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54 リチャードの船に

「イヴリン様でございますね。お待ち申し上げておりました。こちらにどうぞ」


 海岸に着いた私に声を掛けてきたのは、白髪を後ろにきっちりと撫でつけ、まるで背中に添え木でも当てているかのように真っ直ぐに立った男性だった。黒いかっちりとした服装のその男性は、夜明けの海岸にはあまりにも不釣り合いで、私はまだ別荘の自分の部屋で、夢でも見ているのではないかと思った。


「ご安心下さい。私はリチャード様の執事をしておる者でございます」


 私が見ず知らずの男性について行くべきか悩んでいると解釈したのか、丁寧に言葉を続けたその執事は、無表情のまま彼の背後にある小舟を指差した。既に一人乗っている男性の手にはオールが握られていて、私たちの乗船を急かしているようだった。


「リチャード様の船は、ほらあそこに見えております三本マストの船にございます」


 霧のせいで空中に浮かんでいるように見えたのは、帆を張り始めている黒い船だった。執事と同じくその船の黒い色は、朝靄の中この世のものとは思えない雰囲気を漂わせてたいた。ただ帆を張る動きだけが、その船を現実に繋ぎ止めているかのようだった。


「出港の時間が迫っています」


 そうか、間に合ったんだわ、私。執事の言葉に妙な安堵感を覚えて、これが夢でも現実でも、もう引き返すという選択肢はないということを、私はすんなり受け入れることが出来た。


「イヴリンでございます。お話をお伺いに参りました。どうぞよろしくお願い致します」

「イヴリン様、それでは参りましょう」


 お辞儀をして顔を上げた私は、先ほどまでとは違ってその顔に人間らしい表情を浮かべた執事の後をついていった。この先何を聞かされることになったとしても、私は自分の選んだ道を進んで行くと心に決めて。






「ホーク! いいところに。イヴリン嬢を見かけませんでしたか」

「いや、見てないけど。どうかしたのか」

「イヴリン嬢が食堂にも部屋にもいないようなのです」


 俺が朝の見回りのために庭に出ようとしたところ、いつもは後ろで丁寧に束ねている髪を下ろしたままのポールが駆け寄って来た。こんなに慌てた様子のこいつを見るはいつ以来だろうか。俺はポールのそんな姿をしげしげと眺めた。イヴリンさんが見当たらないぐらいで、何もそんなに慌てなくてもいいんじゃないだろうか。彼女だって大人なんだぞ。


「屋敷の中は確認したのか? 庭は?」

「いえ、これから確認に向かうところでした。昨日刺繍屋から戻って来てから何か変わったことはありませんでしたか?」

「いや、何もなかった。庭の方は俺が見に行こう。ついでにイヴリンさんの部屋も庭側から確認してみる」

「えぇ、お願いします。部屋はノックしただけで中には入っていません。僕とメラニーは屋敷内を探します。終わったらサロンに集合しましょう」

「分かった」


 俺の返事を聞くや否や踵を返したポールは、足早に去っていった。俺は奴の背中を見送ると、庭に通じるドアを開けた。途端に張り詰めたような冷たい空気が肌を刺し、俺は知らず身震いした。それでも日はすっかり上っており、枯れて薄茶色になり所々地面が見えるようになっていた芝生も、今ばかりはその光を受けて輝いているように見えた。

 セントポーリアには明日まで滞在予定になっている。そう言えば、まだ海岸に下りていなかった。きっと太陽に照らされた海は美しいに違いない。本当はイヴリンさんに案内してもらいたかったのだが、この前の様子でそれは無理だと分かった。ウェルペンに帰るまでには一人で行ってみるか、と思いながら角を曲がった俺の視界に飛び込んできたのは、全開になっているイヴリンさんの部屋の窓だった。空気の入れ替えにしては、この時期としてはあまりにも大胆に開いていることに、先ほどのポールの慌てた様子が思い起こされた。まさかあいつの危惧していた通り、何かあったというのだろうか。俺は逸る気持ちを無理やり抑えてそっと近寄っていった。


 窓から見える範囲にイヴリンさんはおらず、ただ窓際近くに置かれたスタンドが、この部屋の主人がいた時のまま灯っているだけだった。その明かりも日の光の下では頼りなげで、急に不安を覚えた俺は今度は急いで窓枠を乗り越え部屋の中に入った。

 ベッドは整えられたままで使った形跡はなかった。昨夜は皆で彼女の刺繍が売れたお祝いをした後、各自部屋に戻っている。それ程遅い時間ではなかったし、イヴリンさんはお酒は口にしていなかった。そんな彼女がベッドではなくソファで休んだとは考えにくい。それならば彼女はこの部屋に戻ってきて早々に姿を消したというのだろうか。俺はこの部屋の中に僅かでも彼女へと繋がる手がかりはないかと辺りを見回した。

 クローゼットの扉の下から何か紙のような物がはみ出していた。仮にも女性のクローゼットだ、本当ならメラニーを呼んでくるべきなのだろう。だが緊急事態だ、俺は扉を開けようか開けまいか悩んだあげく、扉には触れずそれを引き抜くことにした。果たしてそれは上質な紙に男性らしい大胆な筆致で書かれた手紙のようだった。


(済まない)


 空っぽの部屋の中で、俺は誰に対してなのかも分からないまま、人の手紙を勝手に読んでしまうことへの謝罪をすると、その文面を目で追った。


 血の気が引いていくような感覚とともに手足が冷たくなり、イヴリンさんの刺繍への賛辞から始まった手紙は、俺の手からするりと落ちた。イヴリンさんはいなくなった訳じゃなかった。自ら出て行ったのだ。そう、ギーの正体を知るために。

 何故俺たちはもっと彼女の心に寄り添ってやることが出来なかったのだろう。俺たちにだって言い分があることは分かっている。だが何も知らない彼女にしてみれば、どれだけ不安だっただろうか。これまで彼女が見せてきた様子の一つ一つが思い出され、俺は何も出来なかった自分に吐き気がした。

 いや今は考えている場合じゃない。彼女が戻ってきていないということは、既に出港してしまっているであろう船に乗ったままの可能性が高い。それが彼女の本意か不本意かまでは分からないが、相手が誰かは分かっているのだ。それなら連れ戻しに行けばいいだけの事だ。

 俺は部屋の鍵を解除するとサロンへと走り出した。

お読み頂きありがとうございました。

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