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押したくても押せないボタン  作者: アキトんさん
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始まりのボタン

「いってらっしゃい」

結婚して今日で5年、いつもと変わらない妻の見送り。

出勤前に子供の寝顔を見て、家を出る。


今日は5回目の結婚記念日、いつもより早めに仕事を終わらせて早めに帰る約束だ。


お昼過ぎ、携帯に着信がある。

見覚えのない番号からだ。


この電話が全ての始まりだった。

人は誰でも遅かれ早かれ死んでしまう。

終わりがあるからこそ美しいとはよく言ったものだ。

「死」とは誰もが理解し、そしてこの世で一番他人事のように感じている、自分が若ければ尚のことだろう。

まして人の死など、自分の身近な人の死など、いつかはくるがそれは今ではないだろうと、ほとんどの人が思っているはずだ。

しかし、死とは唐突にあっけなく訪れるもの。


僕の妻と息子は、唐突にあっけなく殺された。


犯人は19歳になったばかりの青年、強姦目的で家に押し入り、3歳になったばかりの息子を殺し、その事に大声で騒いだ妻の首を絞め、殺した。

仕事に行く前、いってらっしゃいと言った妻は、連絡を聞き一目散に駆けつけた病院の一室で、いつもと変わらない寝顔のような顔で息子と2人、並んでいた。


泣くことも、叫ぶ事も許されなかった。

ただ、何が起こったのか分からず、無機質に横たわる妻と息子を眺めるだけ。


それから訳もわからず日々は流れ、犯人が捕まり、僕は今まさに裁判の真っ只中。

話には聞いていたし、学校でも習った日本という国の司法制度、有罪が確定した被告への最終的なジャッジは、被害者もしくは被害者家族が行う。

そして、殺人を犯した者はその犯した理由を問わず、有罪になった場合死刑になる。

今までそんな話は全くの他人事で、自分には起こるはずもないと思っていた。

しかし、今僕はこの場に立ち、目の前には押せば1人の青年に死刑が確定するボタンがある。

躊躇う必要もない、この手で自分の全てを壊した人間を殺せるのだ。

心の中の自分が強く叫ぶ、「押せ!」「殺せ!」叩くように強くノックする。

押して楽になろう、そう思いふと周りを見渡す。

好奇の眼差し、陰湿で邪な、それを今かと待ち望む眼差し、1人の人間が死を宣告し、それが確定するまさにその瞬間を待ち望む人達の黒く淀んだ目が瞬間的に僕の心を躊躇させたのだ

何を躊躇うことがあるのだろうか、奪われたのは紛れもなく自分で、このボタンを押す権利はこの国の国民と司法というものが認めてくれている。

押した所で罪にもならず、当たり前の事だ。

全ての人間が迷わず押すだろう、事実この制度が施行されたのちボタンが押されなかった事例は1つとしてない。

皆がこの制度に感謝し、迷う事なく押して行ったのだ。

それと同じ事をすればいいんだ、誰もそれを責める人間などいないのだから。

押そうとする自分の思考を心の中に突如芽を出した何かが拒絶する。

分からない、何もかも分からない、こんなにも今すぐにでも押してしまいたいボタンなのに、何故、何故なのか。

ひたすらに自問自答を繰り返し、1つ理解した事。

そうか、僕は違うんだ、同じになりたくないんだ。

全てを奪った人間のように、躊躇いなく人を殺す、そんな人間になりたくないんだ。

そして、そんな殺人の瞬間を心から期待し、今か今かと待ち望むその視線を送る人間達に心から嫌悪し、その期待に応えたくないのだ。

僕は諦めたように項垂れ、伸ばした手を引っ込めた。


無理だ、どうしたってこのボタンは押せない。

そう諦めた瞬間、この制度始まって以来の大事件が日本中に衝撃を与えた。

そして、まさにこの時から本当の地獄が始まったのだ。

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