60.二つにひとつの選択
しかし、幼い娘の部屋に入るのに、何をするべきじゃねえって、腰に長いモノかちゃかちゃ鳴らす以上はないだろうね。
汚ねえブーツはカルーシアに脱ぎ捨て、ベッドで寝息を立てる香菜の顔を覗き込む。柔らけえ絨毯踏むのも、この寝顔を見るのも、信じられねえことに実に3年ぶりなんだな。
娘の姿は記憶にある姿と、全く変わっていない……俺的には久しぶりの再会でも、こっちでは数か月しか経ってねえんだから、当然と言えば当然なんだが。
「香菜――……」
込み上げる懐かしさと、愛しさと同じ強さで、俺の中に沸き起こる感情がある。
そいつは、迷いだ。
異世界監視人とやらが「どうするか決めろ」と言ったように、俺には二つの選択肢がある。
妻と娘のいる、元の世界に戻るか――……
妻と娘を捨てて、カルーシアで生きるか――……
自分自身でも予想しなかった。香菜……娘の顔を見れば、俺はすんなりカルーシアでの暮らしに別れを告げ、元の世界に戻る気になるもんだと思っていた。
それが、まさか……
娘の存在と、自分がどう生きたいかということ――その二つが天秤の両側で、こうも選び難く釣り合ってしまうとは。
ここはフツー、家族を選んでメデタシメデタシってとこなんだろうが、実際はそう単純でもキレー事でもねえ。家族には会いたかったんだ、大切なんだ、離れたくないんだ――……けど、それと同じくらい、カルーシアでの生き方だって失くしたくないものなんだ。
もう、元の世界の灰色の生活には戻りたくねえ。
振り返ると”扉“があり、その向こうには確かに別の世界が存在している。
「なーふ。ゆっくり考えていいぞー」
俺のベッドの上で胡坐で手ェ振ってる異世界監視人の、幼い少女の姿は、俺が無意識に娘を重ね合わせた幻影だ。
俺に突きつけられている選択肢は、“家族”か“人生”か……
どっちを諦めても、幸せと同じ重さの後悔を死ぬまで背負う選択――……
「パパ……?」
その幼い声に俺は、ガキの頃悪さしてるとこをおふくろに見つかった、あの気分を久々に味わった。扉から振り返ると、ベッドの香菜が目を開いていた。
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「パパ……パパなの……?」
香菜は信じられないものを見る目で、呆気に取られている。そりゃ夜中に目が覚めたら蒸発した親父が、傭兵の装束で忽然と現れりゃあ、そんな顔にもなるわな。
「ああ……パパだよ、香菜」
「パパ……帰ってきてくれたの、パパ……?」
言葉に詰まった。ああ、そうだよ――俺の口にすべき台詞はそれだ。それが人の親として言うべき答えだ。だが、しかし、俺は……
香菜がベッドで身を起こした。俺は香菜に向かって手を伸ばそうとしたが、体が動かなかった。
俺には判っていた。娘に触れてしまえば、もうカルーシアには戻れなくなる。
香菜は俺が手を引っ込めたのを見て、それから俺の背後にある扉に気づき、顔を強張らせた。
「パパ……またどこかに行っちゃうの……?」
返事が……できない。俺には、決められない。娘の瞳に、見る見る涙が溢れるのを目にしても、まだ――……
「やだあ……」
香菜が、俺に向かって両手を差し出した。
「行かないでえ……どこにも行かないでえ、パパあ……行っちゃやだあ……」
その手の差し出し方は、もっと香菜が小さかった頃、よちよち歩きだった頃、俺に抱っこして欲しくて手を伸ばした、それと同じ掌が……
メリーゴーランドに乗って、娘の笑顔が遠ざかる――……戻ってくる。柵のこちらの俺に手を振りながら、去っていく……やって来る。木馬のペンキもニスも、ところどころ剥げかけているが、娘の笑顔はぴかぴかしている。
「めいごうらん、のるのよ」
娘の舌足らずな発音では、メリーゴーランドはどこかマリーゴールドに語感が似ていて、俺にオレンジ色を思い起こさせる。
オレンジ――暖かな、何となく“幸せ”を連想させる色。
また遠ざかるめいごうらんを見送り、俺は――……
「香菜――……っ」
俺は娘を抱き締めた。
「パパはもう、何処にも行かない。お前を置いて、何処にも……」
家族と、自分の夢や生き方と、どちらかなんて選べないだろう。どっちも捨てられないだろう。テメエを犠牲にするのが正しいとは思わねえ。でもなあ――……
縋ってくる自分の子どもの手ェ振り払うくらいなら、俺は全てを失くしちまった方がマシだと思うぜ。
「るああ。答えは出たよーだな、上戸大祐」
異世界監視人の声に、俺は振り返り、頷いた。
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家族でキャンプに来るなんて、もう何年振りのことだろうな。
「パパ、後で川でオサカナつりしよー」
「香ぁ菜。先にママのお料理を手伝ってちょうだい」
テンション高くはしゃぐ娘と、てきぱき野外料理の準備を進める嫁さんと、それを眺めて柄にもなく幸せなんて噛み締める俺がいて。
うん、連れてきて正解だったな。
まあ、何はなくとも元の会社、元の生活に戻る、それだけはナシだった。
妻を納得させるのは容易なことではなかったが、俺達家族は仕事も住んでいた場所も変えて、新しい生活をスタートした。
始めはいろいろ大変なこともあったが、家族で過ごす時間は以前とは比べ物にならないほど増え、おかげですれ違い気味だった夫婦関係もすっかり改善された。
どれぐらい改善されたかっつうと、来年の春頃かなあ、香菜がお姉ちゃんになる予定だっつうから、いや、参ったね。
カミさんが起こした火から立ち上がって、腰に手を当てた。
「あなた、準備はできたの?」
俺は道具入れをぱちんと閉じて、肩に背負う。
「おう。じゃあちょっと行ってくる。晩飯までには戻るから」
嫁さんは即席の石組み竃の前で、難しい顔して腕を組む。
「大丈夫なの、大角猪を一人でなんて?」
「なァに、王都の剣術大会優勝の腕前を舐めんなよ」
俺は腰にぶら下げた愛用の長剣を、ぱんと叩いた。
「なあ、カナ。傭兵ダイス・アヴェルトの強さ、ママに教えてやれ」
「パパつよーい!」
「そういうことだ、昌美。大船に乗ったつもりで、旨いメシの用意をよろしく頼む。野営拠点はお前に任せたぜ」
「わーったわよ、この筋肉オヤジめ」
無意味にバンザイした娘と、リーマン時代の見る影もない男臭さと化した夫に、嫁さんは呆れ顔で肩を竦めた。
家族と人生、どっちかなんて選びたくねえ。いや――……今の俺なら、どっちかなんて選ばなくてもいいはずだ。
あの夜、俺が出した答えは“どっちも捨てねえ”――家族揃ってカルーシアで生きる、それ以外に正解はないと思った。
黙って俺について来い――結婚してから、初めてそういうことを言った。嫁さんは俺の目を長いこと見つめて、そして黙って俺について来た。
今や傭兵の女房も板についたもの、嫁さんが洋弓銃を携え嘆息する。
「あーもう、何て世界に来ちゃったのかしら……!」
「いひひ……レジ打ちしてるよりゃ、よっぽど面白えだろ?」
パン屑を大型げっ歯類の親子に投げていた香菜が、
「あたし、カルーシア大好き。掛け算覚えなくていいもん」
「それは覚え「なさい」「ろよ」
調子に乗って失言し、両親から突っ込みを食らって逃げ出した。なぜかカオリンチュも後を追って逃げ出す。俺達は夫婦顔を見合わせて、吹き出した。
詰まるところ“おっさん”というのは、家庭やら仕事やら……それまで生きてきた柵に囚われた男のことを言うんだろうな。
だから、おっさんが”異世界転移“するのは、中高生より大変だよ。やっぱ整理するモンの分量が違うんだからさ。
けどな、旅に出るなら、トランクひとつに入るモンだけ持ってくべきさ。あれもこれもは持ってけねえ。アンタの本当に持ってきたいモノは何だろうね。
俺は結局、たった二つだけだったけど……
トランクに収まりきらねえかい? だったらアンタ……そこにいるしかねえんじゃないかな――……
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家族が和気藹々と過ごしている野営地を、異世界監視人はすぐ傍らの木陰から見つめている。ただしその姿は、監視人が望んでいないので、この“世界”の何者の目に映ることもない。
「なーふ……オッサンめ、いいとこ取りの欲張りしやがって……」
木漏れ日に輝く白銀の髪、異国風の褐色の肌、作り物のような赤い瞳をした監視人は、苦々しい表情で家族を見ていたが、やがて口元が綻び、いつしか穏やかな顔で彼らを見守っていた。
監視人の姿は、誰も目にすることはできなかったが、年端もいかない幼女と、壮年の婦人の年齢を、ゆらりゆらりと移ろっていた。
「るああ。“二兎追う者は――”なんて言うけどさ……」
監視人ルシウ・コトレットは何とも楽しげに呟いた。
「お前さんの剣なら、兎の二匹も逃がしゃあしねえんだろな」
「いひひ……その覚悟があるんなら、“欲張り”も許されるだろうさ――……」
パンを投げながらカオリンチュと戯れていた少女が、ふと、風の騒めきを聞いた気がして辺りを見回した。しかしそこには既に、異世界監視人の姿はなかった。
~“おっさん、カルーシアに行く”・完~




