48.アルタ、真夜中の冒険
こうしてロイドとアルタは数か月を過ごした。アルタは人間でいうなら少年と呼べるくらいに成長していた。
はぐれ狼と出会った頃と比べて、随分と逞しくなった。おじさんからたくさんのことを教わったし、自分のことはもう大抵自分でできた。餌だって与えられるばかりではない。練習を重ねて、狩りの腕前も上がってきた。
しかし今日は……
ぱき……踏み出した脚が小枝を踏んだ。
「あっ!」
獲物に夢中で、足元がお留守だった。立てた音は小さい。が、野兎の耳は天然の集音器だ。自棄になって飛び出したものの、狩りの成否は足の速さではなく、自分の射程距離まで獲物に近づけるかで決まる。その外からどれだけ駆けても、追いつくことは出来ないものだ。
「はあ、はあ……ちくしょう」
左耳にぎざぎざの傷跡を持つコネホは悠々と跳ねていき、未熟な狩人はいたずらに体力を消耗しただけだった。
「……なかなか良くなってきたが……」
背後の茂みから、おじさんがのそりと姿を現した。
「まだ少々詰めが甘いな。だが、筋は悪くない」
ロイドはロイドなりに褒めたつもりでいたのだが、いかんせん言葉足らずでぶっきらぼうなはぐれ狼。アルタは叱られたと思って、
「ちぇっ」
そっぽを向いて尖った口をなお尖らせた。
小僧とおじさんはなだらかな丘の上にいた。
見渡せば遠く、小さな牧場がある。
「あそこからなら、簡単に取れるんだけどな」
「いかんぞ」
アルタの悔し紛れの呟きに、ロイドは眉も動かさず言った。
「何度も言ったはずだ。家畜には手を出すな」
「他の狼はやってるじゃないか、おじさん」
アルタは膨れっ面をする。
「そりゃ、僕じゃ牛や羊は取れないよ? けど、鶏くらいだったら――」
「アルタ」
ロイドは大きくため息をついた。
「取れる取れないの話じゃないんだ」
「狩りってのはな、そういつも上手くいくもんじゃない。いかなくていいんだ。大人の俺でも、しくじる方が多いんだからな。いいか、チッコ? 狩りは“腹が減って動けなくなる前”に一匹獲れればそれでいいんだ。だが家畜を獲るのは違う」
「確かに取るのは簡単だ。逃げられんからな。その代わり一度しくじれば死ぬ。家畜を獲る時相手にするのは牛や羊じゃない、人間だ」
ロイドがアルタを正面から見据えた。アルタはぎくりとする。
「人間には近づくな。リュコスは、人間には勝てない」
おじさんはアルタを怒鳴ることはないし、滅多に吠えたり唸ったりもしない。けれどどんな怖そうな狼も、おじさんと遭うと目を伏せて道を開ける。おじさんの一瞥を浴びると、理由が理解る。ただ……
「そんなに、人間が怖いの?」
それほどのロイドおじさんが、これほどに人間を恐れるのが腑に落ちない。おじさんなら牛でも羊でも、好きなだけ持って来られそうなものを。
むしろ人間が怖れるべきではないのか?
ロイドは遠く、人間の世界を望んで目を細めた。
「怖いよ。俺の知る最も強かった狼も、最期は人に敗れて死んだんだ」
目を細めたおじさんは、どこか農場より遠いところを見ているようだった。自分がここにいることを忘れられているようで、アルタが声を掛けられずにいると、
「……生き延びることだ。どうしたって、死んだら負けだよ」
おじさんはそう呟いた。それからアルタに目を戻す。
「いいな、坊主。人間には関わるなよ」
「……わかった」
「よし」
ロイドは頷くと、にやりと笑った。
「じゃあ、大将。腹が減って死ぬ前に、何か食いに行くか。ついて来い」
「うん!」
駆けだしたロイドを、アルタが追った。遠ざかっていく二匹の略奪者達を、ギザ耳の兎が迷惑そうな顔をして見送った。
大人はこれで釘を刺したと思っていた。
だが、子どもは……
そう、アルタは子どもだった。ロイドの訓戒を、狩りの失敗を叱っているのだ、と考えた。アルタは子供らしい単純さで、狩りが下手だから家畜を獲ることが出来ないと思われていると、人間から家畜を獲ってくればおじさんが自分を見直してくれると考えた。
アルタはロイドに褒めて欲しかった。
大好きなおじさんに、もう立派な大人だと認めて欲しかった。
その夜アルタは、ロイドが眠るのを待って、そっとその傍を離れた。
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気持ちのいい風の吹く夜だった。
真夜中の森をすり抜けて、アルタは意気揚々と、尻尾を立てて行く。それはわくわくする冒険、アルタは全能であり、世界の王様だった。しくじるなどと、まして死ぬかもしれないなどとは、胸に過りもしない。
アルタは、子どもだった。
大人の狼なら、羊の喉笛に喰らいついて、声を上げる前に噛み殺すこともできるだろうが、子どもにはまだ無理な芸当だ。けれど、鶏くらいなら。
牛や羊の大物は今後の課題にするとして、今夜は鶏小屋に忍び込む。眠りこけている奴の首をひとつ捻って、異変に気づいた鶏が騒ぎ出しても、人間達が起きてくる頃にはとっくにおさらばだ。難しいことはない。
森の天幕から満天の星の下へ、アルタは牧場へと向かっていた。銀色に輝く夜を歩いていった。
牧場を囲った柵も、体の小さなアルタには難なくすり抜けられた。辺りを伺う。虫の音、風の声。星の瞬く音さえ聞こえそうな、静かな夜だった。今起きて動いているのは、アルタだけだ。
冒険に胸躍らせながら、密やかに、素早く夜陰を駆け抜ける。獲物の匂いを探って、一直線に。目指す鶏小屋は、幸運がアルタに味方したか、木戸が少し空いたままになっていた。僕は何て運がいいんだろう――……
大人の狼なら、不審に思ったかもしれない。狼の徘徊する夜、略奪者の時間に、用心深い人間が家畜小屋の戸締りを疎かにするだろうか、と。しかしアルタは幼く、未熟で、浮かれていた。
アルタは、子どもだったのだ。
扉を頭で押し開けた、と同時に、内側に立てかけてあった薪に気づいたが、もはや手遅れだった。薪とブリキ缶の単純な仕掛け、その不協和音に度肝を抜かれ、時ならぬ雄鶏達の鬨の声に棒立ちになる。僅かな躊躇がひとつふたつと積み重なって、致命的な遅れを生んだ。
母屋の灯りが点いた。蹴破らんばかりの勢いで、扉が開け放たれた。
「狼かあ! こんちくしょう!」
怒鳴り声が響いた。棍棒、農具、猟銃。手に手に得物を携え、カウボーイ達が飛び出した。
「いたぞ!」
角灯を掲げた一人が、鶏小屋の前の影を見つけ、仲間に指差して怒鳴ってもまだ、アルタは自失して身動きもできずにいた。
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夜半にふと目を覚ましたロイドは、アルタがいないことに気づいた。その辺りの茂みに用足しにでもいったか。
目を閉じかけたロイドはふと、昼に小言をした時の、アルタの不服顔を思い出した。ロイドは耳を立てた。
「アルタ?」
周囲の闇に呼び掛けてみた。返事はなかった。
はぐれ狼は、闇の中でむくりと身を起こした。