46.ロボ、狼王もしくはベスティエ
ロイドとロボの間で、鋭い視線が交わされた。ロイドは兄の視線を受け止めて、少し姿勢を引く。
「やられた奴が随分と多いようだ」
「…………」
「厄介なことになってるんじゃないのか、兄貴?」
顔色を窺いながらそう問うと、ロボは殊更豪気を装った。
「はっはっ、お前に心配されるほど、このロボ衰えてはおらんぞ」
「ロボ」
ロイドは僅かに言葉に力を込めた。
「ちゃんと話してくれ」
ロボは空笑いを引っ込めた。
躊躇いがあって、やがて深々とため息をつく。
「確かに、お前が群れを離れてから二年、この辺りにも随分と人間が入ってきた。連中、狼を目の敵にしているからな。猟銃は向ける罠は仕掛ける。群れを率いる身としちゃ、頭の痛いことよ」
そこでロボは、さっきの笑顔とはがらりと変わって、凄惨な冷笑を浮かべた。
「悪いことばかりでもない。人間の囲いのせいで草原の獲物は減ったが、代わりに羊を馳走してくれる。平穏ではないが、腹はむしろ前より楽に膨れるよ」
ロイドは首を横に振った。
「よそを見てきた俺だから言うが、ロボ、家畜に手を出すのはよせ。根絶やしにされた群れを、俺は幾つも知っている」
「ふ、俺を誰だと思っている? カランポ―の魔物の二つ名は伊達ではないぞ」
「狼王ロボだから二年も持っているんだよ、兄貴。一度しくじってしまえばそれで最期の狩りなどと、正気の沙汰とは思えんぞ」
ロイドの言葉に、無意識にだろう、ロボの喉から短く威嚇の唸りが漏れた、ロボは苛立っている。
ロボはボスだ。議論を打ち切りたいと思えば、群れの誰かが相手なら、ただひと言「黙れ」と命じればいい。だがロイドは群れを出た。手下ではなく、ボスに従う謂われはない。黙れと言って、拒まれれば、次は牙を剥かねばならなくなる。
だがロイドも矛先収める訳にはいかない。ここで退くなら、最初から戻ってはいない。
ロボはロイドから顔を背け、崖下のカランポ―を遠望した。
「……理解ってはいる。お前に言われるまでもない。だが、考えた末のことだ。獲物の数は、お前の知る頃より随分と減った。家畜を獲らんと群れの腹は満たせんのだ。それとも、お前、よその土地に移れとでもいう気か?」
「…………」
「……先祖代々の土地を捨てろと?」
冗談に紛らせんとしたロボだったが、ロイドの無言の肯定に、顔を顰めた。
「そもそも、どこへ行く? 棲み良い土地は誰かの縄張りだ。空いた土地は、住めぬから空いておるのだ。それにどうやって群れの口を養う? よその群れの縄張りを犯すか? 人間との争いを避けて、狼と争ってどうすると言うのだ」
群れ……群れか。あんたはいつもそう言うが――
賢明で、偉大な狼王ロボが、“その選択肢”に思い至ってないはずはない。背中を押すのが、俺の役目だ。ロイドは疑いもしていなかった。だから迷わず、こう口にした。
「兄貴と、ブランカの二匹でなら」
ロボはきょとんとし、やがて愕然とする。その様子を、ロイドは見過ごした。孤独の狼は他者の心に疎かった。己と兄の間に入る亀裂に気づいていない。ロボは絶句していたが、やっとのことで言葉を継いだ。
「な、何を言う。二匹、俺とブランカ、二匹で逃げろと言うのか……群れを見捨てて? ばかな……」
ロイドは、ロボの心に気づかない。
「群れを抱えて、共倒れては元も子もない。散り散りになっても、生き延びる奴は生き延びるさ。背負い込み過ぎなんだ、兄貴は。二匹だったらどうとでもなる」
「やめろ、ロイド」
「な、兄貴と姉さん、新しい場所で仔だってできるだろう。生きてさえいれば、いつか新しい群れだって……」
そこでやっと、ロイドはロボの顔色、表情に目を留めた。
「……?」
ロイドがロボの怒りに気づくと、同時に、ロボが吼えた。
「群れを捨てられるか! 俺は、お前とは違う!」
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ロボははっと我に返り、口を噤んだ。言ってはならない言葉が、口にされた。ロボにとっても、ロイドにとっても。ロボは狼狽えた。
「す、すまん。ロイド、今のは言い過ぎた……」
「いや、いいんだ」
ロイドは静かに兄の弁解を遮った。
平静ではなかった。ただロボよりほんの少し、本心を押し殺すことに慣れているだけだ。それでも口調が早くなる。
「今のは俺が悪かった」
言ってはならない言葉を――……
「出過ぎたことを言ったよ。あんたは群れのボスだ。群れを守る立場だ、強い言葉も出るだろう。怒るのも尤もさ、兄貴。俺は大丈夫だ」
……――先に口にしたのは自分だ。
群れの統率者として、自分のいない二年を戦い抜いてきたロボに、それは決して言ってはならないことだったのだ。
「……そう言って貰えると、救われる」
ロボはほっとした顔をし、ロイドは軽く頭突きをくれた。
そして二匹とも笑った。
しかし、二匹とも知っていた。
二匹の間で、今、決定的な何かが壊れたことを。
それはもう二度と、取り返しのつかない何かであることを。
それから半刻、ロボとロイドは並んで、ただ黙って故郷の草原を眺めていた。兄弟の間にできた溝は、もう埋まることはないだろう。
はぐれ狼は群れを犠牲にしても、誰か一匹でも生き残る道を探す。
狼王は誰か一匹を犠牲にするなら、群れで滅びる道を選ぶ。
どちらが正しく、どちらが間違っているということではなくて、ただ歩く道が違った。だから、ここが最後の交差点、ここで別れるのだ。それぞれに引く一線、互いに踏み越えることは許されない。
その半刻は、ロイドにとってもロボにとっても、忘れ難い時間だった。
やがて、それも過ぎた。兄弟は決別の時を迎える。
「行くよ」
「そうか」
兄の横顔が寂しげに見えたのは、自分の心中を投影しただけか。
ロボはロイドを引き留めることはしなかった。ボスとして、己に意を唱える者を群れに置くことはできない。ただ、せめて――
「ブランカに……群れのみなに会っていかないか?」
兄として、できるせめての気遣いだったが、弟は首を振った。
「よそう。里心が湧いても困る」
群れを捨てた身だ、蟠りを抱く者もいるだろう。会いたい思いに止め、ささやかな郷愁を残すが花。あえて散らさずともいいのだ。
「そうだな。兄貴から、俺が群れを気に掛けて顔を見せたと、みんなに言っておいてくれ。あれでなかなかいいところがあると、俺の株も上がるだろう」
「ははは、判った。そうしよう」
ロイドがにやっと片目を瞑り、ロボが笑って、そして沈黙が降りた。
草原から吹く風に、ロイドは顔を上げ、目を細めた。もう二度と嗅ぐことのない匂い、見納めの風景。その全てに、ロイドは再び背を向ける。
「狼王ロボが健在ならば、群れは安泰。どうやら要らぬ心配だったようだ」
もう振り返ることはない。
「兄さん、あまり無理をなさらないように」
「ああ。お前も体には気をつけてな」
ありきたりな挨拶を交わして、約束を交わすことはなく、ロイドは足を踏み出した。孤高へ。孤独へ。ロイドは振り返らずに足を止めた。
「済まなかった。俺はただ、兄貴とブランカに生き延びて欲しかったんだ」
「生き延びるさ。群れのみんなと一緒にな」
ロイドは微笑んだ。理解り合えたと、そんな幻想を抱えて行こう。
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今夜は旅立ちに白い花はなく、それでも風は気持ちよく吹いた。月明かりに浮かぶ獣道を、辿るロイドは――
先を行く、一匹の狼の背を見た。
若く、根拠のない自信に満ちた足取りの、そいつの顔はロイドには見えない。
ああ……お前はどこにいくのだ。何になろうとしているのだ。
お前は――……遠い過去は、振り返ると少し笑って、消えた。
遥かから、遠吠えが風に乗って届いた。
ロイドは立ち止まった。
遠吠えは長く長く尾を曳いて、夜空に消えてもう一度。
猛々しく誇り高き狼王の咆哮は、惜別か、慟哭か。ロイドもまた、胸に込み上げる叫びを迸らせた。
言葉にできない思い。流せない涙。互いの姿は見えないまま、二匹は月に向かって交互に吼えた。きっと、理解り合えたと思った。
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鬱蒼とした夜の森、並んだ黒い木立のひとつ、その枝に腰掛けて、遠吠えをする狼達を見下ろす人影があった。頭からすっぽり被った外套の黒頭巾の奥から、赤い色をした瞳が覗いている。
「なーふ。バカだなあ。本当にバカだよなあ」
どこか寂しそうにそう呟くと、
「……うー、わんわんわん」
人影は枝からひょいと飛び降りた。が、地面に降り立った者はなかった。
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こうしてロイドはまた、はぐれ狼に戻った。
ロボが死んだと、風の噂で聞いた。




