44.ブランカ、ただそこに咲く花
気持ちのいい風の吹く夜だった。
ロイドは月明かりの下、家族や仲間や故郷、絆とも、鎖とも呼べるもの全てに背を向けて、独り、足を進めた。感傷はあったが、吹っ切れたような高揚もあった。
しばらくして、ロイドは追い縋る足音を耳にした。
歩調を緩めると、ほどなくして背後の夜から、白い影が浮かび上がった。
「……本当に行くつもりなの、ロイド?」
夏草の香りのする吐息が囁いた。
ブランカ、白き雌狼。美しい花のような女。
ロイドに心残りがあるとすれば、それは彼女のことだった。
その淡く密かな想いを、初恋だったと呼べば、赦されるだろうか。それは花だと気づいた日から既に、兄のものだった。
「ああ、たぶん、こうするのが一番なのさ。俺にとっても、群れにとっても」
そしてロボにとっても、ブランカにとっても、たぶん。
足を止めたロイドの行く手を、ブランカが遮るように回り込んだ。
「ロボが寂しがるわ。口にする狼じゃないけど」
「あんたは寂しがってくれないのかい?」
「もちろん寂しいわ」
ブランカの答えに、ロイドは微笑した。
ブランカの目は、旅立つ一匹の雄ではなく、家出をする弟を見ている。
自分が大人になるよりずっと前から、大人だったブランカ。
「姉さん」
ロイドは呼び方を変えた。兄の妻であるだけではなく、ロイド自身が実の姉とも思って育ってきた。恋ではなく憧れだったのかもしれない。今はそうも思う。
「兄貴は背負い込み過ぎる。強情で不器用な男だ。あれが無理をしないように、傍にいて、時々叱ってやってくれ」
ブランカが鼻先を、ロイドの頬に摺り寄せた。
「あなたが、そうしてくれればいいのに」
「俺も不器用なのさ」
白い狼は身を引いて、泣き笑いのような顔をした。
「器用な雄なんて、見たことがないわよ」
そうかもしれない。だからロイドは、彼女に背を向けることしかできなかった。
ロイドは知っていた。
ブランカは美しい花。ただ美しいだけの花。王の傍らに咲き、ただ愛でられるだけだ。ブランカは、ロボの助けにはならない。ロボには助けになる“誰か”が必要だったが、その“誰か”になるのは御免だった。
「達者でな、姉さん」
「いつでも戻ってね、ロイド。私もロボも、あなたを待っているわ」
ロイドは微かに首を揺すった。横に振ったようでもあり、そうと望めば頷いたようにも見えたかもしれない。たぶん二度と戻らない。あえて告げることもない。
ロボの“誰か”は、ロボがいなければ、“誰でもない”のだろうか?
遥かから、遠吠えが聞こえた。
月が雲に隠れた。ブランカに背を向けたロイドは、また足を踏み出した。振り返ることはしないでおこう、そう決めたのだが――……
***********************************
「待ちなよ、ロイド」
「……?」
呼び止めたブランカの声音に違和感を覚え、思わず立ち止まった。
「忠告する。“行く”と後悔するよ」
いつもの甘ったるい口調とは違い、雄のような話し方をする。訝しく思って振り返ると――ちょうど雲間から再び月が覗いた。
月明かりの加減だろうか。今のブランカの目は赤い光を帯びていて、純白の毛並みにも僅かに白銀が混じるように見える。
「……お前は、誰だ?」
「いひひ……アタシはお節介な“クストーデ”さ」
ロイドが誰何すると、そう答えが返った。すると彼女はブランカではないのか。不思議だったが、ロイドはこういうこともあるのか、と思った。現にあるのだから、あるのだろう。
クストーデとやらの声には、微かに聞き覚えがあった。ロイドはブランカの顔をした、白銀の狼の目を覗き込んだ。
「行くなと言うのか?」
「るああ。“行く”ときっと後悔する、と言っているのさ」
ロイドは少し考えて、こう訊いた。
「行かなければ、行かなかったことが、後悔になるんじゃないか?」
クストーデは不意を突かれたような顔をしたが、
「いひひ……違えねえ」
白い牙を剥き出して、にっと笑った。
「行くのかい?」
「ああ」
「そうかい……」
「お前のなりたいものになれるといいな――……」
その言葉も、いつかどこかで聞いたことがある気がした。
***********************************
ブランカが夢から覚めるように我に返ると、既に弟の姿はなかった。それでも去ったであろう先を見送っていると、傍らの暗がりから染み出すように――
「行ってしまわれましたな」
一匹の狼が姿を現した。ロボの手下の、老練な雄。“黄色い狼”、人間達からはそう呼ばれている。仲間内では、パイロの名で通っている。
「あの方にはあの方の、考えがおありなのでしょうな」
黄色い狼は阿るように囁いたが、ブランカは答えなかった。
黄色い狼は一瞬不快そうな表情を浮かべたが――
巧みに押し隠す。
「奥方、元気を出してくだせえ。おう、そうだ」
あたかも、ふと思いついたように。
「ここはひとつ、気晴らしにぱっと面白い“遊び”でもしやせんか?」
「“遊び”……?」
僅かに気をそそられたブランカに、黄色い狼は愛想を浮かべた。
「いやね、テリトリーの外れんとこに、近頃できたでしょう、人間様の牧場が。どうです? あすこに行って、手当たり次第に羊を噛み殺してやるってえのは」
黄色い狼の提案に、ブランカは小首を傾げた。
「……そうね。少しは気分が晴れるかもしれない」
「おっと、でしたら善は急げでさあ」
そう言って身を翻した黄色い狼は――
狡猾そうに、哂った――……
***********************************
ロイドははぐれ狼になった。
群れをはぐれたロイドを待っていたのは、争いの日々だった。
狼にとって、群れの外にあるものは獲物か敵かだ。それはリュコス同士でも例外ではなく、縄張りと食い扶持を争っては、むしろ最大の競争相手になる。
もっとも狼には狼の、群れには群れの掟がある。たいていの場合は威嚇と牽制で手打ちとなり、本格的な争いに発展することは稀だ。やり合えばお互い只では済まない。餌を惜しんで命を落としては本末転倒だ。
だが、群れをはぐれたリュコスは、しばしば掟も踏み荒らす。
踏み越えなければ生き抜けない。はぐれ狼は、群ればかりか、狼の社会の外にいる。個人主義のアウトローなのだ。故にはぐれ狼は、よその群れから徹底的に標的にされ、排斥される。
ロイドは群れからははぐれたが、リュコスの掟の内には踏み止まった。
よその群れには近づかず、極力接触を避けた。不用意に他者の縄張りを侵すことはせず、通り抜けるなら礼を尽くした。引ける争いなら自分が引いた。ロイドは自分が招かれざる者だと弁えていた。流浪する狼は静かに暮らしたいだけだった。
だが、臆病ではなかった。
自ら引いた一線を越えられた時、彼は容赦をしなかった。
いたずらに牙を剥くなら無法者だ。剥く牙がないなら臆病者だ。
そして隠された牙を侮るなら、それは愚か者だ。
ロイドの前で愚かだった者は、誰もが後悔の砂を噛んだ。避けて、譲ってなお牙を剥かれれば、全てへし折った。若い狼の一匹や二匹が、どうにかできる雄ではなかった。ロイドの怒りに触れ、殺された者はなかったが、己の脚で帰れた者もまたなかった。
避けても、逃げても、噛み潰しても、愚か者は後から湧いた。
ロイドは血に塗れてカランポ―を走り続けた。
果てしない闘争の日々の果てに、やがて、ロイドの行く道からはみなが退くようになった。もはやロイドの一線を越える者はなかった。
ロイドは王になった。独りきりの狼王になった。
草原を行くロイドに、カランポ―の狼達は孤高を見た。
ロイドの目には、孤独しか見えなかった。
ロイドは言葉通りの意味で、一匹狼だった。




