69.【下巻/サイド・パンタシア】白雪姫ト秘密ノ目論見
子取り鳥籠、隠した戸棚。繰る繰る狂うは、金の鍵。
小鳥呼んでも歌いやしない、それじゃ猫に見つかりゃしない。
掛け値なしに世界で一番美しいお姫様になった白雪姫は、罪の家で七人の主達と幸せに暮らしておりました。主達は白雪姫に親切で、どんな願いも全て叶えてくれました。何しろ悪魔にはどんな願いも思うがままでしたから、何だってお安い御用さ、と言うのです。
白雪姫は今までこれほど人から親切にされたことはなかったので、七人の主達がすっかり好きになり、罪の家はどこよりも居心地がよく思えました。
けれども白雪姫は、心が幸せで満たされることはありませんでした。と申しますのも、悪魔達が良くしてくれればくれるほど、思い出されるのは、かつてお城で降り積もった不幸せ、人々の嘲り、実の娘を殺そうとした王様の顔でした。そこで白雪姫は主達に、
「ああ、お助けください。私はこの苦しみを、どうすれば良いのでしょう?」
と訴えました。すると七人の悪魔は、
「可愛い娘、愛しい娘」
と囁きました。
「お前の願いなら、我らは聞かなくてはなるまいな。されど、白雪姫よ。遠い国で戦争が起きている。我らは行かねばならないのだ」
そこで悪魔達は、白雪姫にたくさんの鍵を通した輪っかを渡しました。たくさんの鍵は様々な色と形をしておりましたが、その中にひとつ、小さな金の鍵がありました。
「可愛い娘、愛しい娘。この家には、入り用なものは揃っているから、いい子で我らの返りを待っていておくれ。お前にはこの鍵束を預けるから、家の部屋の中を好きに見て回るといい」
「ただし、この金の鍵の扉だけは、何があっても開けてはいけないよ。その扉の中を見ると、お前にとって不幸なことになるからね」
そういって、悪魔達は出掛けて行きました。白雪姫は鍵束を手にして、罪の家に一人残されました。
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さて白雪姫は悪魔達から預かった鍵で、家中の扉を開けて回りました。
扉の向こうには地獄の光景が広がっていて、火柱が上がり、煙が立ち込めていて、幾千もの罪人が責められておりました。焼かれる男、裂かれる女。いやらしい虫や蛇に食われる者、吊られた人々。そこでは夥しい血が流れ、若者も年寄りも、男も女も分け隔てなく罰を与えられ、見当たらないのは幼子だけでした。
白雪姫は面白がって手を叩き、次から次へ扉を開けて、地獄を覗きました。どの部屋も違った苦しみ、アリギエーリの詩の情景が描かれ、姫を喜ばせました。そうして白雪姫は次の扉、また次の扉と開けていったので、すぐに金の鍵を残して、罪の家の扉をみな開けてしまいました。
気がつけば、白雪姫の手元には最後の鍵が残ったっきりでした。
白雪姫は金の鍵の扉の前に立つと、フェルテートの言いつけを思い出して、寝所に戻って金の鍵を戸棚にしまいました。けれどもすぐに、白雪姫は鍵を取り出して扉の前に立っており、一日に十回も、寝所と扉を行ったり来たりしました。
一日目は我慢しました。二日目は前の日より扉の中が見たくなりましたが、それでも堪えました。ところが三日目の朝になると、見たい気持ちはもっともっと大きくなって、胸がつかえて、食事も喉を通りません。白雪姫は金の鍵の扉の中が見られるなら、今までに開けた扉の中など見なくても良かったのに、と思いました。
昼になると、見たい気持ちは大きくなり過ぎて、床に倒れるほどでした。
そこで白雪姫は、ほんの少し、扉の隙間からちょっと覗きさえすれば辛い気持ちも治まるし、そのくらいなら見たうちには入らないでしょう、と考えました。姫はそう考えると、至極尤もらしく思えたので、金の鍵を握り締めるが早いか、扉の前に駆けて行きました。
小さな錠に小さな鍵を差し込むと、扉は清らかな鐘のような、心地良いかちりという音を立てました。
白雪姫が扉の隙間から中を覗くと、そこは光に満ちており、たくさんの天使が高き御座の周りを飛び、歓びの歌を歌っておりました。そして天使達に囲まれた御座には、金色に輝く人がおられまして、ここはこれまで見てきた地獄の光景とは正反対の、美しく祝福に溢れたところでした。
ところが白雪姫には、この素晴らしい場所がひどく恐ろしく見え、氷水を頭から浴びせられたように体が震えました。姫は慌てて、扉を閉めようとしました。
その時――……金色の人が白雪姫に気づかれ、お顔をこちらにお向けになったので、姫はいっぺんにその人が誰なのかを知りました。
金色の人が振り向かれた途端、扉の中はますます光に満ちて、外まで溢れそうになったので、白雪姫は急いで扉を閉めました。ところがあまりに慌てたので、姫は扉に左手の小指を挟んでしまいました。姫は急いで指を引き抜きましたが、光を浴びた小指は黄金になっておりました。白雪姫は指を服で擦りましたが、黄金の指はますます光るばかり。
白雪姫は金色の人も、栄光の翼達も、七人の悪魔達がきっと怒るだろうことも、みな怖くて、寝所に閉じ籠ってしくしくと泣き続けました。
さて、やがて帰って来た七人の悪魔は、白雪姫に鍵の輪っかを返すように言いました。鍵束を受け取ったフェルテート達は、その左の小指が金色をしているのを見て、姫が言いつけに背いたと知り、たいそう腹を立てました。
「可愛い娘、愛しい娘。お前はあの扉の中を、見てしまったね」
七つ罪の悪魔に咎められては、白雪姫も罪を認めなくてはなりません。白雪姫は心から悔いて、どんな罰も受けますと言ったので、悪魔達も怒りを治め、
「可愛い娘、愛しい娘。私達は、お前が禁じられた扉を開くことは知っていたよ」
「お前は扉の中が“どこ”で、金色の人が“誰”なのか、もう理解っているだろう。お前は我らの仇に見つかってしまった。良くないことだ。お前の居所が知られたからには、天使どもがお前に手出しをしにやって来るだろう。用心することだ」
そう言って、白雪姫は黄金の指に布を巻いて隠し、悪魔達は白雪姫を罪の家に隠して、天使が連れ去ってしまわないよう交代で見張りをすることになりました。
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またしばらくして、遠い国で戦争が起こりました。
悪魔達は争いの火を焚きつけるために、出掛けなくてはなりませんでした。そこで七人は白雪姫を呼んで忠告しました。
「可愛い娘、愛しい娘。我らはまた出掛けねばならないが、気掛かりはお前を残していくこと。お前は“いと高き方”に、居所を知られてしまった。用心することだ、白雪姫。図々しい天使どもは、我らのいぬ間にお前を誑かしにやって来るだろう」
白雪姫が神妙に頷くと、悪魔達は少し笑って、話を続けました。その微笑みは心配しているような、見透かしているような。
「天使の口車に乗るのではないよ。天使は甘い言葉を囁いて、人を騙すものだからね。天使は林檎の実をお前にくれようとするだろう」
「それは見事に真っ赤な林檎で、とても美味しそうに見えるけど、食べてはいけないよ、愛しい娘。天の国の食べ物は人の子にとって、ことに悪魔と交わった娘には毒だから、口にしたが最期、たちまち命を落とすことになる」
七人の悪魔はそう言い聞かせると、また白雪姫に留守を預けました。白雪姫も今度こそ、親切な悪魔達の言いつけを守り、誰が来ようと、それこそ神様が来ようとも、家の扉は開くまいと心に決めました。
けれども、みなさん。私はどうにも信じられないのです。悪魔達が、御使い達が白雪姫に扉を開けさせることが出来ないと、本気で考えていたなんて。悪魔達は自分達の仇敵のことを、誰よりよく知っているというのに。
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七人の悪魔が遠い国へ旅立つと間もなく、森をやって来る者がありました。
彼らの行く先には光が差し、来た道には花が咲きました。二つの輝く翼の名は、青き衣のミシエルと、赤き衣のジブリール。主の信頼と恩寵を、篤く受ける御使いでした。二人の大天使は、見事な、血のように赤い林檎を持っておりました。ひと口齧れば、きっと実は雪のように白かろうと思われました。
白雪姫は、誰かが罪の家の扉を叩く音を聞きました。ノックの音は、
「出てきなさい、白雪姫。そこにいては、救い主の手が届かない」
と言っているように聞こえました。そこで白雪姫は外に向かって、
「さっさと帰りなさい。ここは、あなた達の来るところではありません」
と言って、ミシエルとジブリールに扉を開けてやりませんでした。
そこで御使い達は扉の前で――……
お城で偽りを流して、野で血を流して。
森で悪魔に出会って、お前は罪の家の中。
聖なる哉、聖なる哉、聖なる哉。
そこに光はないというのに。
……――と歌いました。
その歌声があまりに美しいので、白雪姫はもっとよく聞こうと思って、扉を少し開けました。ところがそこにいた天使達が立派な姿で、美しく、主に愛されて、あらゆる知恵と美徳を具えているのを見ると、白雪姫はひどく腹を立て、
「いったいどういう了見なの? あなた達に、ここに来る権利なんてないのに。あなた達の不公平なご主人は、私に何をしてくれたの? 私を救ってくれたのは、神様なんかじゃない、あなた達の仇の悪魔達なのよ」
そう言って、ミシエルとジブリールを追い返してしまいました。
ミシエルとジブリールは白雪姫の罪深い言葉を恐れ、十字を切り、姫のために赦しを請いますと、美しい衣を脱いで、顔に土を擦りつけ、貧しい老婆に身をやつして、またカーサ・クレムを訪ねました。
白雪姫は、誰かが罪の家の扉を叩く音を聞きました。ノックの音は、
「出てきなさい、白雪姫。そこにいては、救い主の手が届かない」
と言っているように聞こえました。そこで白雪姫は外に向かって、
「さっさと帰りなさい。ここは、あなた達の来るところではありません」
と言って、ミシエルとジブリールに扉を開けてやりませんでした。
そこで御使い達は扉の前で――……
お城で偽りを流して、野で血を流して。
森で悪魔に出会って、お前は罪の家の中。
聖なる哉、聖なる哉、聖なる哉。
そこに光はないというのに。
……――と歌いました。
その歌声があまりに美しいので、白雪姫はもっとよく聞こうと思って、扉を少し開けました。そこに立っていたのは、物売りのお婆さんでした。それで白雪姫は安心して、
「どうしたの、お婆さん。ここは罪の家よ。悪魔達が帰って来たら、きっとあなた達を引き裂いてしまうわ。それに私は扉を閉めたいの。だって図々しい天使達が、どこで見ているか判らないのですもの」
これを聞いた二人のお婆さん、歯のない口を開けて笑って、
「はい、はい。私達も早く帰りたいですよ。ただし、売り物をすっかり片づけてしまってからね」
「お嬢さん、林檎はいかがかね? あんたみたいなきれいな娘さんには、とびきり上等なのをあげましょうね」
そう言って、籠から見事な林檎を取り出しました。
お婆さん(ところで、白雪姫? このおばあさん達、どこかで会ったような気はしないかい)の林檎は本当に血のように赤くて、たぶん中は雪のように白くて、こんな見事な林檎は町でも、お城でも、世界中を探したってきっと(天国でしか)見つからないでしょう。
姫もこの林檎が欲しくて欲しくてたまらなくなりましたが、悪魔達の言いつけを思い出して言いました。
「ねえ、アヴィア。本当に見事な林檎だけど、私の悪魔達は、林檎を貰ってはいけないと言うのよ。そりゃあ、お婆さん達はアンジェには見えないけれども、私は用心しなくてはならないのよ」
お婆さんは皺だらけの顔をくしゃくしゃに笑って
「それは残念だねえ。こんな上等の林檎は世界中を探したってきっと(天国でしか)見つからないらないよ」
「あんたみたいなきれいな娘さんも、世界中を探したってきっと(地獄でしか)見つからないだろうから、ぜひあんたにあげたかったのだけどね」
これを聞くと白雪姫、ますます林檎が欲しくなって、ああ、この林檎は私のためにあるような林檎だわ、と思いました。それを見ていたもう一人の老婆が、
「そうだね。あんたが用心しなくちゃならないと言うなら、私と半分ずつ食べたらどうかね? それこそ用心も出来て林檎も食べられる、一等の方法というものじゃないかね」
と言うので、白雪姫はこれこそ名案と喜びました
お婆さん達は正直そうで、まるで……(天使のよう?)……あの親切な悪魔達にお婆さんがあるなら、きっとこんなだろうと思えました。そこで白雪姫は、まずお婆さんにひと口齧ってもらいました。ああ、その素晴らしい音といったら! 白雪姫は食べたい気持ちがどうにも抑えきれなくなって、お婆さんから林檎を受け取るや、大きくひと口齧りました。
そして林檎のひとかけらが口に入った途端、白雪姫は深い深い井戸の底のような、心地良い永遠の眠りに落ちて行きました――……
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深い眠りに落ちた白雪姫を抱き上げたのは、貧しい物売りではなく、青き衣のミシエルと赤き衣のジブリールでした。天国の林檎は、そこの住み人でない者には甘い死の薬なのです。青き衣のミシエルは白雪姫を寝所に運ぶと、ベッドに横たえました。
「眠りなさい、罪深き子、白雪姫。お前は多くの罪と親しみ、主の名をみだりにし、あるまじきことか悪魔達と交わった。赦し難いことだ」
「しかし、“いと高き方”は見ておられた。いついかなる時も見ておられた」
「お前の幸薄きこと、お前の周りに善き人のなかったこと。主は哀しんでおられる。だから、我らはお前に赦しを与えに来た。今は眠りなさい、白雪姫。審判の日まで眠るのです。お前が眠っている間に、我らはお前の罪を洗い流しましょう。最後の日が来るまでに、罪は赦され、お前は救われるでしょう。その日を待ち、この上に悪魔と言葉を交わすことのないように」
「そして、主の呼び掛けにのみ応えなさい。主の呼びかけを待たずに、目を覚ましてはなりませんよ」
そう言うと、御使い達は天国に帰って行きました。白雪姫は毒の林檎を胸に抱いて、眠ったように死んでいるのか、死んだように眠っているのか、その安らかな顔からは判らないのでした。




