32 ギーのいない『ラ・メール』
少し時間が空いてしまいました。すみません。
セントポーリアより冷たい風が吹いて、思わず上着の前を掻き合わせた私は、久しぶりのウェルペンの町並みを眺めていた。セントポーリアの急な坂道から見る海の景色も素敵だけれど、やはり私は港から奥に広がりのあるウェルペンの光景が好きだ。
朝の定期船に乗船するお客様を起こせる時間に『ラ・メール』に着いた。今日からまたここで仕事が出来るという嬉しさと、ギーがいないという寂しさが綯い交ぜになって押し寄せてくる。
昨日ポールさんから、私が休んでいる間に『ラ・メール』で生じた問題点を教えて貰った。直ぐに対処できそうな事、検討が必要な事ときっちり分類されていて、何から手を付けたらいいか考えやすいように配慮されていた。父がポールさんを重宝がるのも納得だった。
やるべき事もやりたい事も沢山あった。よし、始めよう。
扉を開けた私を、アウラがにんまりと笑って迎えてくれた。
「イヴリン。待ってたよ。早く客を起こして来ておやり。今日から戻ってくるよと言った途端、泊まり客が増えたんだよ。まったく現金な奴らだよ」
「ただいま、アウラ。随分長く休んでしまってごめんなさい。また、よろしくお願いします」
「何言ってるんだよ。お願いしたいのはこっちの方さ。さっ、早く行っておいで」
「はい」
私は宿泊名簿を確認すると宿屋側の階段を駆け上った。
コンコンコン
「アストルフォ様、おはようございます。お時間ですのでお支度をお願い致します」
扉の前で立ったまま、中の反応を確認する。
直ぐに返事がある場合もあれば、起き出しているのかガサゴソと音がする場合もある。音だけの場合は一旦他を回って、再度確認することにしている。何の反応もない場合は受付にある各部屋毎に設けているボタンを押す。するとそれぞれの部屋のベッド脇にある照明器具の灯りを点けることが出来るのだ。
アウラによると大きな音を立てる器具を使用したこともあったそうだけれど、周りの部屋にも迷惑がかかる上にあまり効果がなかったらしい。やはり人間の体は光を浴びて起きるように出来ているのかもしれない。
もちろん灯りを点けただけで終わりにはせず、もう一度声をかけて必ず起きて頂くようにする。もし船に乗り遅れたら最悪『ラ・メール』を利用してくれなくなる可能性だって否定できない。何気ないサービスではあるが、これは宿屋の信用に関わる重要なサービスでもあった。
「あぁ、イヴリンちゃんの声だ。やっぱりいいなぁ。私はもう起きたから他の客を起こしてやってくれ」
「おはようございます。お目覚めになられましたね。それでは失礼いたします」
アストルフォ様の返事を確認した私は次の部屋に向かった。
朝出発のお客様を無事起こし終わり受付に向かう。一ヶ月以上離れてしまった仕事だったけれど、習慣になっていたことは忘れないもので自然と体が動いた。階段を降りながら食堂に目をやるがギーの姿はない。
……そっか、ギーはいないんだっけ。無意識に彼の姿を探していた自分に思わず苦笑した。
あまりのんびりしている時間はない。直ぐに空いた部屋の掃除をしなければならない。
普通の町の宿屋なら入室と退室の時間が決められ、この間の利用を一泊としている。早朝に部屋が空いても次のお客様が来るまでには間があるため、準備には余裕が出来ることになる。だが、ここウェルペンの町の宿屋には特殊な時間貸しという利用法がある。
お客様の大半が船を利用するため、来る時間も出て行く時間もまちまちである。そんなお客様の要望に応えた利用法だ。例えば夜遅く来て早朝の船に乗る場合、いつからいつまでの何時間と予約してもらい、その時間分利用してもらうというものだ。一般の宿泊のように決められた時間が一泊となっていると、深夜までと早朝以降の部屋代を損した気がする。また、そもそも入退室の時間が合わなければ宿屋を利用する利点がなくなってしまい、利用率が下がることにもなる。
時間貸しでは予約した時間内、部屋で寝ようが商談に利用しようが好きに使える。食事も食堂で別料金となっているため、使う側にしてみると利用した分だけ払うことになり満足度が高い。
難点としては上手く回転している時は部屋数以上の儲けが期待出来るが、そうでない場合は一定料金も稼げないことになる。また回転する程、部屋の掃除の回数も増えるため労働力が必要とされる。
『ラ・メール』は部屋数も多いため一般の宿泊と時間貸し用で部屋を分けて提供し、なるべくそれらを回避できるようにしている。
今日もこの後時間貸しの予約が入っている。私はバタバタと走り出した。
ポールさんの話の通り一般の宿泊の方は、長引いている魔獣の影響で連日賑わっていた。港にギルドが設けた無料の施設もあるが、余裕のある冒険者は宿屋を利用することが多い。長期の宿泊は管理も簡単で、宿屋的にはあり難い話であった。ただし冒険者が問題を起こさなければの話である。ギーがいた時はそうした冒険者の動向に何気なく気を配り、睨みを効かせてくれていたため、特に無理難題を言ってくる人もいないし、問題を起こす人もいなかった。だがギーがいなくなってから男性従業員を入れていたものの、押し出しが弱いらしく食堂で小さないざこざがあったりしたようだ。女性用の定食メニューが評判を呼んで女性客も増えている中、いずれ悪い影響が出ることは明らかだ。
今更ながらギーの存在は大きかったと実感せざるを得なかった。
「すみません」
正面の扉を開けて若い男性が入ってきた。丁寧に頭を下げているが、クロウさんよりも高い身長に加えて結構な強面とが相まってかなりの威圧感を漂わせている。
この人も冒険者なのかしらね……。
掃除を終えていた私はアウラに受付を任せると男性の対応に向かった。
「はい、ご宿泊でしょうか」
「いや、ギーと兄からここで働くように言われて来ました」
「へっ?」
「ああ、兄というのはクロウのことです」
「クロウさんの弟さん?」
「ホークといいます」
「はぁ」
「ケヴィン殿には許可はとってあるから心配しないようにとのことです。当面の間は毎日働く予定ですのでよろしくお願いします」
そこに再び扉が開いてポールさんが入ってきた。
「ホーク早いね。もう来たんだ」
「あぁ、ポールか。兄貴に言われちゃしょうがないだろ。逆らったら、俺やられるから」
「それもそうだね。今回は特にギー兄さんが絡んでるからね」
「あのぉ。ポールさん?」
どうやらポールさんも知っていることらしい。父の許可を取ってあると言っていたけれど、いつの間に頼んでいたのかしら。
「イヴリン嬢。兄さんが心配しちゃってね。ここに睨みのききそうな奴を置いとけって頼まれたんだよ。クロウがそれならホークにさせますって言ったのさ。それに昨日話した通り、このところ悪さをする奴らが増えてたでしょ。それで早速来てもらうことにしたんだ。という訳で、ホーク頼んだよ。まぁ、クロウよりは融通が利くだろうから安心かな」
「いっとくが俺は兄貴より力押しタイプだが」
「ははは。まぁ、なんとかなるだろ。イヴリン嬢、これからホークが食堂で働くから何かあったら言うといいよ」
「分かりました。あの……皆さん、お気遣いありがとうございます。これからよろしくお願いします」
「あ、あぁ。その、頼むな」
「ホーク、言っとくけど、イヴリン嬢だけは止めとけよ。ギー兄さんに間違いなくやられるから」
「分かってるよ」
男性従業員を交代させようと思っていたところだった。誰にするかも悩みどころだったが、ホークさんが来てくれるというなら、憂いの一つは解消しそうだ。
ギー……。
お読み頂きありがとうございました。




