47.アルタ、もうひとつの名前
何にもなれない気がした。
狼王が死んでから、はぐれ狼は生きるためだけに生きた。ただ走り、ただ戦い、目の前にあるひとつだけを見た。考えると、虚しさに食われそうな気がした。ロイドは頭も胸も空っぽに生きた。
結局、生き延びたのは群れを捨てた自分だった。
群れがどうなったか、はっきりとは知らないが、ボスを失っては長くはあるまい。あの老獪な、人間には“黄色い狼”と呼ばれていたパイロさえ、毒餌で呆気なく命を落としたと聞く。
ロボとの最後の夜、どうにかしていれば、違う今があっただろうか。
そんな問いが忍び寄れば、ロイドは振り切るため駆け足を速めた。希望はなく、絶望は殺して、ただ生きる。明日は望まず、昨日は忘れて、今日を終える。どこへ向かうでもなく走り続けて、数年が過ぎた。
(なりたいものになれるといいな――……)
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ある日。
ロイドは罠に掛かった雌狼の死骸を見つけた。人と狼の“世界”の、境界線の辺りでのことだ。
ロイドは立ち止まり、野晒しの死体を見下ろした、若い雌だ。痩せていて、毛艶が悪い。右前足をがっちり虎ばさみに挟まれている。相当もがいたのだろう。牙が根元から折れ、罠が肉を裂いて骨が覗いていた。
気の毒に思ったが、ロイドにしてやれることはなかった。
彼女はとうに死んでいる。
至るところに、死が転がっていた。死は自然の摂理なのかもしれないが、人間が関わると、どうも不自然になるように感じた。言い様のない虚しさが、また背後から追って来る気配を感じて、ロイドは足早に立ち去った。
しばらく歩いた。
通りかかった茂みから、かさり、物音に耳を立てる。兎か野鼠か、何の気なしに匂いを嗅いで、ロイドは嫌な顔をした。そのまま行き過ぎようとして、足を止め、逡巡の末に渋々後戻りする。背の高い草を掻き分けると、小さく開けた砂地があって――
狼の仔がいた。
ロイドの嗅いだのは仔狼の匂いだった。ロイドは空き地に歩み出ると、周囲を窺う。大人の狼が近くにいる気配はない。自分のようなはぐれ狼の仔だろうか。仔狼は、突然現れた見知らぬ大人に、驚いて後退りした。
「だ、だれ?」
「ただの通りすがりだ」
ロイドは目を細めて、その仔の子細を観察した。
「坊や、お母さんはどうした?」
幼い仔狼だ。薄汚れ、腹を空かしている。あまり世話をされていないようだ。母親のものだろう、雌の匂いがあったが古く、数日は経ったものだ。
「お、おかあさんはエサをとりに……ぼくにここでまってなさいって……」
「……!」
ロイドの頭の中で、愉快ではない線が繋がった。これほど幼い仔を、幾日も放っておく狼の母親はいない。もしかすると、この仔の母親は……
あの罠に掛かっていた雌か。ここに残る匂いと、あの死骸の匂い。
たぶん、おそらく。だが、しかし……
俺にどうしろというのか。
あの雌の仔なら、置いて去れば、間違いなく死ぬ。だが、俺にどうしろと。
「おなかすいたよう」
心細い数日だったのだろう。幼い仔狼は、見ず知らずのロイドに向かって縋るように鼻を鳴らした。ロイドは仔狼を見下ろして、静かに口を開いた。
「泣いていても、誰も餌を持ってきてはくれんぞ」
「えっ」
ぽかんとした仔狼に、ロイドはゆっくりと歩み寄った。
「坊主、お前のような小さな仔を、何日も放っておく親はいない。もしお前のお母さんが長いこと戻って来ないなら、何か戻って来られない理由があるのだろう」
「おかあさん、どうしたの?」
「さあな」
ロイドは空に目を逸らした。
「俺が知る訳もない。だがな、チッコ。お前の世話をしてくれるのは母親だけだ。泣いていても誰も助けてはくれない。俺はただの通りすがりだ。餌をくれてやる義理はない」
「う……うう……」
かつて群れを捨てたことを、悔いているのか。今この仔を見捨てたら、悔いるのか。問いかけても、誰も答えはしない。
「……俺と来るか?」
「餌を持ってきてはやらんが、餌の獲り方なら教えてやろう」
仔狼は驚いて、見知らぬおじさんの顔を見た。見知らぬおじさんは優しそうではなく、怖そうでもなく、じっと自分を見つめていた。
「でも、マテルはここでまってなさいって」
「そうだな。だがお前が腹を空かして死ぬ前に、お母さんが戻って来られるかは判らんぞ」
「あうう……」
と、それまでむっつりした顔だったおじさんが、ほんの少し、笑った。
「生きていれば、また会えるかもしれんさ」
少し笑った見知らぬおじさんは、とても、とても寂しそうだった。大きくて、強そうな大人の狼がどうして寂しそうな顔をするのか、笑ったのにどうして寂しそうに見えるのか、仔狼には判らなかった。
「ぼく……おじさんといく」
「そうか」
ロイドは頷いた。悔いているのか、悔いるのか。問い掛けても答えはない。だからロイドは、自分自身で答えを決めた。
群れを捨てた自分なのに、この仔を見捨てられないのか。群れを捨てた自分だから、この仔を見捨てられないのか。
問い掛けても、問い掛けても。
罪滅ぼしになるはずもない、そうとは知りつつも。
「小僧、お前、名は何という?」
「ぼくは、アルタ……」
その日、二匹はロイドの獲ったカオリンチュを分け合って食べた。兎よりやや大きい、食いでのある獲物だったが、おじさんが口にしたのは少しだけだった。
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それからアルタの生活は一変した。
見知らぬ大人は、お母さんのように優しくはなかった。にこりともせず、甘えさせてもくれず、仏頂面でアルタの先を行った。
けれどもおじさんは、アルタを置いていくことはなかった。アルタが遅れると必ず振り返って、いつまでも黙って待っていた。アルタが追いつくと、おじさんはまた何も言わずに歩き出すのだった。
しばらくしてアルタは、おじさんに遅れずについて歩けるようになった。
ロイドの生活も一変した。
行き掛かり上アルタを拾ったはいいが、群れをはぐれ、独り者のロイドに、子どもの扱いが判るはずがない。大人の脚で歩けば、子どもはついて来られないと、アルタが遅れてようやく気づく。
不器用な狼は不愛想な顔で、驚き戸惑っていた。
だが、楽しい日々でもあった。
誰かを必要としたり、されたりしない生き方を選んできた。ふと夜中に目を覚ますと、脇腹にアルタが潜り込んで眠っていた。眠りながら誰かの体温を感じるのは、子どもの頃以来だった。それはいいものだった。
アルタは親から、生きるための知恵をまだ教わっていなかった。ロイドは自分の知識と技術を、一から教え込んでいった。危険の避け方。毛繕いの仕方。鼻と耳の使い方、牙と爪の使い方。狩りの仕方。狼として生きる上でのルール。
そして、人間という、関わってはならない生き物のこと。
ある日泥を浴びて体に付く虫を取ることを教えに、ロイドはアルタを谷間の小川に連れて行った。岸から水辺を覗き込んだアルタは、頭の重い子どものこと、そのまま落ちて泥地に沈んだ。あっとロイドが首を伸ばすと、目鼻の付いた泥団子がひょこんと顔を出す。ロイドは吹き出した。
「ふ……ふっはっはっはっ、お前、アルタ、その顔……はははは……」
ロイドは笑った。笑って、ふと、自分が声を出して笑っていることに気づいた。笑い声を立てる、そんなの何年ぶりだろう。一匹で生きてきたロイドは、もう随分と笑うということをしていなかった。
笑うおじさんを初めて見て、呆気に取られたアルタも、
「えへ、へへへ……えいっ!」
釣られて笑って、身震いで思い切り泥を撒き散らす。
「こら、この馬鹿! ははは、わはははは……」
泥塗れのアルタに跳びつかれ、水溜りの中に転がして、そんな午後を過ごした。そう言えば、もうしばらく虚しさの追いかけてくる足音を聞いていなかった。
その夜ロイドはアルタに、かつていたある狼の話をした。
かつていた、自分の知る最も偉大だった狼の話を。




