26 イヴリンの刺繍
アクセサリーショップに長居したつもりではなかったが、急いで戻って来た刺繍店の外にイヴリンの姿はなかった。もしや別荘に帰ってしまったのだろうか。俺はそっと店の扉を開いた。
イヴリンと一緒にいるのは店主なのだろうか、4つの瞳が一斉に俺に向けられ居心地の悪さを感じた俺は身動ぎ出来ずにその場に立ち竦んだ。
「ギー、だいぶ待たせてしまったかしら? そんな所に立っていないで中に入って」
呪縛から解き放たれたように俺は歩を進めた。
「決めきれないのか?」
「ううん。買い物は済んだのだけど、古い時代の物を見せてもらっていたのよ」
「そうなんですよ。とても造詣が深くてらっしゃるから色々お見せしていたんですけど、できればお嬢さんの刺した物も見たいところです。きっと素晴らしい物を作られると思うんですよ、このお嬢さんなら」
「あぁ、それは俺が保障するよ」
「ギーってば、買い被り過ぎよ」
それならと俺は肌身離さずお守りのように持ち歩いているハンカチを上着の内ポケットから取り出した。イヴリンの素晴らしさを少しでも自慢したかった。
「これでなんだが」
「ちょっと見せて貰って構わないかい」
「あぁ」
渡したハンカチを丹念に見ていくその店主の目が段々と見開かれていった。
「こいつは凄いよ! お嬢さん、もし良かったら店に作品を卸さないかい?」
「えっ?」
言われたイヴリンは目をまるくしている。
「既にどこかの店と契約済みかい?」
「いいえ、そんなことありません。ただ、本当に私の刺したものでいいのでしょうか? それにそんなに頻繁に作れるわけでもありませんし。普段はウェルペンいるのです」
「お嬢さんのがいいんだよ。それに頻度は問題にならないよ。少なければ希少性も出るってもんだ。どうだい、少し考えてみちゃくれないかね」
俺を伺い見るイヴリンの顔は興味津々だと物語っている。誰かの後押しが必要な場合もある、それが俺なら嬉しいに決まっている。
「いい話じゃないか。こちらにいる間だけでも試しにやってみたらどうだ」
「そう思う?」と真っ直ぐに俺を見上げてくるイヴリンは本当に生き生きとしている。彼女の中にある輝きがあの刺繍を生み出しているに違いない。彼女の作り出す世界をもっと見てみたいと素直に思った俺は「あぁ。やってみろ」と頷いた。
「ではお試しからで」
「契約成立だね。それじゃ、作品に必要な材料はうちが提供させてもらうから、取り敢えず何か考えている意匠があるなら、その分の糸も今日持って行っておくれ」
「はい。ありがとうございます!」
「それはこっちの台詞だよ」
店内に3人の笑い声が響いた。
後日、正式な契約の書類を作っておいてくれるという店主に送り出されると、結局、大量の糸を持ち帰ることになって漸く荷物持ちの出番となった。
帰りは上りになる坂道を二人で歩いていく。
「ねぇ、ギー」
「どうした」
「今朝は拗ねたりしてごめんなさい」
立ち止まって頭を下げるイヴリンの頭の上にポンと手を置いた。
「少しは機嫌が直ったか」
「ほら『ラ・メール』の早番だと朝から一緒にいるじゃない?」
「あぁ、そうだな」
「朝から見ないと落ち着かないというか……。ううん、違うの」
イヴリンは頭を軽くふると、俺を見上げた。
「何が違うんだ?」
「何だかギーが遠くにいっちゃいそうな気がして、朝ギーがいることを確認しないと嫌なのよ」
俺がいることの確認? それは俺の側にいたいとイヴリンも思ってくれているという事なのか。
「お前に無断でいなくなったりしない。約束する。たとえ何処に行こうとも俺はお前の元に戻ってくる。だからお前は自分がいたい場所にいればいい」
イヴリンは小さく頷いた。
間もなくお昼になろうかという時間で、温かな日差しが俺たちに降り注いでいた。
別荘に戻るとクロウが出迎えてくれた。
俺から荷物を受け取ったイヴリンは「美味しいものを作るわ」と微笑むと、お昼の支度に向かっていった。
「ギー様、お帰りなさいませ。イヴリン嬢の機嫌は直ったようですね」
「あぁ。クロウの言う通り早めに動いて正解だった」
「話は変わるのですが、ポール様から連絡がございましてボヌスの件、間もなくのようでございます。ただ……」
クロウが少し言い淀んだ。
「何か問題が起きているのか」
「いえ、思ったより大物が出てきそうだと」
「面倒な事にならないといいが」
「左様でございますね」
「なぁ、俺が行動したら、やはりクロウは付いてくるのか?」
頭に手をやるクロウに俺は苦笑する。
「しょうがないやつだな」
「何と言われましても私の役目は、ギー様をお守りすることですから」
「いや、何度も言っているとおり、もうクロウは自由の身だ。お前の自身の事を優先してくれ」
「ギー様の仰せの通りに」
全く固い奴だな。
「昼食前に少し剣の稽古に付き合え」
嬉しそうに頷くクロウの肩に腕を回すと裏庭に向かった。
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