第9話 卓越した一杯
そうして迎えた出立の日。
深陽は、修復中の街門を振り仰ぐ。
あちこちが崩れかけた壁の上に、歪んだ大型弓が見えた。射出口の扉も崩れており、むき出しになったままだ。
たった数日の滞在であったが、この城壁に降り立った晩を感慨深げに思い返していた。
深陽の視線の先に気付いて、デミタスも振り返る。
「大丈夫だ、ミヨウ。心配してくれるのはありがたいが、幸い、ここにも職人はいる。早く直さなければまずいが、調査隊の報告によれば、周辺の森に魔物の姿は見当たらないとのことだ」
この街、あるいは世界で、現在では最大の切り札といってもよい兵器という話だった。ほとんどの大物が集まったおかげで、大変な被害は出たが、まとめて倒せたことは不幸中の幸いだという。
しばらくは平穏だろうというデミタスの呟きは、自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
似たような調子で、デカフェィネも続ける。
「長い間、あの大矢が守りの要でしたが、今はミヨウの薬湯が魔物避けとなってくれているのかもしれませんね」
もちろん、ただの珈琲にそのような効果があるはずもないのだが、やはりデカフェィネも、そう信じたいのだろう。長い間、生まれ故郷を離れることになるのだ。
(あれのお陰、といっていいのかな)
この設置型大矢とやらを見たからこそ、詠唱の呪文を知ることができた。そういった意味では、深陽も守られたようなものだ。
たとえ、どこかの駄洒落神の邪気が切っ掛けであろうとも、仕組まれていたには違いない。
その意図は何かを探るための時間はある。
「行くか」
こうして三人は、各々の覚悟を胸に、新たな一歩を踏み出した。
南の遥か遠い空に、青く霞む頂を脳裏に留めて――。
「……こんなところで、止まれるか」
深い山間にて、深陽らの周囲を夥しい魔物が取り囲んでいた。
しかし道中で鍛えた心が、深陽の足を一歩、前に踏み出させる。
(そうだ。こんな程度の数がなんだ。都会の有名珈琲チェーン店のButtersucksの行列にも及ばない。あの場と思え……客を華麗に捌くんだ!!)
「――――バリスタ――――!」
ここに来るまでにも、大量の謎珈琲を注ぎ続けた。
その熟練度アップの恩恵が、いよいよ露わになる。
深陽が突き出した右腕から、いつものように香しい塊が生まれた。
否、それだけではない。
そこで留まらず、手を左右に振り抜けば、渦巻く珈琲球が列を成して生まれていた。
そのまま体を回転させながら、全方位に大盤振る舞いしていく。
壁のように連なる珈琲球を躱すことなどできず、襲い掛かった大量の魔物は、大質量の攻撃をまともに喰らった。
「ギョラオオオオオオッ……ゴバボボボッッ!!!」
たちまちに熱々の珈琲が体内を満たし、悪鬼共の命をも押し流していく。
地に倒れ伏す魔物らが静かになっていく、己が作り出した地獄絵図を、深陽は冷徹にも見える平坦な表情で見送った。
「……ごゆっくり、お寛ぎください」
乾いた拍手が、息を整えていた深陽の背後で響く。
振り返れば、唖然とした顔付きのデミタスだ。
「……ミヨウの、魔法の進歩は目覚ましいな。やはり、ミヨウの神の御座が近いという証なのだろう」
言われて深陽も気付く。
「確かに、日に日に力が増していくみたいだ」
「これでは、もう護衛の役には立てないかな」
頭を振りつつ気弱な笑みを浮かべるデミタスに、深陽は懐から取り出した木杯に注いだ珈琲を差し出した。いつでも程よい量で飲めるようにと、持ち歩くことにしたものだ。
――弱音を吐くくらいなら、初めから街を出るな。
などと格好つけてみたい気も過った深陽だが、デミタスへ珈琲を渡すと立っていられず、その場にへたり込んだ。
そして、もう一つ木杯を取り出し自分の為にも珈琲を淹れると、ほっと一息つく。
「疲労がなくなるわけじゃないよ」
深陽が何気なく零した言葉に、デミタスは息を呑む。
「……疲れている中で、俺にまで薬湯を……すまなかった」
デミタスは、渡された珈琲を噛みしめるように味わう。舌から受けた苦みを面に滲ませつつも、目には再び力が宿っていた。
デミタスも、その場に座り込むと深陽に向き直る。
「もちろん、神の御座まで、送り届けてみせるとも」
それは誓いを新たにするようだった。
疲れ果てていた深陽だが、力なく木杯を掲げて、その意志を歓迎する。
デミタスも返すように木杯を掲げて、杯を干した。
その静かな間を、小さな笑い声が遮る。デカフェィネが口を手で覆い、肩を震わせていた。
「そんなに笑わないでくれ。君だって、同じ危険の道を歩いているんだぞ」
咎めるように言いつつも、デミタスは決まりが悪く、誤魔化すように頭を掻いた。
「ふふ……ごめんなさい。なんだか羨ましいと思いまして。さあ、そろそろ日も暮れますし、食事にしましょうか」
笑みを浮かべつつ火を熾しにかかるデカフェィネだが、その横顔には隠しきれぬ疲労が滲んでいた。深陽は、彼女の側へも珈琲を置く。後ほど山羊乳を注いで飲むだろう。
たとえ深陽らの背後で守られていようとも、恐ろしくないはずはない。時にはひやりとする場面もあった。
それでもデカフェィネは文句の一つも言わなかった。深陽とデミタスの力は疑いようがないと言って、いつも毅然と山羊を守るように立っていたのだ。
しかし恐怖を押し隠すように握られた手や、強張った頬が心情を物語っていた。
たき火を囲んで食事を終えると、デカフェィネは珈琲を手に静かに話し始める。
「この薬湯も、数え切れぬほどいただきました。その施しに報いることができるなどとは、もう思えません。最後まで、皆様の荷はお守りいたします」
その言葉には、命に代えてもといった含みがあった。
デミタスの宣言を見て、改めて伝えようとしてくれたのだろうとは理解できた。しかし重すぎる真意に、なんと答えようもなく、深陽はただ頷く。
初めは、デカフェィネの決意をこそ疑っていた深陽だったが、この中では最も肝が据わっているのかもしれないと思えた。
だが、その意志がより一層固まったのだろう理由は、深陽も肌で感じていたことである。
ふと、進む先の空を見上げた。
日が沈みゆく空に、暗い影が聳えている。
「もう一息だもんな」
深陽の呟きに、二人も見上げて、口々に感慨を語る。
青の山に連なる山脈の中を歩き続けてきた。そして、その麓といってよい場所まで到達していたのだ。
ここに来るまでにも幾つかの集落に立ち寄れば、やはり周辺に増えていた魔物を片付けつつであり、遠回りしたようなものだろう。
しかし、だからこそ深陽は魔法の熟練度が上がった。そのおかげで、まだ進めると信じられもするのだ。
とうとう人里が消えた山並みの中は、魔物の巣かというほど過酷な道だ。もし、一直線に目指していたならば、とうに力尽きていただろう。
初めにデカフェィネが言ったように、世の均衡が崩れているとしか思えない。
そして、一応は魔法使いである深陽だからこそ出た結論は、魔法を司る何かの影響力が低下しているようだということだった。
ただでさえ人の行き来が少ない辺境ではあるが、経由した集落で深陽以外の魔法使いの話は聞かなかったことが後押しした。
魔法使いが世界を旅して修行を積み、そのことを国に関係なく歓迎するのも、それで各地の危険を排除するためのシステムではないかと思うのだ。
だから、魔法使いそれぞれの目的地も、各々が属する神という目的地の違いによって分散する。
問題があるとすれば、魔法の分布が多少は偏ってしまうことのようだった。
これまでに見聞きしたことからも、青の山を目指す者は少ない。その分を補うかのように、時に『奇跡の薬湯』を求めて旅立つ権力者はいるが、それだけだ。
(だから、俺、なのかな)
深陽は、何かに呼ばれるようにして忽然と現れた。
青の山にある神殿から、実質持ち出すことの不可能な薬湯――珈琲を生み出す、恐らく唯一無二の魔法使いとして。
他の魔法とは一線を画す、魔法が場に残るほど強力な理由。
(多分、他に居ないんだ)
多くの神が認識されている世界ならば、それぞれの神が力を奮える領域というものがあるのではないかと考えた。
訪れやすい場所にある神の御座にまつわる魔法使いは数が増える。
多くの者が訪れるからこそ信仰は広範囲に影響するが、その分効力は逓減すると考えれば、辻褄が合うように思えたのだ。
集落に立ち寄る度に、その考えが強くなった深陽は、そのこともあって、なるべく魔物を避けずに倒してきた。
そして、そのために深陽が呼ばれたのだとすれば――。
「きっと、あの天辺に着けば、均衡は戻る」
いつも静かに話す深陽が、力強く宣言する。
そのことに、デミタスとデカフェィネは、瞳を希望に輝かせた。
φφφφφφ
深陽が転移したすぐ後の喫茶店。
常連たちは普段なんの仕事をしているのやら、昼時を過ぎた頃に集まるものの、少し早い時間であり、店内は閑散としていた。
くたびれたおじさんとしか評しようのない店主は、狭いカウンターから出ると、用意した盆をひょいと側のテーブルへ置いた。狭い店内だ。テーブルからでも手を伸ばせば届く。手が空かないときには、常連に限定してだが、持っていってくれと頼むことさえあるほどだ。
しかし今は、一足早く訪れた常連の一人と店主だけだ。
「おや、マスター直々に運んでくれるとは珍しい。バイト君は?」
「まだ時間には早いよ」
深陽を気にかける発言をした、よく日焼けしたこの客は、世界の少数民族の元へ自ら赴き手工芸品を買い取って国内で売る、輸入販売業を営む。
深陽に土産といってキーホルダーを贈った主だ。
「だがいつも早く来るだろ? 珈琲のこととか、本格的に勉強してるそうじゃないか。だから俺も、この店が人手不足にならないようにって、願掛けしてきたんだ。今日はその話でもしようと思ってね。昨日は珍しく忙しそうだったからな」
仕事柄なのか、誰とも物おじせず話す上に、お喋りな客だ。
店主は、珈琲豆によく似た石を思い浮かべながら、客の向かいに腰かけた。自由な店である。
「ああ、あの珈琲豆のお守りのことか」
「まったく運が良かったよ! 滅多に表に出ないっていうシャーマンと会うことができてな!」
「お前さんの話はちんぷんかんぷんだよ」
嬉しそうに前のめりで話が逸れようとする客を、店主は呆れた様子で止める。いつものことだ。
「おっと、そうだったそうだった。そんで、バリスタだっけか? それになれるようにってね。いやぁ、頼むのに苦労したんだって」
彼が苦労したのは言語の問題だった。大都市では、癖はあるものの英語が通じるが、そこから地方の部族の言葉を介す通訳を挟み、さらに奥地の少数民族の暮らす地域へと、現地の言葉やしきたりなども含む仲介者を頼る。幾人もの人間を介した話は、もはや伝言ゲームの域である。
「最近、眠そうな時も多いだろ? それで頑張りすぎて、夜更かしでもしてんじゃないか」
「まぁ……真面目でいいんだがな」
「人当たりもいいし、覚えが悪いってこたないんだろ。なら将来有望なマスター候補じゃないか! できれば俺たちも、この店が長く続いてくれりゃありがたいからな」
店主は苦笑いを浮かべて言い淀んだ。
「店を任せてもいいんじゃないかってくらいには思ってるよ」
「じゃあ、なにが問題なんだ?」
店主の脳裏に、緑や橙色にまだらな、濁ったマグカップを自信ありげな笑みを浮かべて手に掲げる姿が過ぎった。
その度に正直に話すべきかどうか、その前に、この得体の知れないものを口にする危機をどう回避するかと気疲れするのだ。
「……ちょいと味覚が、独創的すぎるのさえなきゃあな」
と店主は呟き、項垂れるように頬杖を突くと、一つ、溜息を吐いた。