88.『こっちの世界』で目が覚めて
という、夢を見たのさ――……
ベッドの上で空けた目に飛び込んでくる、穴の並んだ石膏天井材とコンクラクトカーテンのカーブしたレール。この二つから連想される、あたしが今いる場所とはどこでしょう――……正解。そう、病院です。
(むー……また例の夢かあ……)
枕元に手を伸ばし、目覚まし時計を天井に掲げる。6時52分。毎日鳴る10分ほど前に目が覚める、この現象に名前はあるのかな?
(うー……全く寝た気がしねーぞ……)
あんだけ長くて、リアルで、微に入り細を穿つ夢を見て、この目覚めすっきりも何なんだろーな。可愛い北欧系兄妹の、頬を拭いた感触も髪を撫でた感触も、まだこの手に残っているんだが……
ここが何処かと問われれば、医療法人●●会・猪ノ口病院と答えましょう。
お前は誰かと問われれば、中学2年、椋田鈴と答えましょう。
そして、あの“猪の口”砦の話は何だと問われれば……
こっちが知りてーわと答えましょう。
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そーだな。まあ、まずはあたしのことを話そーか。
あたしの名前は椋田鈴、この名前にピンと来た奴あ、鈴ちゃんポイントを10点やるよ。100点貯めりゃあ、頬っぺたにチューのひとつもしてやんよ。某県某市の市立中学校に通う……や、出来れば通いたいんだけどな、通うに通えてねえ中学2年生、ぴっちぴちの14歳さ。
可哀そうがって欲しいんじゃねーんだが、あたしゃ、生まれつき心臓……異世界の言葉だと“コラソ”に疾患があって、一年の半分くれーは学校に通えなくて、入院生活してんだよね。
まあ、お医者が言うには、もうちょい体が成長すれば、スポーツ選手は目指せないまでも、フツーに日常生活を送るには支障のない体になるそうな。今だって無理さえしなければ、それなりに院内を歩き回れている。
幼い頃から入退院を繰り返した病院の常連、14にして小児病棟の古参、たくさんの病例を見て来たあたしからすれば、自分は健康な子と比べたら“可哀そう”かもしれないけど、治らない子よりは“幸せ”なんだろう。
もしくは、極北の虜囚の子どもたちよりは。
相対的に幸不幸を量るのは、あまり好みでないけれど。
そんなあたしが一年の半分を過ごす第二の我が家が、●県●市の郊外にあるこのる猪ノ口病院だ。豊かな自然の中の広々した敷地、長期入院者の多いこの病院は、カテゴリー的には総合病院で、性質的には療養施設ってとこかな。
猪ノ口→猪口→お猪口ってことで、地域では“おちょこ病院”とか、“ぐい呑みさん”などと好き勝手呼ばれて親しまれている。
ま、あたしのホームだ。新入りは困ったことがあれば何でも訊きに来な。
入ってる喫茶室の、クラブハウスサンドが割と旨いんだ。日用雑貨にお菓子やカップ麺は院内の売店より、近くのドラッグストアで買った方が安上がりだぞ。洗濯は院内のランドリーでやると、乾燥機が意外と百円玉を食うから気をつけろ。
と、こんな感じがちょっとだけ人とは違う、あたしの毎日だ。
ところがここ最近、あたしの日常が何だか非日常に侵食されつつある。
何かと問われれば、“おかしな夢“――或いは“異世界転移”と答えましょう。
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ちょうど一年くらい前から、この異様にリアルな夢を見始めた。
その夢の中で、あたしは異世界の国の、”猪の口” 砦いうところで、戦災孤児の世話役として働いていた。夢の中にいるあたしは、現実のあたしより幾らか年齢が上で、25・6くらいだろーかと思われる。
初めて見た時はポカーン、二度目でボーゼン、三回続くとさすがに気づく。
(こりゃあ、フツウの夢じゃねえ……)
何が何だか理解んないけど、向こうの“世界”もどーやら現実らしいぞと思ったのは、夢ん中でちょっと指を切って、目が覚めた時、うっすらと傷跡が残ってるのを目にした時だった。
かくして疑念は確信に変わる――
中身だけかガワごとか、体ごと行ってるのか精神だけ飛んでんのか、こちとら寝てるんで判らないけど、これはいわゆる噂に聞くアレ、“異世界転移”ってやつだ。
あたしは片っぽで眠ると、もう片方で目を覚ます。
時間経過が一致してないようで、片っぽで8時間寝てる間に、もう片方で16時間以上働いているよーな矛盾が、平気で許されるらしくって、主観ではあたしはこのところ、全く眠らず一日30時間以上稼働している。ハードスケジュールにも程があるぞ。
不思議なことに、なぜか肉体的には睡眠と休息が取れているらしく、幸い過労でぶっ倒れて、か弱い心臓が止まっちまうことも、ここと向こうの記憶が錯綜して、脳みそが八丁味噌になっちまうことも今んとこないが……
この世界を管理してる奴がいるなら、随分いー加減なヤローだよ。
(るあ?! 何だとう!)
な……何だ? 今一瞬、銀髪で赤い目をしたマグニくらいの女の子の顔が、急に頭に浮かんだんだけど……??
ま、いいや。そんな訳でこのあたしは、何の符合か猪ノ口病院と“猪の口” 砦で、療養中の中学2年・椋田鈴ちゃんと孤児院の修道女、ソレラ……椋田鈴→クラタ・スズ→クラタ・ベル……ソレラ・クララベルの、二重生活を送っておるという訳なのだ……
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(うー……こいつは予想外に地味だぞ、日本の神話……)
さて、今の“世界”は椋田鈴側、鈴さんは二冊の本を小脇に抱え、文学少女を決め込んで、病院の裏庭にある指定席へと足を進めている。裏庭は広い敷地の静かな一角、いわゆる穴場で、午後の木漏れ日の下で少女が詩集なぞ嗜んでおれば、さぞ儚げで絵になっておるだろーと鈴さんは思っている。
手にしている一冊は、図書室で借りた“古事記”である。
猪ノ口病院の小児病棟には、長期入院している、つまり学校に通えない子どもが多く、院内学級やパソコンルームなど、学習支援に力を入れている。よって図書館の蔵書も充実しており、読書家の鈴さんには嬉しいことだった。
今日、図書館で古事記を手に取ったのは、もちろん異世界の少年との約束を守るためであった。鈴さんは律儀なのである。
ところがここでひとつ誤算が……
日本の神話は想定外に、ヒジョーに展開が盛り上がりに欠けるのだ。
(うーむ……北欧神話だったらなー、全編これ男の子受けだし、神様もカッコよくてゲームや漫画のキャラみたいだし、実際、ゲームや漫画によく出るから面白いのに……)
(ギリシャ神話もなー、英雄譚ありゼウスありで、別方向に面白いんだが……余談だがあたしはアイスキュロスというオジサンの、亀を岩に落として割って食べる鳥に、禿げ頭に亀を落とされて死んだとゆー逸話がとても好きだ……ああ、古代ギリシャはかくも悲劇的……)
(……ちゃうねん……)
どうも子ども受けするとこのない、日本の神様……どーせわしらは大和民族、草食系。ハリウッド映画みてーな神話は望むべくもないよな、ご先祖様……
(妙なとこで、下ネタぶっ込んでくるけどな、古事記……)
「故此の吾が身の成り余れる処を以ち、汝が身の成り合はぬ処に刺し塞ぎて、国土を産み成さむと以為ふ――……」
(興味がある人は。意味を調べてみよう……)
うーん、須佐之男と八岐大蛇のとこなら、男の子受けするかな。スサノオ君てば天照大神の部屋にウ●コするよーなアナーキーな奴だけど、最後はちゃんとガチんなって八岐大蛇倒して奇稲田姫を救う英雄だもんな。
まあ、ドラゴンの八岐大蛇は“河川の氾濫”、ヒロインの奇稲田姫が“農耕”で、話自体”治水“の喩え話だから、結局は農耕民族、草食系だけどな。それとウ●コのとこはなー……男の子に鉄板でウケるとは思うんだけど、ここは民族の名誉のために話さんでおこう。
個人的には古事記では雄略天皇って帝が、お茶目で萌える。
この人は出先で見つけた女の子に「君、可愛いねー」「召し上げるから、結婚しないでね」と言っといて、すっかり忘れてて、その赤猪子ちゃんも奥床しーもんだから“80年”待ってやっと帝を訪ねて、「誰、この婆さん?」「あの時の娘です」「マジか」と超びっくりして、「めっちゃゴメン」という意味の歌を送ったとゆー面白可笑しい御方だ。
他にも、猪狩りで弓を射かけたら、追っかけられて登った木の上で、
「やすみしし 我が大君の 遊ばしし 猪の 病み猪の うたき畏み 我が逃げ登りし あり丘の 榛の木の枝(意味:国を治める偉い天皇の私が、手負いの猪にビビって木に登っていることだなあ)」
と雅に歌を詠まれたりと、妙に猪相手にやらかす帝にあらせられる。
さて、アンパンをもっぐもっぐと歩き食いしながら、
(うめー。あの兄妹にも食わしてやりてーなー……)
少年との約束をあれこれ考えながら、裏庭に差し掛かった鈴さんは、自分の指定席、裏庭のベンチに誰かが座っているのを見つけた。
更に困ったことに鈴さんは、相手も自分に気づいたことに気づいた。




