30 出発を明日に控えて
部屋に戻った俺は東大陸に行くことを、いつイヴリンに切り出そうかと頭を悩ませていた。
東大陸へは約一ヶ月の航程だ。往復に要する時間と会見の段取りも含めれば恐らく三ヶ月近くは取られることになる。だが会見内容はロベールを討つための協力依頼だ。首尾よく協力を取り付けることが出来れば、そのままガリア王国へ攻め入ることになるかもしれない。はっきり言っていつ帰れるという確証は全くない。
昨日の今日でイヴリンにそんな話をするのは躊躇われた。
コンコンコン
「ケヴィンでございます」
「あぁ、入ってくれ」
俺の向かいのソファーに座ったケヴィンは、部屋の調度品を懐かしそうに眺めた。
「この別荘を購入致しましたのは、メールポワ侯爵家よりクラリスを妻として迎え入れた頃でした。当時は王都に居を構えておりましたので、フリースラント王国との交流が盛んであったセントポーリアならば、故郷を遥か離れた地に嫁いだ妻が、寂しい思いをせずにいられるのではないかと思ったのです」
黙って聞いていた俺にケヴィンが視線を戻した。
「妻が流行病で亡くなってからというもの、天真爛漫だった娘は私の言う事を良く聞く、文字通りのいい子になりました。子育てを妻に任せっきりにしていた私としては、正直とても助かりました。
しかし漸く父と子の二人の生活に慣れてきた頃、私は娘の様子に違和感を覚えました。そうなのです、娘の笑顔はどこかぎこちなく、人に見せるための笑顔であると気が付いたのです。
ずっと仕事を言い訳にして、いい子でいてくれる娘に甘え、ちゃんと向き合おうとしていなったのだと思い知らされました。亡くなった妻に何と言って詫びればいいのか、娘をこんな状態にしてしまっていた事に愕然と致しました。
私が娘との関わり方を思いあぐねている間にも、娘は成長していきました。
そんな娘が16歳の誕生日を迎えた日、妻の想いを継いで『ラ・メール』の仕事をしたいと申した時には、私はもちろん周囲の者たちも反対いたしました。ですが……もしかしたら娘に本当の笑顔が戻るのではないか、と期待した私は最終的に許可いたしました。
実際、我が娘ながら仕事はそつなくこなして参ったと思っております。
だが、やはり娘の心を取り戻してやる事は出来なかった。
ところがある日を境に『ラ・メール』のことを語る娘の笑顔が輝き出したのです。不思議に思いアウラに尋ねたところ、鍛冶屋の口利きで雇った男が働くようになってからだと分かりました。その男がまさかエドモンド伯爵からオブザーバーとして紹介される方だとは、ましてアーチボルト殿下であるとは……。本当に私たち家族は何度貴方様に助けられてきたことか、感謝の言葉もございません」
ケヴィンは深々と頭を下げた。
イヴリンの笑顔か。
俺の前ではいつも生き生きとしていたイヴリンの表情がいくつも浮かび上がってくる。
「感謝したいのは俺の方だがな。口利きしてくれた鍛冶屋のおじさんに感謝しないとな」
「殿下はご存知ないかもしれませんが、あの鍛冶屋は、それはそれは人嫌いで有名なのでございます。そんな御仁の口利きだったからこそ『ラ・メール』で雇い入れることを決めたのでございます」
「そ、そうなのか」
いつも豪快に笑っていたおじさん。
確かに弟子も取らず一人で仕事をしていたが、あれのどこが人嫌いなのか全く分からない。
「アーチボルト殿下、ウェルペンに停泊中のドルバック貿易の船がございます。急な話で申し訳ございませんが、こちらの船をセントポーリアに寄港させますので、明日、東大陸に出発されるというのはいかかでしょうか。向かっている間にピエール総司令官との予定を詰めればよろしいかと」
確かに西大陸から東大陸への距離を考えれば、会見の日程調整をこちらを立つ前にしろ向こうに着いてからにしろ、航程と別に行っていては時間が取られるばかりだ。
「分かった。その船に乗せてもらおう」
「かしこまりました。それでは早速準備に入ります」
「ところでセントポーリアからは他に誰が乗船する?」
「殿下とクロウ様、それに私と義父になります。……せっかく娘の心からの笑顔が見られるようになったのですから、同行させてやれたらと思いもしました。ですが何が起こるか分からない旅路に、私もさることならがら、殿下が娘の同行を望まれるとは思えませんでしたので」
「あぁ……」
イヴリンを一緒に連れて行くのは危険だということは百も承知していた。それにもかかわらず、自分がこれほどまでに落胆していることに驚きを覚えた。去っていくケヴィンの後ろ姿を見送った俺は、イヴリンに話さなければならない期限が、明日までになったことにため息をついた。
夕食後フィリップに誘われて庭に出た。
眼下にセントポーリアの町の灯が小さく見えている。
「まさかアーチボルト殿下がロベールに討って出ると仰るとは思いませんでしたな」
「フィリップ卿、私は間違った方向に進んでいないか」
「ふぉっふぉっふぉっ。少なくとも私は久しぶりに血が騒いでおりますぞ」
「言っておくが、フリースラント王国として動くわけじゃないからな」
「それでも陛下には、ご一報入れられるのでございましょう?」
「どうせもうポールが伝えてるだろ」
「それもそうでございますな」
山側から乾いた冷たい風が吹いてきた。東大陸に到着する頃にはすっかり冬になっているだう。
「近頃のイヴリンは良く笑う子になったと、ケヴィンが言っておりました」
「あぁ」
「ケヴィンと二人ずっとあの子を見守って参りました。二度と寂しい思いはさせたくございません。……殿下、くれぐれもご無理だけはされませんように」
「あぁ。分かっている」
俺だって無事にイヴリンの元に戻りたいに決まっている。なるべくなら穏便に済ませたいところだが、相手がロベールとなるとそれは難しい話だ。
「お爺様! こちらにいらしたのですね。お父様が探してましたわ」
走ってきたイヴリンに、フィリップ卿は細い目が無くならんばかりに微笑んだ。
「それじゃ行くとするかのぉ。イヴリン、お前にはギー様からお話があるそうじゃ」
「えっ?」
ニヤリと笑ったフィリップ卿はさっさと屋敷の中に戻っていった。
狸爺め。
「ギー、話って……」
「あぁ」
俺たちは植栽の脇に置いてある長椅子に腰を下ろした。
屋敷の明かりが葉を落とし始めた樹々の向こうまで照らしている。
「イヴリン、明日セントポーリアから東大陸に渡ることになった」
「随分と……急なのね。いつ、帰ってくるの?」
「今の時点ではいつとは言えない」
「嫌よ、ギー。あなたのことが好きなの。離れたくない」
今、俺のことを『好き』と言ったのか!?
視線を捉えると、ふぃと逸らしたイヴリンの肩が震えている。
俺はぎゅっと抱き寄せると、彼女の背中をそっと撫で続けた。俺だって出来ることならイヴリンと一緒に行きたい。東大陸中を案内してやったっていい。
だがそれは、今じゃない。
「なぁ、イヴリン。贈り物があるんだ」
イヴリンは泣きはらした赤い瞳を俺に向けた。その頬にそっと触れると、持ち歩いていた例の箱を取り出した。
レースのリボンを解いて蓋を開けると、静かにシルクの布を取り去った。
「綺麗……」
「イヴリン、好きだ。お前への気持ちの証として持っていてくれるか?」
俺は取り出したブレスレットを彼女の手首に付けてやった。ほのかな明かりの下でも自ら発光するような輝きを放つ中央の赤い石と、磨き上げられたレースのような透かし彫りが彼女の白い肌を際立たせている。あぁ、やはりイヴリンにとても似合っている。彼女の手を取ると俺はブレスレットにキスをした。
イヴリンの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
再び抱きしめると、俺の胸に顔を埋めた彼女は、愈々堪え切れなくなったのか、声を出して泣き始めた。
「必ず戻ると約束したろ? それまで待っててくれるだろ?」
耳元で囁く俺の声に、イヴリンは小さく頷いた。
イヴリンが憂いなく暮らせるよう、俺は東大陸で全力を尽くす。そして必ず帰ってくる。
お読み頂きありがとうございました。




