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50 セントポーリアの町で俺は

「ヘックション!」


 ちゃんと着込んできたつもりだったんだが。

 イヴリンさんとメラニーの奴が店に入って、もう大分たっている。冬のこの時期、体を動かさずに立ちっ放しでは、流石の俺でも冷えてくるというものだ。俺は外していたコートのボタンをかけると、また通りを眺めた。昨日イヴリンさんに見せて貰った刺繍の中のセントポーリアの町並みが、今俺の眼前に広がっている。この先にある温泉浴場に向かう人、出て来た人が行きかう町は、観光地と言うに似つかわしく大層賑わっていた。

 実際の町を目にしてみて、あの刺繍が如何に凄いものか改めて認識した。あれは、ただ景色を切り取って再現したなんてものではない。そこには躍動感溢れる「生」そのものがあった。色使いに因るものなのか、構図に因るものなのか、俺には難しい事は分からない。ただ一つ言えるとしたら、あれ程のものを生み出しておきながら、イヴリンさんからは何の気負いも感じられないということだ。きっとイヴリンさんの潜在的な部分から湧き出すように出てくるものだからなのかもしれない。

 俺はあの作品をもう一度目にしたくなり、通りを渡り出そうとしたところ、先ほどからあちらこちらの土産物屋を順に冷かしていた身なりの良い男が、お付きの者と共に件の刺繍屋に入ってしまった。チリンチリンと扉に付けられたベルの音が小さく響き、そもそも店が狭いから外で待っていろと言われていたことを思い出した俺は、仕方なくその場に踏みとどまった。山側からの一際強い吹き下ろしの風が吹いて、俺は堪らずコートの襟を立てた。どこまでも晴れ渡った空は青く、薄い筋のような雲が流れていた。


 昨晩イヴリンさんが声もなく大粒の涙を零し始めた時、俺は彼女を抱きしめてしまいたかった。もちろんそんな事はしなかったし、気持ちを押し殺し苦しんでいる彼女にそれなりの助言をすることも出来たと思う。だが彼女が自分の弱さを曝け出す場所が俺であったらと、心の片隅にでも思わなかったかと言えば、それは嘘になる。そんなイヴリンさんと、どんな顔をして朝食の席に着けばいいのか、俺はいたずらをして叱られた子供のような気分で一晩過ごした。だからポールが今朝現れた時には正直ほっとした。だが「到着は今日の夕方の筈だったんじゃないのか」と何気なく尋ねた俺に、「船を使ったんだ」と言ったポールは探るような目を向けてきた。どうやらメラニーの父ラインバウト殿が経営している貿易会社の船を動かしたらしい。ウェルペンから船を使えば、海流の影響で陸路の三分の一程の時間で来られる。そう、来られはするが、ポールがそこまでして急ぐ必要がどこにあったと言うのだろうか。しかもメラニーまで連れて来て。このドルバック貿易の別荘に仕える使用人はいくらでもいるというのに、そんな場所で俺がイヴリンさんに何かするとでも思っていたのだろうか。俺が邪な気持ちを抱いているとでも。

 そう言えばまだイヴリンさんの護衛として『ラ・メール』に行ったばかりの頃から、ポールは俺に釘を刺し続けていた。俺がイヴリンさんに惹かれている――少なくともそんな風に見えていたという事なのか。いや、俺の中にあるのは、俺がギーに抱いているのと同じ憧れの筈だ。そんな存在に頼られる俺でありたいという願望が、己を突き動かしているに過ぎない。俺の知らない俺のことを、先回りして諌めようとするポールのことがずっと面白くなかった。今回もきっとそうだ。ポールの取り越し苦労に過ぎない。だから俺はポールの目を真っ直ぐ見返して、「船まで出させるとは流石に殿下のすることは違うな」と精一杯の皮肉を口にした。俺の言葉を聞いたポールの目は、今度は何も語りはしなかった。奴はふっと息も漏らすと、そのままメラニーと共に行ってしまった。

 その後何があったのかは知らないが、メラニーと共に食堂に現れたイヴリンさんは目こそ腫れていたものの、どこか吹っ切れたような表情をしていた。ポールも心なしか満足そうで、それが返って俺をイライラとさせた。俺にだってイヴリンさんを守ることぐらい出来る。そういう思いが俺の心の奥底にそっと溜まっていくのを感じていた。


 チリンチリンと再びベルの音がして、先ほど入って行った身なりの良い男が刺繍屋から出て来た。どうやら何か購入したようで、お付きの者が包みを脇に抱えている。金も身分もありそうな男の目に留まる品がこの観光地にあったことが、俺は何故だか嬉しかった。それでこそイヴリンさんの作品が飾られる土地に相応しい評価、という気がしたからかもしれない。この町での用が済んだのか、港へと続く道に向かって行く男の姿を追っていると、ポールがこちらに向かって歩いて来るのが見えた。今しがた考えていた相手と顔を合わせたくは無かったが、そろそろイヴリンさんとメラニーの様子を見ても良い頃合いかもしれなかった。


「二人はまだ店の中なのですね」

「あぁ、お前がすれ違った男が入る前からな」

「そうですか」

「行ってみるか」

「えぇ、そうしましょう。ホークも冷えたでしょうしね」


 ポールは器用に片目をつむって見せると、俺の前をスタスタと歩き出した。均整の取れた後ろ姿を眺めながら、俺は後について行った。結局俺はこいつの手のひらで踊らされているだけなのだ。このやり場のない気持ちもまた俺の心に音もなく溜まっていった。いつかこれらの想いが溢れる時が来るのだろうか、その時俺はどう動くのか。しかしそれはイヴリンさんの為であることは言うまでもないことだ。今はそれを信じるしかない。

お読み頂きありがとうございました。

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