89.『こっちの世界』のおばーちゃん
さて、鈴さんは、関西で言うところの“気ぃ遣いィ”である。
これはド●ゴンボールの登場人物のよーに、手からエネルギー弾を打てるとゆー意味ではない。また、“気遣いをする人”とかと言えば、それも厳密には違う。
注目すべきは“気ぃ遣いィ”の最後の小さい“ィ”である。
関西弁における“ィ”とは、“~する人”を意味する接尾語である。つまりは“player”の“er”だ。代表的な単語では“いらんことしィ”=”余計なことをする人“というのがある。これでお気づきになったかもしれないが、小さい”ィ“は多少揶揄的な響きを伴う。
“気ぃ遣いィ”とは、単純に“気遣いをする人”ではなく、“気にしなくてもいいとこまで気を遣っちゃう人”を可笑しむニュアンスを含んでいるのである。
そして鈴さんは、その“気ぃ遣いィ”なのであった。
頭の中では割とゾンザイな口調で思考する鈴さんだが、本来は外面と相手の顔色を気にするタイプである。それはカルーシアにいる時の、“天使の猫被り”からも窺えるのではなかろうか。
鈴さんは小さい頃から、病弱であることで両親に負担を掛けているという、感じる必要のない引け目があって、お父さんとお母さんが優しいから、余計に申し訳なく思いながら14歳まで生きてきた。
“気ぃ遣いィ”は既に鈴さんの人格の一部、否、根幹なのである。
故にお気に入りの場所に誰かがいるのを見た、“気ぃ遣いィ”の鈴さんはこう思うのだ――……
(ありゃあ、先客かあ……うーん、ベンチは二つあるけどなー、知らない人と隣り合わせってのも気ぃ遣うし、向こうもわざわざ人気のない裏庭に来てるんだから、他の奴がいたらイヤだろー。しゃあない、今日は早いもん勝ちってことで退散するかねー……)
こんなふうに、ぐじゃぐじゃっと先回りして考える。と、相手が顔を上げて鈴さんに気づく。すると鈴さんの思考プロセスは次のよーなパターンを辿る……
(あちゃあ、見つかっちゃった……この裏庭、用もなく通り掛からないからなー。ここで回れ右しちゃったら、あの人がいるから帰ったってあからさまだよなあ……気を悪くしちゃうかなー……?)
“気ぃ遣いィ”の鈴さんは、そんなことまで先回りして考える。だーれも何とも思ってないことまで、気ぃ遣って、心配してしまうのだ。
そして行くに行けず戻るに戻れず、プラスとマイナスの心理的葛藤に板挟みになった“気ぃ遣いィ”の鈴さんはどーするのか。
そう、にへらと笑って接近して行くのである。
ああ、笑顔は鈴さんの持ち得る唯一の武器。敵意がないことを示すことこそが、無抵抗主義者の気高き闘争。ああ、その姿はトルストイかガンジーか。左の頬をぶたれたら、右の頬を差し出しましょう……
けれど、出来ればぶたないで……
あたしは、謎の笑顔を浮かべつつ、裏庭のベンチへとにじり寄る。うー……先客さんには会釈で済ますべきか、挨拶のひとつも掛けるべきか……場所柄、年齢や体調なんかもばらっばらだから、顔色なぞ窺ってから判断すべきかもしれない。
えーと……幾つくらいの人だろう……?
ここから見た感じ、女性には間違いないんだけど、顔が見えないせいか、どーも年齢がはっきりしない、と言うか……
不思議なことに、あたしが瞬きをするたびに、一歩進むごとに、その人は幼い少女に見えたり、年上のおねーさんのようだったり、同年代の女の子だと思えたり、ころころと印象が変わるのだ。
気がつけば、あたしはベンチの前に立ち止まり、その人は私を見上げてた。
信じられないような、赤い色をした瞳があたしを見上げて、きらりと光った。
「Raa――……」
その人は、どこか異国風の発音で、そう呟いた。
これが、私のその人の出会いだったのだ、のだ――……
後に知るその人の名前は、ルシウ・コトレットさんといった。
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アンパン片手、パジャマによれたパーカーを羽織り、足元ツッカケのあたしは、会釈すべきか、挨拶すべきか――……迷った末にどっちつかずでへらっと笑って、空いたベンチに腰を下ろした。完全に不審者じゃねーか。ただ言い訳をしてしまうと、その人は何つーか、あたしが圧倒されるよーな、すごいきれーな人だったんだよね。
まあ、少々お歳は召していらしてるんだけど。
あたしは、20より上の人の歳は、30前後なのか40前後なのかなんて、ぶっちゃけよく判んないんだ。個人差もあるしね。その人は、60は超えていそーだけど、実際どんくらいなのか、70にはなってねーよなー程度にしか判らねえ。とにかく、“ばーちゃん”だ。
それで、名前からも判ると思うけど、日本人じゃない。外国の人だ。
まず目を引くのが、その髪。白にほんの少し灰色を混ぜたあの色は、白髪ではない、あれは銀髪だ。肌は褐色だけど、日に焼けたのではない、たぶん生まれながらの銅色。とても健康そう――と病院で言うのも可笑しいけど――で、また齢を判らなくする。
けれど、何より鮮やかに印象に残る、一度見れば忘れられないのが――……
信じられないような、ガーネットのような真っ赤な色の、その瞳だった。
ベンチに腰を下ろしたあたしは、本の一冊を脇に置き、古事記のページを開いたものの、あんまし頭に入ってこなかった。隣のベンチに座っている、ばーちゃんが気になって仕方がない。
えーと、仁徳天皇は、国の家々からメシ時に竈の煙が立ってないのを見て、「民はまともにメシ食えてないのか」と、その後3年労役と徴税を免除したそーな。宮殿はボロくなって雨漏りしたけど、やがて国中の竈から煙が立ち昇るのを見て喜んだっつうから、まさしく “仁”と “徳”の人だよな。
それにひきかえ、「君可愛いねー」の雄略天皇ェ……
ところで、前に仁徳天皇陵、いわゆる前方後円墳を見に行ったことがあるんだけどさー、あれって名前は“前方”で四角が前なんだけど、どっちかってと“円”が前っぽい感じしない、デザイン的に? それと、古墳って近くで見ても何も面白くねーぜ。近くで見ると、あれ単なるモコッとした森だぜ。古墳は上の方から俯瞰で見ねーと何が何だか――……
「お嬢ちゃん、それはおとぎ話の本かい?」
「ひょえいっ?!」
頭のてっぺんから、新しい言葉が出た。
慌てふためき、挙動不審MAXで振り向くと、赤い目のばーちゃんが、口に手を当ててクスクスと笑っていた。
「るああ。済まないね、急に声を掛けて。おどかしちまったかい?」
「あっ! やっ! その、ハイ……いやっ、イイエ!」
何をテンパっておるのじゃ、あたしは? 病院暮らしが長くて、ご年配の方々と接する機会は人より多いはずなのに。
頭の中でぐちゃぐちゃと考えるタイプなだけに、鈴さんは突発的な出来事に非常に弱い。ちらちら気にしていた相手に話し掛けられて、その容姿と外国人であることも相まって、鈴さんは完全に硬直してしまう。
それでもあたしは何とか態勢を整えんと試みる。
(えーと、何だって……“おとぎ話の本”……?)
ばーちゃんの目線を辿ると、ベンチに置いた私が持ってきたもう一冊の本。その表紙に掛かれているのは、中世ヨーロッパ風の風景と、不敵に笑う魔法使い風の少年と、彼を取り囲むやたら瞳とおっぱいの大きな女の子達……
どう見てもラノベです。本当にありがとうございました。
立て直しに失敗し、再び混乱に陥ったあたしは何を思ったか……
手にした食べかけのアンパンを、二つに割って片方差し出した。
汗がどっばーと噴き出した。何やってんだ、あたしー?! 何で無言でアンパンなんだよ。好意的なゴリラかよ。しかも食いさしだよ。ばーちゃん、目え丸くしてるよ。うーん、せめて「コレ……食ベテ……」くらいの言語能力は見せるべきだろうか。アンパン突き出したまま微動だにできずにいると――
「……ぷっ……いひひ、あはははは――……」
ばーちゃんが笑い出した。まあ、そら笑うわなー。意思疎通の出来ないコミュ障女子中学生が、頑なにパンを突き出すこの状況。ところがばーちゃん、
「こりゃ失礼。うーぷす、あんまり唐突だったもんでね」
ひょいと食べかけのアンパンを手に取った。
「私の国の古い習慣にねえ、“パンを分ける”というのがあるんだよ。大切な食べる物を分け合うことで、昔は和平の儀式だったりしたそうだけど、まあ、今じゃお祝いの時とかに、クッキー割って食べたりするくらいだねえ」
そう言うと、ばーちゃんは食べかけのアンパンを、ひと口ぱくっといった。
「お友達の印、ありがとうね」
にっと白い歯見せた、その悪戯っぽい表情は、彼女をぐっと若く……まるで少女のようにさえ見せた。
「るああ。だけど、いきなりだったのと懐かしいやらで、ついね。びっくりさせたろう、異国人のばあさんが急に笑い出すもんだから」
「いえ、こちらこそ、すいません、急に……」
そう言って、あたしも慌ててもう片方のパンにかぶりつく。そして、二人揃って吹き出した。
「るああ。ルシウ・コトレットさ、可愛い異国のお嬢ちゃん」
「私は、鈴。椋田鈴です」
こうしてあたしとコトレットさんは出会い、パンを分け合う仲、齢の離れたお友達になったのだった。




