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49.クストーデ、春の香りの導き

挿絵(By みてみん)

【“カランポーのはぐれ狼(7/11話)】

 どやどやと人間達が迫って来て、ようやくアルタの硬直が解けた。失われていた現実感が、殴りつけるように戻ってきた。頭のてっぺんから尻尾の先まで、総身の毛が恐怖に逆立った。再び気が遠くなりかけるのを、必死に踏み止まる。

(に……げないと……)

本当に死ぬ、初めてそう思った。全身の意思を振り絞らないと、足も動かない。アルタはもつれる足で、やっと逃げ出した。

「逃げるぞ、追え!」

背後からカウボーイ(バケーロ)達が叫んだ。


 アルタにとって不運だったのは、つい先日別の狼がこの牧場を襲っていたことだった。バケーロ達の、狼ども(リュコス)への怒りと用心は、まだほかほかと湯気を立てている。そのひとつが……

「あっ――……」

不自然に盛り上がった地面は踏むな。ロイドの教えが頭に(ひらめ)いた時には、既にアルタの足は真新しい土の掘り返し跡へと乗ろうとしていた。無理に避けようとして、横腹から倒れる。

 その弾みで閉じた虎ばさみの罠(ベアトラップ)の鉄の(あご)は、アルタの母親を奪ったようにがっちりとは噛みつけなかったが、右前足の先を少し持っていった。



 慌てて立ち上がる――……激痛。


 「キャン!」


 (カーネ)のような情けない悲鳴が漏れた。必死に動くも、地面に足が着く度、痛みは繰り返される。脚は更にもつれる。やっとの思いで柵へと辿り着き、隙間に体を押し込むが、入った時より確実に狭くなった気がする。


 それでもアルタは、牧場の外へと逃れ出た。



 だが、人間達は、まだ追いかけてきた。




 ***********************************


 いつもならカウボーイ(バケーロ)達は、狼が牧場の外へ追い払えばそれで良しとした。草原(カランポ―)を駆ける、或いは(シルワ)に潜るリュコスに、追いつける道理がない。


 だが今夜の奴は罠で手負いで、しかも子どものようだった。実際のところリュコスを捕まえたところで、酒場(パブ)の武勇伝にしかならない。しかし、追いつけるかもしれない、そう思うと無闇に意気が上がる。前に家畜をやられて日も浅い。寝起きの勢い、自慢話で結構じゃないか。


 互いに気炎を吐く男達を、アルタの残す血の足跡が導いた。



 森に逃げ込んでも、人間の追跡は続いた。


 入り組んだ森は、夜に真の姿を見せる。そこは獣達の“世界(オルト)”だ。地の利は小柄で敏捷(びんしょう)なアルタにあったはずだが、傷ついた足では、思うように追跡者を引き離せなかった。いや、むしろ距離は縮まってきている。

 追跡者(カチャトーレ)は四人。手にしたランタンで夜の闇を押し戻しながら、靴音が近づいて来る。バケーロは時折立ち止まっては、地面を確かめる。彼らはリュコスほど鼻も夜目も利かない。だがその代わりに知恵を持つ。

 人間達に赤い目印を残すとともに、アルタの体力も少しずつ失われる。足取りは覚束(おぼつか)なく、何度も気が遠くなりかける。



 アルタの背後で、二度、破裂音がした。



 同時に頭の上で木の枝が()ぜた。ロイド(おじさん)から聞いたことがあった。それはおそらく猟銃(マスケット)というものだ。追っ手の二人が、猟銃を持ってきていた。(ろく)に狙いもつけずに(おど)しに撃ったが、撃った本人にも思いがけず、弾は標的の近くに飛んだ。

 アルタは立ち(すく)んだ。ここまで来た気力の糸がぷっつりと切れた。後方から荒っぽい歓声が迫って来るが、もうアルタは動くことができなかった。



 その時、前方の闇の中から、真っ黒な塊が飛び出して来た。



 黒い塊はアルタの頭上を飛び越えると、バケーロ達との間に降り立った。塊は四肢を地面に張り、真っすぐに頭を上げた。

「大丈夫か、アルタ」




 ***********************************


 アルタがいないことに気づいて身を起こした時、ロイドが目を向けた先に、ひとつの人影があった。頭からすっぽり外套(がいとう)の黒頭巾を被ったそいつは、人間の娘の姿をしていたが、ロイドにはそれが人間でないとひと目で判った。

「……“お節介なクストーデ”、だったか?」

ロイドが問い掛けると、そいつはにやりと笑い、フードを背中に落とした。冬の空のような色の髪、夏の太陽のような色の目、秋の木々のような色の肌をした娘がにっと笑うと、(とが)った糸切り歯が覗く。


 春の花のような匂いが、ロイドの鼻をくすぐった。

 もしかすると娘は狼なのだろうか、とも思ったが、それも違うようだった。



 「また行くなと言いに来たのか?」

 「るああ……」

 「行かないと後悔するんだろう?」



 そう言うと、監視人(クストーデ)は一瞬、泣き笑いのような顔になった。いつだったか、この娘がこんな顔をして、手や顔を舐めてやった記憶があるような気がした。

「……るああ。ついて来な」

クストーデが身を(ひるが)した。ロイドが追った。


 深黒の森の中を、娘は恐ろしい速さで駆け抜けた。全力疾走のロイドでさえ、ついていくのがやっとだった。やがて見失ったか、クストーデは姿を消した。だが慌てる必要はなかった。



 春の花(フラール)の香りが、ロイドを導いた。




 ***********************************


 アルタは知っていた。


 自分の母親は、たぶんもういない。あの時あのままだったら、自分もたぶんもういない。

「おじさん……!」

死の迫るアルタの前に、はぐれ狼が現れたのは二度目のことだった。


 (なーふ。本当に二度目(そう)か――……?)



 こんな記憶があった。


 それはまるで “別の世界”(アルタ・オルト)のことのようで、自分も“別の(アルタ)アルタ”だったような気がする。その“別のアルタ”は、二本の足だけで立っていたような気がする。


 そう、ちょうど人間のように。


 “別のアルタ”は、大きなリュコス(カーネ?)と暮らしていたような気がする。大きなカーネ(リュコス?)は、いつも“別のアルタ”の傍にいた。

 あの日、あの時、街道で、あの車輪のついた巨大な鉄の塊が“警告の緋色”を無視して目の前に迫った時も――


 その(カーネ)は……“ペレ”は傍にいて……



 “別のアルタ”を守ってくれた、そんな記憶があった――……




 ***********************************


 今度は人間達が立ち(すく)む番だった。

「雄だ。デカいぞ」

猟銃(マスケット)を二丁とも撃ってしまったことを後悔する。突如茂みから飛び出して立ち(ふさ)がった狼は、並外れた体躯(たいく)をした雄だった。遊び半分追いかけていた仔狼(エント)とは訳が違う。バケーロ達は弾を込め直そうと焦った。



 その様子を(にら)んだまま、ロイドは背後のアルタに吠えた。

「行け、アルタ。行って生き延びろ」


 その声を聞いた瞬間、アルタは地面を蹴っていた。頭で考える前に、体が動いていた。それははぐれ狼(ロイド)の声に狼王ロボと同じ、群れを率いる王の血統が流れていたからかもしれない。

「あっ、ちっこいのが逃げるぞ!」

ロイドに人間の言葉は判らない。ただ意図は察せた。(うな)る。こっちだ、俺の方を向け。思惑通り、バケーロの注意はロイドに引きつけられた。じわりと発散される汗の匂いから、人間達の緊張と恐怖が読み取れる。


 アルタの足音が遠ざかっていく。



 ロイドは地面に枯れ枝を見つけ、(くわ)えた。地面にがりがりと、溝を穿(うが)つ。そして首を振り。棒切れをバケーロ達の方へ放り投げる。

「な……何してんだ、こいつ……?」


 人間達は知らない。

 草原の狼(リュコス)達は知っている。



 カランポ―のはぐれ狼の引いた一線を越えて、無事で済む者はいないことを。




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