51.ロイド、カランポーのはぐれ狼
若い雄の狼が、崖の上から草原を眺めていた。
その小高い崖は、かつてとある群れのボスが縄張りを睥睨する玉座だった。その小高い崖は、かつてとある兄弟が決別の夜を迎えた場所だった。
「ロボおじさんは、立派な狼だったと聞いています」
若い狼が振り返った。
「父から」
その逞しい姿に眩しげに目を細め、白い雌の狼が微笑んだ。盛りは過ぎてはいたが、美しい狼だった。ブランカは若い雄に歩み寄った。
「あなたのお父さんも、とても立派な狼だったわ」
アルタは、嬉しそうに笑った。
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酔狂な人間がいたという――……
その人間は学者で、請われて王都からカランポ―の魔獣と呼ばれる狼を退治にやって来た。が、当初は歓迎されなかったという。
というのも、荒っぽさをもって美学とするカウボーイの小屋に現れた学者が、こともあろうに、うら若き女性であったからだった。
「なんだあ? こりゃまた、可愛らしいオネーチャンがいらっしゃったな」
学者が旅装を解くどころか、外套のフードさえ下ろさぬうちに、荒くれ男の一人がジョッキ片手に意気揚々と絡むと、あまり品の宜しくない笑い声がそこここから上がった。
屈強なバケーロが詰め寄ると、学者の背丈は彼の胸の辺りしかない。
「よう、嬢ちゃん、今日は偉い学者様が来ると聞いてるんだが、お前さん知らねえかい?」
男が揶揄い、仲間がにやついても、黒い頭巾の下で学者は落ち着き払っている。
「おそらく、それは私のことだと思うが」
「お嬢ちゃんが?!」
男が大仰に叫び、仲間連中に驚いた顔を作って見せると、どっと笑いが起こる。
「冗談じゃねえ。いいかい、チッカ? 狼退治ぁカオリンチュを追い掛けんのとは訳が違う。ましてや、ロボはただの狼じゃねえ、魔獣化した狼だ」
男は学者に威圧的に挑み掛かり、
「女子供の遊びじゃねえぞ。チッカ、ここらは王都たあ違う。碌に風呂にも入らねえ臭え野郎どもばかりだし、便所だって汚ねえぞ。悪いことは言わねえ、とっとと帰んな」
「てめえだろう、一番の風呂嫌えはよう」
「小便が下手なのもな」
仲間の野次に拳を振り上げた男は、
「うるせえぞ!」
と喚いたが、不意に野卑な笑みを浮かべた。
「だが、まあ、女手が足りねえのも確かだ。嬢ちゃんが“便所掃除”をしてえってーなら、大歓迎なんだがよ、へっへっへ……」
また男連中がどっと沸いた。
学者はバケーロの品の悪い冗談は知らなかったが、意は酌んだようだった。
フードの下から、真っ赤な目が覗いた、と同時に、
「なっ……!?」
バケーロの顎の下を、ナイフの切っ先がつんと突いた。
「お、おい……待てって。冗談だよ、チッカ、冗談……」
小屋中が息を飲んだ。学者は白い歯を見せてにっと笑うと――
バケーロのブーツの爪先すれすれに、投げたナイフが突き立った。
「ひ……!」
バケーロはあまりのことに腰を抜かす。仲間連中が無言で立ち上がる。
しかし学者はこともなげに身を屈め――
床からサソリの刺さったナイフを引き抜いた。
「うーぷす。黒髭蠍の一種か。食い物がいいのか、デカいな」
尻もちをついた男の鼻先に、ナイフを突きつけて見せた。セコピオは刃に串刺しにされても、まだぴくぴくもがいている。
「なーふ。刺されると3日ばかり熱と嘔吐に苦しんで、運が悪いと死ぬこともなくはねえ。針が長えから革靴でもたまに貫通すんだよ。気をつけた方がいーぜ?」
言葉もないバケーロ連中に、ナイフを振り振り顎をしゃくる。
「るああ。で、“便所掃除”が何だって?」
銀髪赤眼、よく日焼けした女学者は、狼王の后である白い狼を罠に掛け、彼女を囮に王を生け捕った。囚われた王は最期までその誇りを守り、人の与えた食物を口にすることはなかった。
学者がカランポ―を訪れて数週間、まるで魔法のようだった。
狼王亡き後、学者は残った群れに手を出さないよう説いた。
「なーふ。強えボスがいなくなりゃ、これまでほどの被害は出ねえだろ。下手にリュコスを減らし過ぎてもなー、今度は鹿やら野牛やらが増えて、牧草地が荒れるんだよ。それはそれで困るだろう?」
バケーロ達も、この魔獣退治の魔法使いを信頼しきっていたので、誰もが素直に提言に従った。多少の不服な意見は、この頃では一番学者に心酔していた件のナイフを突きつけられた男が、説得して回った。拳で。
ロボさえ死ねば、全て上手くいく。ようやく人間達の気が済んだ。
仕事を終えて学者は独り、ロボの妻の檻へとやって来た。
「るああ。いい仔を産みなよ」
檻の鍵を開けた学者はそう言って、夜陰を遠ざかっていく白い影を見送った。
女学者は考える。これで良かったのだろうかと。
これでロボの群れが根絶やしになることはない。
ブランカを逃がすことで、狼王の血統を残すことも出来た。だが――
ロボが死なずには、済まされなかった。
それだけは覆せなかった。
それが異世界監視人に許される“世界”への干渉の限界だった。
後に伝わった話では、狼王ロボとその妻ブランカは、ともに寄り添って眠るように死んだとされている――……
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ブランカは、若者に並んで立った。風は草原を渡り、空に舞う。
「行ってしまうの?」
ブランカは、義理の甥の横顔を伺った。
「ロイドの息子なら、私達は喜んで群れに迎えるわ、アルタ」
アルタは微笑したまま、風が髭を弄ぶに任せていた。その眼差しは遥か遠いところ、ここではない何処かを見ているようだった。
平原をリュコスの群れが、見たこともないような素晴らしい隊列を組んで走っている。群れを統率する立派な雄は、真っ黒な毛並みに、首から肩に掛けて雪のように白い鬣を靡かせていた。
アルタはその狼を、ロイドに似ていると思った。たぶん、本当は“ロイドに似た狼”に似ているのだろう。
「父さんは群れを離れたことを、ずっと気に掛けていました。俺は伯母さんと、群れがどうなったか知りたくて来ました」
アルタの横顔は、力強い決意と自信に満ちていた。ブランカは悟った。
この子は去るのではなく、赴くのだ。ここを捨てるのではなく、自分の場所を見つけに行くのだ。
自分も、ロボも、見えてはいなかったが、たぶんあの夜のロイドも、今のこの子と同じ顔をしていたのだろう。
「いつでも戻ってらっしゃい、アルタ。私も、ロボもあなたを待っているわ」
くだらないことを言う女だと、我ながら思っていながら、それでも言わずにはいられなかった。だが、アルタはロイドのように優しい嘘はつかなかった。
「同じところに王は二匹要らない。俺ははぐれ狼の後を継ぎます」
それでいいのだと、ブランカは思った。
今なら夫もそう言うだろう。今なら、きっと。
アルタは最後にもう一度、ロイドの故郷の風景を目に焼き付けた。
そこから草原を渡る風を見ていると、どこまでも行ける気がした。
何にでもなれるような気がした。
~“カランポーのはぐれ狼”・完~