。

「さぞご立腹のことでしょう。ええ。ここはひとつ、わたくしめにお任せください。きっと女神さまにご満足いただく仕事をしてみせましょう」

 芝居がかったしぐさをし、すぐそばの大岩をさす。腰かけるのにちょうどよさそうだ。

 

-魔女と遊んであげるのも、わるくないわ。なんたってほんとの魔女かもしれないもん。


 鈴は顎をもちあげ、横目でちらりと目線をくれてやった。

「いいわ。ご満足いただこうかしら」


 女はまず、鞄から彩鮮やかな布を取り出し、大岩の上に敷いた。鈴の薄汚れた袴の裾も、布の上にひろげると、きちんとして見えた。

 次に髪を丁寧にほどくと、銀色の手鏡を鈴に持たせ、やさしくくしけずり始めた。


「山の女神さま。機嫌が直ったら、村に何をくださいますか」

「畑や森におめぐみをあげる」


「それはすばらしい」魔女はぱんと手を打った。「さすが女神さま。今年のお米は豊作ですね。果樹園の桃の木にも、お恵みをくださいますか」

「桃はだめ。むかし、食べたら虫が入ってて、ちょっとかじっちゃったんだもの。あれからきっと住み着いて、ときどき悪さをするんだわ」

「どんな悪さです」

「秘密よ。女神さまのことなら教えてあげるけど、あたしのことはまだ言わない」


 女はへえ、とつぶやいた。その声は楽しげだった。

 のんびりした口調とは裏腹に、女の手は休みなく動き、鞄からは、ピン、ゴム、かざりひも、かんざしなどが次々と飛び出した。女はそれがどこに収まるべきかわかりきって、迷いなく鈴の頭にはめ込んでいった。

つい感心して手鏡を見つめていると、緑の瞳は鈴をとらえ、水のように笑うのだった。


―あのかばんは、なんてたくさんのものが入っているんだろう。これは本当に魔女だわ。帰ったら、おにいにも知らせてやろう…。ただ、見たことのないものを取り出したり、おかしな所に誘われないか、それだけは気をつけなくちゃ。


 そんなことを考えているうちに、女は櫛でコンと鈴の頭をたたいた。できあがりの合図だった。

「ささ、女神さま。いかがでしょう」

「すてきだわ」ため息と共に、鈴は素直につぶやいた。


 完成した髪型は、きちんと整っていた。女の手持ちのかんざしや、耳の上に施された編み込みはかわいらしく、もとよりずっと現代的で、鈴の好みにあっていた。鈴が満足したのを見て取って、女は手を打ち合わせた。


「よし!そんならそろそろ行こう。お宮まで案内するよ」

 鈴はおもわずほころんでいた顔を引き結んだ。そして、先ほどの誓いを思い出し、まごつきながら言った。

「でも、あたしのこと、だれか探しに来るかもしれない。だれだかはわかんないけど、きっと…」


 女は少し考えて、片手を差し出した。

「そっか。じゃきっと私が迎えの人だね。行こう!」


 鈴は手鏡の中の自分と、女の青い瞳を交互に見つめた。

 気がつけば、霧は晴れていた。

 

「女神さまって、いつきまったの?」

「お正月に占いをして、それからよ。3人選ばれて、最後にあたしだけがお祭りの女神さまになったの」


 霧が晴れても、山道はぬかるんで歩きづらい。一度石段で転びかけてから、女は鈴の手を引いて歩いてくれた。


「へえ、何か試験でもあったの」

「衣装を着て踊るの。あと、一人でお部屋に入って、イノシシの顔をみたりしたよ。そういうときびっくりしなかったから、あたしになったのよ」

「イノシシの顔?」

「狩りの人が取ってきたやつだよ。死んでた」

「えー、やばい。そんなん絶対びっくりするやつじゃん。なに急に死んだイノシシの顔見せてくるんじゃーってなるわ」

「死んでるなっては思ったよ。でもそれはそれだけだもん」

「なんかすごいねえ。女神さま」

 魔女は鈴の頭を軽くなでた。得体のしれない女だが、悪い気はなしない。


「女神さまはなんてお名前なの?」

「教えない。女神さまのことは答えても、あたしのことはこたえないよ」

「言いたくなきゃいいんだけど。なんで?」

「あんた、魔女かもしれないもん」

「あー、これは失礼だわ。いよいよ失礼だわー。そんな女神はこうしてやる」

 女はおもむろに鈴を持ち上げた。何をすると暴れようとしたが、遠くに見える景色に気づいてやめた。


「お宮が見える!」

「よくがんばったね。もう少しだよ」

「お宮についたらね、ご飯食べて、お昼寝するんだ」


 鈴は魔女の手を振りほどき、小走りで駆け出した。はやくこの重ったるい服をぬいで、楽になるんだ!だが、近づくにつれて、お宮の姿は見えなくなり、代わりに大きな石のトンネルが現れた。

 トンネルはシダに覆われ、古びていた。入り口は狭く、石壁は露に濡れ、小さなナメクジが這っている。


「ここを抜けたらお宮だよ。がんばってね」

 女は立ち止まって手を振ってみせた。


「ええ?一緒に行ってくれないの」

「ちょっと用事があるんだ。大丈夫大丈夫。一人でも怖いことないよ。楽勝っしょ」


 怖いとかじゃない。じめじめして、ちょっと嫌なんだ。恨めしそうに見つめる鈴の瞳に、女は息をついて歩み寄った。鈴の足元にしゃがみ込み、少し低い声でささやく。


「…ほら、女神さまの指輪、素敵な色してる。これは翡翠だね。濡れた袖も、すっかり乾いたよ」女は鈴の耳をなで、そのまま首飾り手に取った。「見てごらん。たくさんおまじないが書いてある。女神さまは大丈夫なんだよ。おまじないを手にしたら、冒険しなきゃ」


女はそう言い切ると、ゆっくりと後ろへ一歩下がった。それが合図のように思え、鈴はトンネルの中へと歩き始めた。一歩、二歩、三歩進むと、辺りは完全な闇に覆われた。


 右手を壁につけ、ゆっくりと歩き始める。

 どこかで水の滴る音がする。

 鈴の装身具のこすれる音が、からからと後ろからついてくる。

 これも儀式のひとつなんだろうか。トンネルに足を踏み入れる勇気は沸いたものの、怖れがまったくなくなったわけではない。

 右手にぬるりとした感触が走って、あわてて手を引っ込める。


 なんだってこんなややこしいことをするんだろう。山の神をお迎えする気があるんだろうか。歩きにくいし怖いし、あたしだったら途中で引き返したくなるわ。


 鈴は次第にかっかしてきて、大股で歩きはじめた。途中で小枝を踏んでばきりと音をたてたが、悪態をついてけとばしてやった。すると、小枝は手前に当たって跳ね返ってきた。どうやら行き止まりらしい。


 手を伸ばしてあらためると、道が左に逸れていた。体を横にして隙間に滑り込ませると、目の前に光が飛び込んできた。


 鈴は手をかざして光のさす石段を見つめた。闇から見つめるトンネルの出口は、逆に異世界の入り口のようにも思えて、鈴は今自分がどちら側へ行こうとしているんだろうと、漠然と感じた。


 湿った階段にゆっくり足をのせ、慎重に体重をかける。数段上って手を伸ばすと、指先が木の根にさわった。頑丈な根をつかみ、体を引き上げる。


 鈴がつかんだ木は榊だった。それは、見慣れた里宮の神木だった。

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