56.月の光に剣は閃いて
月の明るい夜だった。
満月にはちと足りないが、概ねまん丸な顔を街並みの屋根から覗かせている。酒場通りならまだ宵の口だが、人狼や吸血鬼がそろそろ目を覚ます、女子どもは家から出ぬがいい時刻だ。
さて、運河通りを外套を着込んだ老人が家路を急ぐ。傭兵組合や商家、酒場界隈の賑わいを背に、川に沿ってひょいと通りを曲がると――
派手で上等な身なりの3人連れが、道いっぱいに広がって歩いてきていた。
真ん中の男が誰あろう、オルセイ・チェルサーゾ卿である。傭兵野郎が見回りを諦めたと見定めて、老人が後にしてきた盛り場に向かおうというところだろう。
「はて、御免くだされ」
老人は軽く頭を下げ、身を縮めて威勢のいい若者と行き違おうとした。と、取り巻きの片割れがさっと老人の行く先を阻んだ。老人が慌てて避けようとすると、今度はオルセイがにやりと笑って邪魔をする。
「はて……?」
老人が困惑して立ち止まると、オルセイは居丈高 に食って掛かった。
「おい、年寄り。どうして貴族の行く道を塞ぐ。我らに何か用があるのか?」
「いえいえ、これは失礼を。足の悪い年寄りのことで、どうかお赦しくだされ」
触らぬ神に祟りなし、老人は頭を下げてやり過ごそうとしたが、子分のもう一人がその肩をどんと突いた。オルセイは腕組みして、にやにやと眺めている。
「あれ、何をなさいますか!」
「黙れ、年寄り。我らを狼党と知っての無礼か。ちゃんと石畳へ手を突いて詫びぬと、いつだったかのガキと同じように、運河の水を飲ませてくれるぞ――……」
と、その言葉は途中からふわりと空を漂い、やがて……どぼん……水音に消えた。
オルセイの顔と老人の顔の間を、丸太のような腕がにゅっと横切っていた。
「おう……その話、じっくり俺に聞かせろや……」
月下に、獅子髪の傭兵が立っていた。大円の月を背負って、大きな影が夜空を覆っていた。
「爺さん、あんたはもう行きな」
ユージン・ヴァンダルハーツがオルセイら二人から目を離さず声を掛けると、老人は深く頭を下げ、路地の蔭へ立ち去った。
オルセイとその手下は、突如闇から滲み出したユージンに度肝を抜かれた。ユージンは巨体でガサツな男だが、傭兵稼業、素人に気取られず近づくくらい訳のないことだ。
驚き竦んでいる間に、オルセイは胸倉を取られ、片手で高々と吊るされた。月にキスさせられそうな気がした。先に川へと殴り飛ばされた仲間が、ばしゃばしゃやってる音がやたらと耳についた。
「お前が、粉屋の子どもを川へ落したのか?」
「は……放せ、無礼者! 俺を誰だと思っている、俺はチェルサーゾの……」
「俺が聞いたことに答えろ」
地獄の底から響くような声だった。チンピラ気取りの粋がった甲高い威嚇とはまるで違う、生業で人を殺す男の声だった。
下履きの腿が、温く濡れるのを感じた。
目の端で、残った方の子分がばっと逃げ出したのが見えた。
「ま、待て……! 俺を助けろ、おい!」
叫ぶと、傭兵にぶら下げられた己の体が、すうっと空中を移動した。風の吹き様が変わって、許される視界の限りに見下ろすと、足元に石畳がなかった。
オルセイは黒々と流れる夜の運河に腕1本、5本の指で宙吊りにされている。
巨大な影から、腕だけが生えている。その腕だけで、自分を支えている。
「言え」
巨大な影は、一片の慈悲もなく言った。
「ひと晩中、運河の水を飲み続けたいか」
オルセイの脳裏に、顔を水の中に押し込まれては、水を吐かされ、また水責めにされる光景がありありと浮かんだ。
「お、俺が……やった。殺すつもりじゃなかった。ただ、突き飛ばしたら、運河に落ちて……さすがにマズいと思って……逃げた……」
街並みが、空が運河が、石畳が、出し抜けにぐるりと回転したかと思うと、肺から全ての空気が叩き出された。背中への衝撃は、後から追いかけてきた。
ユージンは地べたに伸びたオルセイを、
「今言ったことを警吏の前で洗い浚い吐け。貴族の力で逃れようとしてみろ、地の果てまで追い掛けて、嫌ってほど“吐き方”を教えてやるからな」
圧し掛かるばかりに脅しつけると、運河の方へ振り返った。ぶん殴って川へぶっ飛ばしたガキだが、そのまま沈まれては寝覚めが悪い。元より殺す気はない。ちゃんと、罪を償やぁそれでいいんだ。
オルセイが咳き込みつつ、うつ伏せに体を返し、身を起こすと、傭兵野郎はこちらに背を向けて運河の方を窺っていた。
オルセイ・チェルサーゾは、率直に言って、全く反省していなかった。貴族の子息たるこの自分が、平民の年寄りを小突いて、ガキを殺して、何が悪い? あの傭兵に屈したのは、単純に自分を上回る暴力を怖れただけのことだった。
今、傭兵は自分のことを侮り、完全に油断して、背を向けている。
オルセイの頭の中も、視界も、真っ赤に染まっていた。屈辱、その怒りだけがあった。下履きを汚し、子飼いの手下に裏切られ、下賤の傭兵ごときに屈服させられた怒り。
(この恥は、貴様の命で濯がねば気が済まぬ――……)
オルセイは、腰の剣を静かに抜いた。傭兵は、更なる侮辱としてオルセイを毫も気にせず、間抜けにも背を向けた儘でいる。
オルセイは音もなく立ち上がり、ゆっくりと剣を月へ振り上げた。
その時、路地の暗がりから、背の低い影が走り出た。
影は、先ほどオルセイらに小突き回された老人であった。老人が鋭くユージンとオルセイの間に割って入ると、腰の物が鞘走った。月下に刃が閃く。
どさり……音を立てて石畳に落ちたのは、剣を握ったオルセイの右腕だった。
「があああああ――……!」
肘から先を失って、オルセイが絶叫とともに蹲った。丸めた体の下から、石畳に血溜まりが広がる。ユージンが振り返り、老人を見た。老人は剣に拭いを掛け、銘刀“槌籠”を鞘に納めた。
「よう……助かったぜ、ビッグスロープ」
「空々しい。お前、俺が出なければ、こいつを殺す気だったな?」
老人が外套の頭巾を上げ、曲げていた腰をすっと戻せば、それは傭兵ユマ・ビッグスロープである。
「人聞きの悪いことを言うな。そんなガキ、殺す価値もねえよ」
「ぐあああああ……ああああああ……ッ!」
「生かしとく価値もないだろ。そして、お前の剣を汚す価値もない」
のたうち回るオルセイを歯牙にも掛けず、ユージンとユマは言葉を交わした。
ユージンは知っている。ユマ・ビッグスロープという男は、腕は立つが性分は甘く、盗賊相手でも手加減できぬ場合でなければ基本、峰で打つということを。
オルセイ・チェルサーゾは右腕の残りを胸に抱き込み、切り飛ばされた腕に左手を伸ばし、ユージンとユマを睨み上げて叫んだ。
「貴様らァ! 傭兵風情が、誰に何をしたと思っている! このチェルサーゾ家が末弟、オルセイ・チェルサーゾに斯様な真似をして、只で済むとは――……」
「そうだな。只で済むとは思わぬがいい」
新たな声がして、居合わせた全員が振り返った。その視線の先に在ったのは、数名の衛兵を率いた騎士、レイス・オランジナの姿であった。
レイス・オランジナは近衛兵隊の若き新鋭にして、剣技流麗、眉目秀麗、挙句は名門オランジナ家嫡子という、天が何物を与えるかと人の羨む青年だ。剣術大会に発した因縁から、ユマは剣敵と見做され閉口している。
近衛兵レイスは、脂汗に塗れて腕を抱えるオルセイを、冷たく見下げた。
「馬鹿な真似をしたな、オルセイ・チェルサーゾ。貴下の町での振る舞いは、御父上の御威光に眩んで目を瞑られてきたようだが、市井の民を殺めたとあらば、捨てては置かれぬぞ」
「うう……」
「御父上のお顔にも随分と泥を塗った。最早七光りも届くまいよ」
オルセイは愕然とレイスの顔を見ていたが、がくりと首を落とした。衛兵達が左右からオルセイの腕を捉え、また一人が素早く右手を止血した。
レイスがオルセイと、運河から引き上げられた取り巻きを詰め所に移送、手当てするよう指示をして、衛兵と下手人達は去っていった。
王都の夜に静けさが戻り、ユマはレイスに歩み寄った。
「手間を掛けたな。助かったよ、サー・レイス・オランジナ」
騎士であり官憲であるレイスに“居合わせてもらう”ことで、オルセイを法的に葬り去る。ユマが打った“仕掛け”の、最後の一手がこれであった。更に言えば、チェルサーゾよりオランジナの方が家格が上。権力に権力をぶつけるようで、多少すっきりしないが、時に手段を選ばぬのが傭兵のやり口だ……ということにしておこう。
ユマが礼を言うと、レイスは手を振ってこれに応じた。
「何の。むしろ市民の協力に、こちらが礼を言わせてもらいたい」
そう言うと、運河の方を向いたユージンの背に、躊躇いがちに口を開いた。
「ヴァンダルハーツ殿」
ユージンはしばし闇に沈む水の流れに耳を傾け、ゆっくりと振り返った。
「ヴァンダルハーツ殿、今回のことは、我ら騎士身分の者全ての責任だ。取り返しのつかぬことながら……済まない、この通りだ」
レイスは肘を曲げ、掌を内にするカルーシア式敬礼をし、更に深々と頭を下げた。ユージンはレイスの謝罪を見つめ、静かに言った。
「オランジナの。あんたが謝る謂れはねえ」
「いや、しかし……」
ユージンは手を突き出してレイスを遮り、頭を振った。
「身分なんざ、関係ねえ」
「あいつはあいつ、お前さんはお前さんだ」
レイスがぐっと言葉に詰まると、ユマがその肩を軽く叩いた。ユージンはまた運河に向き直り、懐に手を突っ込んだ。
「終わったぜ、坊主……」
さあっと夜風が吹いて、ユージンのライオン頭を掻き乱していった。ユージンは風が流れていく方を、じっと見送った。小さな囃し声を、聞いた気がした。
懐から引き出した手には銅貨が1枚握られていた。ユージンが親指で高々と撥ね上げると、きらきらと、夜空で月と重なった。ユージンは天の月と銅貨を一緒に掴み取り、にやっと笑った。
「ビッグスロープ、今から一杯つきあえ」
「おう」
当然こうなると腹を括っていたから、二つ返事で頷いた。と、被害者は一人に止まらない。
「オランジナの。あんたも来な」
「え? 私?」
目を丸くしたレイスの肩に、太いユージンの腕が巻き付いた。
「酒を飲むのも、身分なんか関係ねえからな」
まさか今夜、自分が引っ捕らえられるとは思わない。
「ユ、ユマ……この男、何とかしてくれ……」
「ははは、こうなったら止まらん、諦めろ」
慌てたレイスの背中に、ユマが肩を竦めた。王都の月夜に、“荒獅子”の哄笑が響く。
「今夜はよう、酒が飲みたくて仕方がねえぜ」
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傭兵組合の戸を潜ると、ボーパル組合長が待ち構えていたように手を上げた。
「よう、ユマ。お前さん宛に荷物が届いているぜ」
受け取って差出人を確かめると、思った通りのユージン・“荒獅子”・ヴァンダルハーツだ。包みを揺すってみると、ちゃぽちゃぽ水音がする。思った通り、酒らしい。
ユージンとは、もう数か月顔を合わせていない。
ユージンはあの後すぐに、旅に出た。罪に問われたとは言え、貴族の息子の腕をぶった切ったのだ、どんな累が及ぶか判らない。実際切ったのはユマだったが、この件で表立って動き回っていたのはユージンだ。
「ほとぼりが冷めるまで、傭兵働きしながら、あちこち回ってくらあ」
豪傑は豪快に笑って、自慢の大槌を肩に旅立った。鍛冶屋のサジ、仕立屋の姉妹はローザとメアリ、一番チビの料理人の息子のティム坊やらに見送られ、悲壮感なぞ欠片もなく、のっしのっしと王都から去っていった。
さて、その“ほとぼり”とやらだが。
オルセイの父、宮廷拍チェルサーゾ卿という人は放蕩息子に甘いのではなく、さして関心のない人物であったらしい。跡継ぎの長男、嫁げば政略のカードになる娘には厳しいが、末の子は「自分に迷惑さえ掛けなければ」と、好きにさせていた。
が、その迷惑が掛かってきた。
そこでチェルサーゾ卿はオルセイを切り捨てた。嫡子レイスからの報告を受けたオランジナ候が、宮中伯のこうした気性を心得て、叱責こそあれ懲戒はないよう工作をした。チェルサーゾ卿としては悪くはない落としどころ、たかが傭兵如きに意趣返しをして、寝た子を起こしても得はない。
こうして蜥蜴のような権力者は、あっさり尻尾を切ってしまったのだ。
ユマからは事の顛末を、ユージンのいる地域の傭兵組合宛に知らせたが、
「気楽な暮らしが気に入った」
と、当分は王都に戻る気はないらしく、時折、旅の空から便りを送ってくる。
デカい依頼を一緒に、という約束はまだしばらく果たせそうにないようだ。
用を済まし、ギルドを出る。右手に行けばプッセの息を引き取った場所があり、今でも花や菓子を町の人々や、子ども達が置いていく。それもいずれは数が減り、いつか供えられる花が最後になるだろう。ユマは左手に向かって歩き出した。
忘れるのではないけれど、思い出に溶けていくのだろうなあ。
背後から仕立屋のローザがメアリを叱る声がして、ユマは少し笑って肩越しに振り返った。するとプッセの前に花束を置いて、立ち去ろうとする黒い頭巾を被った後姿が見えた。思わず立ち止まり見ている内に、黒頭巾はさっさと歩いていく。
ユマはしばらくその背中を見つめていたが、
「まさか……な」
やがて小さく呟くと、頭を振り、彼もまた王都の人波に溶けて消えた。
~“月下の傭兵”・完~




