77.ベーコン・エ・パーネ~燻製肉を挟んだパン~(レイス視点)
ユマ・ビッグスロープが軽くこつんと顎を撫でただけで、ナイフを持った男はぐるんと白目を剥き、腰が砕けるように崩れ落ちた。と、ユマは左手で男を抱き留め、右手を腰の刀剣に掛けて、
「双方動くな! レイス、抜くな。そちらも止まらないと、この男を切る」
鋭く言い放った。私はレイピアの柄から、手をゆっくりと離す。ならず者達も、私が相手した2人は立てず、残り3人もユマの言葉に立ち竦み、互いに目を見交わしている。
……今の拳打は何だ?
確かに額や顎に、上手く打撃が入れば目が回る。しかしそれを、狙って、ほんのひと振りで当てられるものなのか……?
「ほう――……こりゃあ、お強えや……」
見れば頭目の、痩せた男が再び姿を現していた。
「あんた方、只者じゃァないね。けどねェ……たった御二人で狼退治たァ、ちっとオイタが過ぎるんじゃあござんせンかねェ?」
月明かりの加減か、男の目が刹那、真っ黄色に染まったように見えた。
「ここは人狼街、仲間が吠えりゃあ狼どもは次から次へ集まって来やすぜ……そりゃあもう、カランポーの草原みてぇにねェ……」
不敵な男に、私は再び剣に手を掛けんとするが、
「待った待った。済まない、親分さん。誤解なんだよ」
ユマが私と彼の間に体を捻じ込むように割って入った。頭目の男が、訝しそうに目を細める。
「ハテ、誤解……?」
「聞いてくれ。いいかい、俺達の目的は、本当に”狼男“なんだよ。お化けの、狼男。親分さんも聞いてるだろ、狼男が出るって噂。怪物退治に来たのさ」
ユマは早口で周りにも聞かせるように言うと、振り向き、
「レイス……兵隊が人狼街で人狼退治に来たなんて言うと、ここの“脛に傷持つ奴”を捕まえに来たように聞こえてしまう」
そう言われてみれば……そのように取れないこともないのか。
「ふむ……洒落た言い回しもあるものだな」
「その洒落た言い回しで、3人目え回しちゃったんだよ」
頭目は少々ぽかんとしてから、呆れたように言った。
「へ……するってェと何ですかい。あんた方ァ、正真正銘“怪物の狼男”を退治しに来なすったと、そう仰るンで?」
「名目としては、国教会の調査依頼なんだがね」
鉄屑街の男達同様、教会を出したら頭目も得心顔をした。やはり狼男の存在は迷信眉唾と、少なくともそう考えられているようだ。
「だったらマア、ここは勘違ェで互いに矛先収めるのが宜しゅうござンすね」
頭目がそう言うと、ユマがほっと肩の力を抜いた。
「そう言ってもらえると有り難い。そちらの三人は医者に診せるかい?」
「先に手ェ出したなァこっちサ。腰抜かした奴なんざ、気にしなさんな」
「ほう……随分と気風のいい親分さんだ」
相手の物分かりの良さに、ユマはかえって不審を抱いたようだった。頭目は呵々と笑ったが、例の如く目だけは鋭く黄色い。
「あんた、傭兵のユマ・ビッグスロープだろう?」
ユマが別に驚くふうもなく、眉を上げてみせた。
「ほう、俺を知ってるのかい」
「こういう商売してるってェとね、色んなヒトの顔を知ってるもんサ。でね、打ち明けちまうと件の狼男、真実化け物かは知らねェが、ウチの縄張りウロチョロ散らかしてる奴がいるなァ事実でね。あんたがそいつ退治してくれりゃあ、アタシとしても願ったり叶ったりなのサ」
「はぐれ狼ってなァ、群れェ預かるモンにとっちゃ、どうにも邪魔っけでいけねェや――……」
相手にちゃんと思惑のあることで、ユマは安心したらしい。
「なるほど、そういうことなら」
「ま、魚心あれば水心、でござンすな。これにて手打ちと致しやしょう」
そして頭目は“止まった時計台”までの道筋を教えてくれた。時計塔はかつてはこの地区のシンボルだった時代もあったそうだが、機巧が故障して久しく、修理されることもなく放置されているのだとか。
時計も動かず、狼男が出るとあって、この頃では近寄る者もいないという。
少々アクシデントはあったものの、結果的に目的地もはっきりした。ユマにそういうと小突かれてしまったが。気を取り直し、服の乱れを整え、
「騒がせた。代わりに、首尾よく狼男を退治して参ろうよ、頭目」
頭目に軽く会釈をすると、相手も腰を低く落として頭を下げる。
「バラバ……」
「“火打ち石”のバラバと申しやす。以後、お見知り置きを――……」
そう名乗って頭目は――……狡猾そうに、哂った。
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“止まった時計台”の周りは、閉口する有り様だった。
最初のひとつを棄てたのは誰なのか、廃材や古い調度が辺りに積み上げられている。見苦しいのは元より、今の我らには物陰や死角が多いのも問題だ。
時計塔は建物3階くらいの高さの、堅牢な石造り。足元をごみに埋め、月夜に向かって動かない3本の針を、所在なさげに掲げている。
我らは近くの路地に身を潜め、時計台を見張ることにした。鉄屑街から人狼街へ、そしてさきほどの騒動と、今夜が始まってもうずいぶんと時間が経ったように思う。見上げれば月は天頂に近い。
「何時頃になっただろうな」
「時計ならそこにあるぞ」
呟くと、ユマが軽口を叩いた。苦笑して懐の時計を探る。
と、鼻先に蝋紙の包みが差し出された。
「まあ、真夜中も近いだろうな。今のうちに腹に入れとくといい」
包みを開くと、中身は厚めの燻製肉を挟んだパンだった。
「これはいつの間に……?」
「今夜は長丁場になるだろうからな。さっきの酒場で作らせといた」
ユマは革袋の水筒を振って、ちゃぷちゃぷと音を鳴らした。
有り難くがぶりとやると、燻製の塩気と脂の染みたパンが、小腹の空いたところに実に旨い。この男、存外と細かなところに気が回る。
「……マメな男だな、ユマ。モテるだろう?」
何気なしに言うと、革袋を呷っていたユマが思い切り水を吹き出した。
「む、汚いな」
「ごほっごほっ……お前が妙なこと言うからじゃねーか」
咽て顔を真っ赤にしたユマは、口元を拭いながら私を睨む。
「冗談じゃねえ。どう考えたって、モテるのはお前の方だろ」
「え?」
「え、じゃねーよ。顔が良くて、腕が立って、近衛兵で家柄もいいと来りゃ、そりゃあ女の子が放っとかないだろう」
む……傍からはそう見えるのだろうか。
「いや、それがなかなか。その“御家柄”とやらが面倒でな」
「立場というものがあると、なかなか儘ならぬものさ――」
と、その時――……
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ウオォォォン――……
「うあッ! で、出たか?!」
反射的に立ち上がった拍子に、がたん、横手の壁に肘をぶつけた。慌てて抜刀しようとすると、ユマが後ろから肩を押さえる。
「今のはたぶん、その辺りで飼っている犬だ」
「そ……そうか……」
ふうと息をつき、そこでユマの目つきに気づいた。
「な……何だ?」
「いや、レイス、お前……」
「もしかして、怖いのか?」
「な、何を言う!」
と反駁したものの、今の締まらぬ様では言い訳も立たない。
「む……その、何だ。母方の祖父というのが、信心深い人でな。幼い時分に散々脅かされて、どうもお化けや怪物の類は苦手なのだ」
「そりゃあ信心深いと言うより、人の悪い爺様だな……」
「はは、まったくだ。だが、それとは別に、剣で切れないモノというのが怖い……のかもしれない。剣にそれなりに自負がある分、余計にな」
揶揄われるつもりでそう言うと、ユマは少し考える様子をして、それから私の右腕を取って前に突き出させた。
「気休めかも知れんが、俺の国の呪いを教えよう――……」
「俺の国では、生者の思いに死者――つまりお化けは敵わんと云う。怖れなけりゃあな。いいか、レイス。手に剣を持っていると“思え”。心で刃を作るんだ。それは“死者を切る刃”だ。相手が“切れる”なら、レイス・オランジナが後れを取ることはあるまいよ」
「心で、刃を……」
「そうだ。切れると思えば切れる、それが“心の刃”だ。この世は並べて“ある”と思えば“ある”、“ない”と思えば“ない”。自分を信じることだ、レイス」
そう言われて、ユマが支えた手から見えざる刃が生じるのを、私は確かに視た。
「ユマ……これは君の国の術式か……?」
「そう大それたものでもない、魔除けの呪いさ。ただ、その刃で人に切りつけるのは良くない。それは“呪い”ではなく“呪い”になるそうだ」
「“呪い”……」
「俺の国では、“人を呪わば穴二つ掘れ”と言ってな。誰かに悪意を向ければ、必ず自分の墓穴も要るような報いが返ると云われているのさ」
ユマはあっさりと言ってのけたが、ちょっと待て、今私は、彼の国の剣と信仰の秘伝的な何かを、さらりと伝授されていないか、もしかして……?
「まあ、とりあえず、お化けが出たら怒鳴りつけてやれ。生きた人間の声には生命力がある。並みの亡霊くらいは消し飛ぶらしいぞ。“南無阿弥陀仏”。これ、俺の国のとても強い呪いだから、とりあえず言ってみ」
いや、だからそれ、教えていいやつなのか?
「ナマー・ミダヴ?」
「そうそう、まあ、大事なのは発音自体では――……レイス」
二人とも弾かれたように、時計塔の方向へ目をやった。
たたっ……たったった……たたったたっ……
ユマに目を向けると、口を覆う仕草をするので、頷きを返す。
……――四本足の生き物が、歩き回る音だ。何か、そこそこの大きさを持つ獣が、“止まった時計台”の周りのごみ溜めを、徘徊している――……
ユマに顔を寄せ、声を潜めて囁く。
「どう思う、狼男だろうか?」
「いや、四本足に聞こえる。狼男は立つんじゃないのか?」
「狼そのものに姿を変えるという伝承もあるぞ」
「所説あり過ぎるな」
ユマは眉を顰めたが、不意に足元を見回した。
「いい考えがあるぞ、レイス」
目当てのものが見つかったらしく、ひょいと拾い上げると――
時計台の方向へ、思い切り放り投げた。
「カオリンチュか何かだったら、物音がすれば逃げるだろう。もし、あれが人を怖れない生き物だったら……」
がちゃん――……ユマが投げた空き瓶が、夜の静けさを破った。一瞬の間があって――足音がこちらへと向きを転じ、物凄い勢いで突進してきた。