49.クストーデ、春の香りの導き
どやどやと人間達が迫って来て、ようやくアルタの硬直が解けた。失われていた現実感が、殴りつけるように戻ってきた。頭のてっぺんから尻尾の先まで、総身の毛が恐怖に逆立った。再び気が遠くなりかけるのを、必死に踏み止まる。
(に……げないと……)
本当に死ぬ、初めてそう思った。全身の意思を振り絞らないと、足も動かない。アルタはもつれる足で、やっと逃げ出した。
「逃げるぞ、追え!」
背後からカウボーイ達が叫んだ。
アルタにとって不運だったのは、つい先日別の狼がこの牧場を襲っていたことだった。バケーロ達の、狼どもへの怒りと用心は、まだほかほかと湯気を立てている。そのひとつが……
「あっ――……」
不自然に盛り上がった地面は踏むな。ロイドの教えが頭に閃いた時には、既にアルタの足は真新しい土の掘り返し跡へと乗ろうとしていた。無理に避けようとして、横腹から倒れる。
その弾みで閉じた虎ばさみの罠の鉄の顎は、アルタの母親を奪ったようにがっちりとは噛みつけなかったが、右前足の先を少し持っていった。
慌てて立ち上がる――……激痛。
「キャン!」
犬のような情けない悲鳴が漏れた。必死に動くも、地面に足が着く度、痛みは繰り返される。脚は更にもつれる。やっとの思いで柵へと辿り着き、隙間に体を押し込むが、入った時より確実に狭くなった気がする。
それでもアルタは、牧場の外へと逃れ出た。
だが、人間達は、まだ追いかけてきた。
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いつもならカウボーイ達は、狼が牧場の外へ追い払えばそれで良しとした。草原を駆ける、或いは森に潜るリュコスに、追いつける道理がない。
だが今夜の奴は罠で手負いで、しかも子どものようだった。実際のところリュコスを捕まえたところで、酒場の武勇伝にしかならない。しかし、追いつけるかもしれない、そう思うと無闇に意気が上がる。前に家畜をやられて日も浅い。寝起きの勢い、自慢話で結構じゃないか。
互いに気炎を吐く男達を、アルタの残す血の足跡が導いた。
森に逃げ込んでも、人間の追跡は続いた。
入り組んだ森は、夜に真の姿を見せる。そこは獣達の“世界”だ。地の利は小柄で敏捷なアルタにあったはずだが、傷ついた足では、思うように追跡者を引き離せなかった。いや、むしろ距離は縮まってきている。
追跡者は四人。手にしたランタンで夜の闇を押し戻しながら、靴音が近づいて来る。バケーロは時折立ち止まっては、地面を確かめる。彼らはリュコスほど鼻も夜目も利かない。だがその代わりに知恵を持つ。
人間達に赤い目印を残すとともに、アルタの体力も少しずつ失われる。足取りは覚束なく、何度も気が遠くなりかける。
アルタの背後で、二度、破裂音がした。
同時に頭の上で木の枝が爆ぜた。ロイドから聞いたことがあった。それはおそらく猟銃というものだ。追っ手の二人が、猟銃を持ってきていた。碌に狙いもつけずに脅しに撃ったが、撃った本人にも思いがけず、弾は標的の近くに飛んだ。
アルタは立ち竦んだ。ここまで来た気力の糸がぷっつりと切れた。後方から荒っぽい歓声が迫って来るが、もうアルタは動くことができなかった。
その時、前方の闇の中から、真っ黒な塊が飛び出して来た。
黒い塊はアルタの頭上を飛び越えると、バケーロ達との間に降り立った。塊は四肢を地面に張り、真っすぐに頭を上げた。
「大丈夫か、アルタ」
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アルタがいないことに気づいて身を起こした時、ロイドが目を向けた先に、ひとつの人影があった。頭からすっぽり外套の黒頭巾を被ったそいつは、人間の娘の姿をしていたが、ロイドにはそれが人間でないとひと目で判った。
「……“お節介なクストーデ”、だったか?」
ロイドが問い掛けると、そいつはにやりと笑い、フードを背中に落とした。冬の空のような色の髪、夏の太陽のような色の目、秋の木々のような色の肌をした娘がにっと笑うと、尖った糸切り歯が覗く。
春の花のような匂いが、ロイドの鼻をくすぐった。
もしかすると娘は狼なのだろうか、とも思ったが、それも違うようだった。
「また行くなと言いに来たのか?」
「るああ……」
「行かないと後悔するんだろう?」
そう言うと、監視人は一瞬、泣き笑いのような顔になった。いつだったか、この娘がこんな顔をして、手や顔を舐めてやった記憶があるような気がした。
「……るああ。ついて来な」
クストーデが身を翻した。ロイドが追った。
深黒の森の中を、娘は恐ろしい速さで駆け抜けた。全力疾走のロイドでさえ、ついていくのがやっとだった。やがて見失ったか、クストーデは姿を消した。だが慌てる必要はなかった。
春の花の香りが、ロイドを導いた。
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アルタは知っていた。
自分の母親は、たぶんもういない。あの時あのままだったら、自分もたぶんもういない。
「おじさん……!」
死の迫るアルタの前に、はぐれ狼が現れたのは二度目のことだった。
(なーふ。本当に二度目か――……?)
こんな記憶があった。
それはまるで “別の世界”のことのようで、自分も“別のアルタ”だったような気がする。その“別のアルタ”は、二本の足だけで立っていたような気がする。
そう、ちょうど人間のように。
“別のアルタ”は、大きなリュコスと暮らしていたような気がする。大きなカーネは、いつも“別のアルタ”の傍にいた。
あの日、あの時、街道で、あの車輪のついた巨大な鉄の塊が“警告の緋色”を無視して目の前に迫った時も――
その犬は……“ペレ”は傍にいて……
“別のアルタ”を守ってくれた、そんな記憶があった――……
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今度は人間達が立ち竦む番だった。
「雄だ。デカいぞ」
猟銃を二丁とも撃ってしまったことを後悔する。突如茂みから飛び出して立ち塞がった狼は、並外れた体躯をした雄だった。遊び半分追いかけていた仔狼とは訳が違う。バケーロ達は弾を込め直そうと焦った。
その様子を睨んだまま、ロイドは背後のアルタに吠えた。
「行け、アルタ。行って生き延びろ」
その声を聞いた瞬間、アルタは地面を蹴っていた。頭で考える前に、体が動いていた。それははぐれ狼の声に狼王と同じ、群れを率いる王の血統が流れていたからかもしれない。
「あっ、ちっこいのが逃げるぞ!」
ロイドに人間の言葉は判らない。ただ意図は察せた。唸る。こっちだ、俺の方を向け。思惑通り、バケーロの注意はロイドに引きつけられた。じわりと発散される汗の匂いから、人間達の緊張と恐怖が読み取れる。
アルタの足音が遠ざかっていく。
ロイドは地面に枯れ枝を見つけ、咥えた。地面にがりがりと、溝を穿つ。そして首を振り。棒切れをバケーロ達の方へ放り投げる。
「な……何してんだ、こいつ……?」
人間達は知らない。
草原の狼達は知っている。
カランポ―のはぐれ狼の引いた一線を越えて、無事で済む者はいないことを。




