53 リチャードからの手紙
朝靄の中、私は海岸への道を転がるようにして下りていた。手紙には朝までお待ち出来るとあった。もしもう出港してしまっていたらと思うと、焦りで上手く足を動かせなかった。ギーと毎日歩いた景色は今は後ろに流れていくだけで、私は肩で息をしながらひたすら海岸を目指した。
刺繍屋から別荘に戻った私に、お祝いだからくつろいでいてと、皆さんは何の手伝いもさせてくれなかった。ラ・メールにいればもちろんのこと、ウェルペンの屋敷にいる時も何かと動いていた私は、久々に何もしない時間をどう過ごしたらいいのか困惑していた。仕方なくこもった自室から眺めた庭は、もうすっかり葉を落とした樹々のせいか、以前より広く感じられた。それでも常緑の低木が植えてあるせいで、色を失ったとまではいかないが、やはり寂しさが漂っているかのようだった。
私は意を決すると庭の片隅にあるベンチに向かうため部屋を後にした。そこはギーが旅立ちを告げた場所であり、ブレスレットをくれた場所であった。何となく敬遠していたのだが、自分の気持ちと向き合うにはいい機会だと思った。
ベンチから眺めた空は、沈みゆく太陽の色を少しだけ映して、薄い紫に染められていた。ウェルペンよりも澄んだ空気に包まれて、思っていたより気持ちは凪いでいた。屋敷からホークさんの大きな声とメラニーさんの笑い声が聞こえてくる。ただ私だけは一人ここに座っていた。
今頃ギーはどこにいるのだろうか。もうとっくに東大陸に着いているのだろうか。一度湧き出した疑問は留まることのない波のように次から次へと私を襲った。一体東大陸で何をするのか、どうしてギーが行かなければならないのか、忽ち私は溺れそうになった。苦しかった。だがそうなってみて分かったことがあった。私はもう守られるだけの子供じゃない、全てを知って自ら選び取って行きたいのだと。
「こちらにいらしたのですね。お部屋におられなかったので心配致しました」
心なしか緊張した様子のポールさんは、それでも口調だけは穏やかだった。
「何もしていないのには慣れていなくて」
「貴女ほど何でも出来れば、そういうこともあるのでしょうね。きっと兄さんはそんな貴女に生かされたのだと思います。本当にいくら感謝しても足りないぐらいです」
ギーに生かされたのは私の方だ。ギーのお陰で偽りのない本当の自分を出すことが出来たのだから。
「もうギーは東大陸に着いたのでしょうか」
「まだその連絡は受けていませんが、間もなくだろうと思っています」
「そうですか」
「大丈夫ですよ、ギーにはクロウが付いていますから。無茶な真似はさせません」
何が、誰が、大丈夫だと言うのだろうか。ポールさんの言葉は母が亡くなってから腫れものに触るように接した父や屋敷の人間を思い起こさせた。心配ない、待っていて欲しい、と口々に言うばかりで、まるで未知の言語を聞かされているようだった。理解できるのは気遣ってくれているということだけ。
「ありがとうございます」
そんな彼らを安心させる方法なら既に分かっている。今までしてきた通り、意思を持たない人形のように、ただ微笑んでいればいいのだ。私は口角を僅かに上げて明るい声を出してみせた。でもギーといた時の自分を知ってしまった私は、その慣れたはずの行為に息苦しさを覚えずにはいられなかった。誰かにここから救い出して欲しかった。
「そろそろ、食堂に参りましょうか。メラニーもホークも主役の登場を待ちかねていますよ」
私は屋敷に向かうポールさんの後についていった。振り返って見たベンチにもちろんギーの姿はなかった。
ポールさんが振る舞ってくれた魚のムニエルは、本当に美味しかった。身はしっとりと仕上がっていて、白身の魚特有の淡泊さにソースのこくが良くマッチしていた。まさかあれほどの物を作るだなんて思いもしなかった。メラニーさんが複雑な表情を浮かべて食べていたのも頷ける。ポールさんは凝った料理を振る舞われる女性の身になって少しは考えるべきだと思う。
皆さんと飲んで食べての楽しい時間はあっと言う間に過ぎて、そろそろ休もうかと自室に下がったところに控えめなノックの音がした。こんな時間に誰だろうか。ドアを開けるといつもらしからぬ、おずおずとした様子のキャサリンが立っていた。
「お嬢様、夜分に申し訳ござさいません。少しだけ宜しいでしょうか」
「あらキャサリンどうしたの、入ってちょうだい」
私は彼女の手を取ってソファーに座らせた。
「実はお嬢様宛のお手紙をお預かりしております」
彼女はお仕着せのポケットから封筒を取り出すと、私に渡して寄こした。どうやら私たちが刺繍屋から戻る前に、使いの者だと現れた男から他の誰にも気付かれないように私に渡して欲しい、と頼まれたとのことだった。
「ポール様からはお嬢様宛に何か動きがあれば教えて下さいと言われていたのですが、先ずはお嬢様にご確認してからと思いまして」
裏を返してみると封蝋には立派な紋章が押されており、リチャードと署名が入っていた。私が知っているリチャードと言えば、昼間私の作品を購入してくれた方しかいない。
あの時熱心に作品を観ていたリチャードさんに、オーナーが私の事を紹介してくれたのだが、私の名前を聞いた途端、彼は言い値で買うから譲って欲しいとオーナーに願い出たのだ。
果たして会ったばかりの私に何の用件があるのか分からないが、恐らく次の作品について使って欲しいモチーフなどあるのかもしれない。変な内容であればその時に皆さんに相談すればよい事だ。
「キャサリンありがとう、いい判断だったわ。この方は昼間私の刺繍をご購入して下さった方だと思うの。だから心配しなくても大丈夫よ。後は私の方で確認して必要があれば皆さんにご相談するわ。さあ、もう休みましょう」
「はい、お嬢様。お休みなさいませ」
明らかにほっとした様子のキャサリンを見送った私は、窓辺の椅子に座ると封を切った。そこに書かれていたのは、始めは購入した作品への賛辞だったと思う。というのも読み進めた先に書いてあった内容に吸い寄せられて、私はそれ以外の一切を頭から締め出してしまったからだ。
「ギーという人物について知りたくはありませんか。私なら貴女に彼が何者か教えて差し上げることが出来ます。興味がおありならお一人で海岸まで来て頂きたい。私の船でお話しさせて頂きましょう。ただ残念なことに私も多忙のため、お待ち出来るのは明日の朝までとなります。ご招待出来るのは貴女お一人だけ、ということをくれぐれもお忘れなく。お会い出来るのを楽しみにしております。リチャード」
どうしてギーのことが書かれているのか、いくら考えてみても分からなかった。それもそのはずだ、だってみんな私には何も話してくれないのだから判断のしようもない。でも確かに妖しいとは思う。それでも少し話を聞くだけだならと肯定する自分がいる一方で、みんなに心配をかけるのではないかと言い訳ばかり考えて拒否する自分もいた。でも本当は真実を知る勇気がなかっただけなのだ。全てを知って自ら選び取って行きたいとなどと調子のいいことを考えてはいても、いざとなると怖気づく自分が情けなかった。
気が付けば辺りが白んできていた。迷っている場合ではなかった。このチャンスを逃したら答えを聞くのは全てが終わった後からでしかない。果たしてそれで、その時の自分は納得出来るのか。
否。
私は手早く着替えるとコートを片手に、窓から庭へと下りて走り出した。お願い、間に合って。
こうして私は朝靄の中、海岸への道を目指した。
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