56 本意か不本意か
何だか頬が温かい。瞼越しにでも分かる光に私は目を開けた。
「お目覚めになられましたか」
聞こえた声の方に顔を向けると、ひどく高い位置から私を見下ろしている白髪の男性……確かリチャードの執事だと名乗っていた人物がいた。何でそんなところから私を見ているのだろうか。状況を整理しようにも頭の中を何千というナメクジが這いまわっているようで、思考は一つにまとまることなくもやもやと揺蕩うばかりだった。私はいったい……。
「ご気分はいかがでしょうか。急にお倒れになられたので心配致しました」
倒れた? 視線を戻してみれば、なるほど自分はベッドに横になっている。驚いた私は体を起こそうとしたが、大きく視界がぐらついて思わずベッドに腕をついた。だがその腕が震えて、うまく姿勢が保てない。
「ご無理はよくございません。さぁ、こちらをお飲みになってもうひと眠りされると宜しいでしょう」
そう言えばやけに喉が渇いていた。口元に当てられたコップの中の透明な液体が唇を濡らすと、私はそれをごくごくと喉に流し込んだ。それをじっと見守っていた執事がすっかり空になったコップを下げて言った。
「おやすみなさいませ」
その言葉を合図に私は吸い込まれるようにベッドに倒れ込んだ。
「兄さんに報告するのは後でにしましょう」
サロンに駆けこんだ俺の話を目を瞑って聞いていたポールは、信じられないようなことを言った。
「後でって、一刻も早く知らせてやらないと!」
「それで兄さんが飛んで来られるとでも?」
冷ややかなポールの視線が俺を捉えた。そりゃ間もなく東大陸に到着しようというギーが、こちらに戻ってくるのには時間がかかることぐらい承知している。だが守って欲しいと託したはずの相手が拉致されたかもしれないというのに、それを知らせないなんて。
「だとしても!」
「この話を聞いた兄さんが向こうで何をしでかすか分かったものではありません。今の兄さんには何の立場もありません。そんな兄さんが暴れたら……ただの犯罪者です」
「それならとっとと俺たちでイヴリンさんを連れ戻そう。それなら問題ないだろ」
「もちろんそのつもりです。但しやり方は考えないといけませんね。仮にも相手は隣国の貴族なのです。それにイヴリン嬢は自ら彼の下に向かったということを忘れてはいけません」
いつものように淡々と話をするポールに苛立ちを感じた。こいつはいつだって他人事のように話をする。感情をどこかに閉まったまま、その場所すらも最早忘れてしまったかのように。
「そんな悠長なことを言ってる場合じゃないだろ。お前は悔しくないのかよ。所詮お前の好い人じゃないからどうでもいいのか」
俺は守ると誓ったはずの女性をまんまと敵の手の中に送り込んでしまった自分が許せなかった。ポールも同じ気持ちのはずだろうと、きっと素早く動いてくれるだろうと思っていたのだ。だからつい口を衝いて出た言葉だった。
ダンッ。
壁に拳を打ち付けたのはポールだった。
「どうするか後で連絡します」
ポールは俺と視線を合わせることなく足早にサロンを出て行った。
(あぁ、やっちまった)
俺は額に手をやりため息をついた。あいつの性格なら幼い頃から見てきたのだから嫌という程分かっているはずだった。
「イヴリンさんに悪いことしちゃったわ」
それまで黙っていたメラニーがぽつりと呟いた。てっきり先ほどの言動について辛辣な言葉を突き付けられると思っていただけに意外な発言だった。
「別にお前は悪かないだろ」
「ううん。私が彼女の立場だったらって考えてみたの。きっと嫌味な女だったと思うわ」
「そんな酷いこと言ったのかよ」
「ギーの子供の頃の話をいっぱいしてあげるって言ったのよ」
ギーの正体を知る幼馴染か……。
何でもないような会話だが、もしイヴリンさんの幼馴染の男性からあいつの事なら俺が教えてやるよなんて言われようものなら、二三発は殴っているかもしれない。
俺は深くため息をついた。
「俺たちには確かに特殊な事情があった。だとしてもイヴリンさんには話してやるべきだったのかもしれないな。ギーも含めてな」
「そうね。今更だけどね」
現状を見れば俺たちが誤った選択をしたことは明らかだった。イヴリンさんはリチャードからギーがフリースラント王国の第一王子であることを聞いたはずだ。その時彼女は何を思ったのだろうか。そしてその事実を隠し続けた俺たちのことをどう思っただろうか。もしかしたら俺たちの信頼は失墜し、彼女はこちらに戻る気がなくなったのかもしれない。
俺はただ連れ戻しさえすればいいと単純に考えていた。だがイヴリンさんの気持ちが分からない以上、どう動けば正解なのかも分からない。ポールが言っていた事は尤もな事だったのだ。
「ポールの奴、結構怒ってたな。俺、謝ってくるわ」
「ホーク。時々あなたの事が羨ましくなるわ」
「へっ?」
「ポールの感情を引き出せるのはあなたぐらいよ。イヴリンさんも言ってたわ、ホークといる時のポールは自然で素が出てるって。ポールにはあなたが必要なのよ。彼もそれを理解しているはずよ」
俺はずっとギーに忠誠を誓うつもりでいた。そんな俺がポールの側近として相応しいと思ったことは一度もなかった。それをポールも感づいていると思っていたのに、それでも俺にそばに居ていいというのか。
「メラニーはいい奥さんになりそうだな」
「は? ちょっと何言ってるのよ」
「ははは。ありがとうってことだよ」
顔を真っ赤にしたメラニーを残し、俺はサロンを後にした。
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