51 忍び寄る影
「おや、いらっしゃい。またお客さんかい。今日は随分といい日じゃないか」
オーナーが頭の上に纏めた髪を揺らしながら、扉を開けた主に声を掛けた。私とメラニーさんが振り返った先に居たのはお客様ではなく、ポールさんと首だけ出しているホークさんだった。
「ポールさん、ホークさん」
鼻の頭を赤くしてコートの襟まで立てているホークさんは「もう終わったのか」と期待に満ちた目をこちらに向けた。作品を納品するだけのつもりだったから(メラニーさんもそう思っていたかは定かではないが)外で待っていてもらったのだが、もう大分時間が経っている。あの様子から察するに相当寒かったに違いない。それなのに責めるような顔をするわけでもないホークさんは、本当に優しい人なのだと思う。長くなりそうな時点で声を掛けておくべきだった。
「何だ、お客じゃなくてお嬢ちゃんたちの知り合いかい。またでかいのばかり良く揃えたもんだね」
ポールさんもホークさんもかなり上背があるため、オーナーは二人を仰ぎ見る格好になっていた。
「誤解させてしまいましたか」と胸に手を当てて軽く頭を垂れたポールさんの姿はあまりに洗練されていて、こちらが悪い事をしているような気になった。だが当の本人はそんな周りの様子など目に入っていないようで、「それでイヴリン嬢の作品はどちらに」と何食わぬ顔で尋ねた。
「それなんだけどね、聞いておくれよ。彼女が持って来てくれた作品、あっと言う間に売れちまったんだよ」
「本当か! 流石はイヴリンさんだ。だけどあの作品をもう一度観られなかったのは残念だな」
ポールさんの背中を押して漸く店内に入ったホークさんは、扉を閉めながら喜んだり悲しんだりと忙しそうだ。一方のポールさんはもう売れたということへの驚きというより、何事か懸念のありそうな表情を浮かべていた。
「先ほど店を出て行かれた御仁が買い求められたということですか」
「その通りだよ。あの男性に会ったのかい?」
「すれ違っただけですね。前からこちらのお店をご贔屓にされている方なのですか?」
「初めてのお客だったね。作品を観るなり気に入ったと言ってね、ちょうど作家もいるからとイヴリンさんを紹介したんだよ。そうしたら甚く感激してね、言い値でいいから売ってくれだとさ。こんな商売をしたのは久しぶりだよ」
オーナーは興奮冷めやらぬ様子で、身振り手振りを交えてその時の状況を事細かに説明している。だが意気揚々と話すオーナーに比べて、ポールさんの表情は増々陰っていくように見えた。今までのポールさんなら手放しで喜んでくれるものと思っていた私は、その様子に何か引っかかるものを感じていた。メラニーさんはそんなポールさんにちらりと視線をやると、「ポールの事は気にしなくていいわ」とそっと私に耳打ちした。
「それでその羽振りの良い御仁はどこのどなたなのでしょうか」
「あぁ、ネーデルラン皇国のリチャードだって言っていたね。イヴリンさんの作品を優先的に買い付けたいそうだよ」
オーナーの答えにポールさんが口をキュッと引き結んだのを私は見逃さなかった。だが次の瞬間には何事もなかったかのような顔をしたポールさんは、顎に手をやり「そうですか」と小さく呟いた。
「そうそうそれでイヴリンさんへのお支払いの話をしていたところだったんだよ。以前交わした契約の通り、店の取り分を除いた残りがイヴリンさんへの報酬ってことで問題ないかね」
「はい、それで結構です」
ポールさんの事は気掛かりではあったが、メラニーさんも気にするなと言っていたし、何より報酬の話に私の心は少なからず弾んでいた。『ラ・メール』という宿屋兼食堂での売上も、商売をやっているものとして当然喜ばしいことであるが、ギーが背中を押してくれた刺繍から得られる対価には格別な思いがあった。
「良かったよ。それじゃ、今回はこれでいいかね」
オーナーから提示された額は、先ほどリチャードと名乗った人が払った額の八割といったところだった。契約では確か七割で、材料費は店持ちであることを考えれば、元々この契約は破格の内容であった筈だ。それなのに上乗せして貰う訳にはいかない。
「これでは多過ぎます」
「いいんだよ。イヴリンさんの作品にはもう固定客が付いたんだ。店としてその作品を売るために時間を割く必要がないってことは、非常に有益な事だろ? だからまた頼むよ」
気持ちいいほど豪快に笑うオーナー。私の手を握り「良かったわね」と言ってくれるメラニーさん。ギーが繋いでくれた縁に囲まれて、私は感謝の気持ちで一杯だった。きっとギーがこの場に居たら、多過ぎる報酬も受け取っておけと言ってくれるに違いない。
「それではお言葉に甘えて、頂いておきます」
「あぁ、うちも損な商売をするつもりは無いから安心しておくれ。早速だけど契約書の内容を変更しちまおう。もう少し時間はあるかい」
「分かりました。それではお願い致します」
オーナーとのやり取りを聞いていたポールさんは、ホークさんの肩に手を回すとそっと扉に向かって行った。ホークさんは振り向きざまに私に片手を上げると「表で待ってる」と口だけ動かした。
「なんだかんだ言っても、いいコンビよね」
「ポールさんとホークさんのことですよね」
「えぇ。お互い合ってないと思ってるみたいだけれどね」
「そうなんですか?」
酷く驚いた私にメラニーさんは笑いながら答えた。
「そうなのよ。ホークはギーの相棒になりたがっていたし、ポールはそんなホークを繋ぎ止められるだけの魅力は自分にはないと思っていたしね」
「でもホークさんといるポールさんは自然といいますか、普段より素が出ている気がするんです。もちろん、ギーとクロウさんもとてもいいコンビですし、収まるべき所に収まっているような」
「その通りだと思うわ。腹立たしい限りだけど、何のかんの言ってもギーは良く見ている。自分を諌められるのはホークではなくクロウだと分かっているし、いつも冷静過ぎるポールには少し向こう見ずなくらいのホークのような人間が必要だという事をね。まったくギーのくせにっ」
すっかり慣れたメラニーさんの口癖だったが、今は笑う気になれなかった。それは私の中でゆっくりと、だが着実に育っていた仄暗い気持ちのせいだった。
以前ポールさんの居場所の確認に、わざわざギーのいる『ラ・メール』までやって来た彼女を見た時に初めて抱いた感情。今まで認めてこなかっただけで、それは春を待つ種のようにずっと私の心にあったのだと思う。私には誰も教えてくれないギーの正体を知り、彼の人となりについて語る彼女への焦りにも似た気持ちは「嫉妬」という名の芽を出し大きく成長し始めている。だがそれは、私に泣いてもいいのだと手を差し伸べ、友達になろうと声をかけてくれる彼女への冒涜なのではないだろうか。こんな感情を持った自分がとても恐ろしかった。
「それでね、お願いがあるの。くれぐれもポールには刺繍を見せないでね。じゃないと習えって言われちゃうから。自慢じゃないけど私、刺繍は大の苦手としているのよ」
茶目っ気たっぷりに懇願してきたメラニーさんの声は軽やかで透き通っており、その艶やかで大きな瞳に見つめられた私は、ただただ立ち尽くすばかりだった。
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