63.【上巻】白雪姫ト意地悪ナ継母
東のお空にお日様昇りゃ、西に向かって影伸びて。
東のお空にお月様昇りゃ、夜に向かって日が沈む。
白雪姫は、ひと目見た時から、新しいお后が嫌いでした。神様の作られたもので、白雪姫とお妃は、全くの正反対だったからです。
美しいものと醜いもの、幸せなものと忌まわしいもの。同じ数だけ与えられた、祝福と呪いと。白雪姫が手の施しようもないでき損ないなら、お妃は非の打ちどころのない芸術品でした。
白雪姫は、初めて鏡を見た日から、自分の見てくれに、かけらほどの希望も持ってはおりませんでした。賢いお姫様は、深い諦めの中で生きることを受け入れておりました。
けれども――……
少女は、己の惨めさを今一度思い知らされるような、不幸せの言葉の意味も知らない者が目の前にいることを、許せるほど強い心を持ってもいませんでした。
何より白雪姫を傷つけたこと、それはお后が自分と同じ人間――黄金の薔薇とカオリンチュの死骸ほどに違っていても、それでも同じ人間であることでした。もしもお后が妖精か天使であったなら、どれだけ美しくあろうと、白雪姫は寂しく笑って、また諦めの檻でそっと目を閉じたでしょう。
ですが、お后が人であること――それは白雪姫にとって許せないことでした。
なぜなら、お后が人であるなら、その美しさはことによると、自分にも望めたかもしれないからです。妖精や天使のようには、人は美しくなれません。けれどお后は白雪姫と同じ肉の体を持ち、同じ色の血が通っているのです。
あの蜂蜜のような髪も、エメラルドの瞳も、林檎のような頬も、濡れて甘やかな唇も、もしかすると、もしかすると手が届いたのかもしれない。
亡き母上は美しい人だったという。自分は何かの手違いで、●●●の体に閉じ込められてしまった。もしかすると、私は美しく生まれていたのかもしれない。
せめて、人並みの体に生まれていたかもしれない。
遠い幼い日に、心の奥の誰にも知れないところへしまい込んで、鍵を掛けて、その鍵も捨ててしまった、そんな思いを、どうして思い出してしまったのだろう。
白雪姫は思いました、それはお后の罪だと。
白雪姫は思いました、お后が犯した罪は、償われなければならないと。意地悪な継母は、罰を受けなくてはならないと。
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元から、人が自分を見る目を疎み、自室から出ることを避けがちだった白雪姫でしたが、新しいお后がお城に来てからというもの、ますます一人で閉じこもるようになっておりました。
ひとつには、お后の美しさを見て、お后に醜さを見られるのが嫌でしたから。もうひとつには、お后にはどんな報いが相応しいか、ゆっくりと思案するために。
白雪姫は絹で張った椅子に腰掛け、膝に乗せた小さな黒猫の背中を撫でながら、来る日も来る日も考えました。黒猫は白雪姫の何より大切な宝物で、姫の顔を見て笑ったり怖れたりしないただ一匹の友達でした。
黒猫はビロードの毛並みを持ち、翡翠の目を持ち、右の前脚の足首から先を持たない猫でした。猫の足は、白雪姫が首切り役人に頼んで、落としてもらったものでした。
そうすれば猫も、姫と同じように、小踊りするように歩いて見えるからです。
白雪姫は、今度は誰かに頼むことはできない、と思いました。
今度は、自分の手で成し遂げなければならない、と。
賢いお姫様は、欲しいものを得るには、待っていてはいけない。自分の手を伸ばさなくてはならない、と知っていました。ただ願うだけでは、誰も助けてくれないし、幸せは訪れないのです。ことに、自分のような娘には。
これは白雪姫がまだ幼かった頃のことですが――……
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……――お城に意地の悪い女中がいて、人のいないところでこっそり姫をぶったり、腕にピンを刺して苛めておりました。女中は、
「もし人に言いつけたりしたら、殺してやる」
と姫を脅かしていましたので、白雪姫は女中が怖くて堪らず、ただただ我慢して神様に祈ること、救いを願うことしかできませんでした。
白雪姫は祈りました。あんな意地悪な女中は怪我をすればいい。病気になればいい。いなくなればいい。或いは――
「死んでしまえばいい」
姫の願いは叶えられました。
その日はお城に食べ物や飲み物、いろいろな道具に兵隊さんの武器まで、様々な品物が運ばれてくる日でした。王都でも指折りの商人、ヨシフ・オーキッドの商隊といえば、ちょっとした見もので、白雪姫も部屋の窓辺で町から続く荷馬車の行列を眺めておりましたが、不意に馬車馬の一頭が暴れ出して、大きな木箱が運悪く傍にいた、意地悪な女中の頭の上に落ちてきたのです。
女中はあっと言う間もなく、蛙のように潰されてしまいました。
白雪姫は心から怖れました。
意地悪な女中の折檻よりも、怖くてなりませんでした。幼い姫は、女中は自分が悪いことを祈ったから死んだのだ、と思ったのです。白雪姫は、自分の口から飛び出した言葉が刃になって、女中を死なせたように思えました。
女中を死なせたのだから、きっと私は牢に入れられてしまう。白雪姫は幾晩も、泣きながら神様に赦しを乞いました。
けれど、それは幼い頃のことで――……
大人になった白雪姫は、それはただの偶然だと――さもなければ、セルバンジェへの当然の報いだと知っておりました。
白雪姫は、もうおとぎ話を信じる幼子ではなく、ましてや、夢見るお姫様ではありませんでした。ただ眠っていれば王子様だかがやって来て、幸せな結末を届けてくれる物語など、姫にはくだらないお笑い種でしかなかったのです。
ブラネージュは魔法を信じるには、“世界”の暗さを知り過ぎておりました。白雪姫の心は王女のそれより、老婆に似ていたのです。
姫は椅子から立ち上がりました。膝から飛び降りた黒猫が、鈴を鳴らしながらひょこひょこと部屋の隅まで踊っていって、丸くなりました。
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それから程なくしての朝。
白雪姫がお城の庭を散歩していて、門の前を通り掛かりますと、いつものように門番が挨拶をしました。白雪姫も挨拶を返し、珍しく、
「少しお話をしましょう」
と言いました。気のいい門番は、今朝は姫様はご機嫌がいいのだろうと思って、「はい、はい」と頷きました。
白雪姫は立ち話をしながら、しきりに継母を褒めました。あんなに美しい人は見たことがない、あれほどの美しさは、とてもこの世のものとは、人間のものとは思えない、と。お人好しの門番は、白雪姫の言うことに、いちいち「そうだそうだ」と相槌を打っておりました。
白雪姫は言いました。
「あれほど美しいのだから、お義母様は、妖精なのかもしれない」
門番は笑って言いました。
「そうですね。妖精であられるかもしれません」
白雪姫が今度は、
「もしかすると、天使かもしれない」
と言うと、
「そうですね。天使なのかもしれません」
と門番も言いました。そこで白雪姫は、少し考えるようなふりをしてから、自分の言うことが門番の心に棘になって刺さるよう、●●●の背中をより丸め、声を潜め、冗談めかしたようで、それでいて秘密めかしたように囁きました。
「さもなければ、魔女なのかもしれない――……」
門番は少し眉を吊り上げました。が、白雪姫がにっと笑ったのを見て、冗談には過ぎるけれど、たかが●●●者の言うことだと考えて、秘密を分け合った悪党仲間のような顔で答えました。
「そうですね。お后様は、魔女なのかもしれません」
その朝の立ち話を、門番はすぐに忘れてしまいましたが、心の中では自分でも知らないまま覚えておりました。
それからブラネージュは、誰かに会うたびに少し立ち話をして、新しいお后を褒め、そして相手の心にちょっとした棘――楔を打っていきました。
「さもなければ、お后は魔女なのかもしれない――……」




