43.ロイド、生まれ変わったカーネ
吾輩は犬……だった。名前はもうない。
何だか明るい温かなところで、ワンワン吼えていたことだけは記憶している。
それと何だか、とても誇らしい気持ちを――
それとなぜだか、とても悲しい気持ちも――
「Raa? 珍しいなあ、犬だよ」
犬が珍しい? おかしなことを言う。誰かは笑いながら、吾輩の頭を馴れ馴れしく撫でた。無礼な。
誰かは人間の女だ。ちょうど、吾輩のご主人のあの子と同じくらいの大きさだから、まだ子どもだろう。とうに成犬である吾輩を、断りもなく撫で回すとは実に礼儀を弁えぬ……うむ、そこそこ……その耳の後ろが……
うー、わんわんわん!
「いひひ。お前、カワイイなあ」
うむ。実に勘所を心得た娘だ。すっかり誑かされてしまった。
ところでここはどこで、この娘は誰だろう?
娘は冬のような色の髪と、秋のような色の肌と、夏のような色の目をしておる。春の色を探したが、見つからぬ。どこか春のような匂いがするようにも思う。
ご主人のあの子とはあまり似ておらぬ色をした娘であるが、この吾輩とて同じ犬でも、隣のエリザベスや三丁目の角のジョージとは似ておらぬ。犬を犬種や毛の色で差別するのは、立派な犬のすることではない。
ちなみに吾輩は、ミックスという犬種であるそうだ。
「それにしても、人間以外が異世界転生してくること、あんまりないからなー。お前、なにか希望はあるかい?」
オルト……? 四季のような娘は、吾輩の顎をくすぐりながら、よく理解らないことを言う。しかしながら、この娘の言うことは不思議とご主人のあの子の言葉より理解りやすい気がする。初めて会ったというのに。
そうか。この娘は犬の言葉を喋れるのだ。たいしたものである。
「Oops。どうした、何か望みはないのかい?」
望み? 望みとはどういうことだろうか?
「るああ。お前はねえ、これからお前の望む世界に行くことができるんだよ。お前はそこで人間になることだってできるんだぜ。こう見えてアタシは犬が好きなんだよ。お前の願いだったら、特別にサービスしてあげちゃうぜ?」
よく理解らないが、吾輩は少し考えてこう答えた。
お肉が食べたい……あっ。
あの子のところに帰りたい。
吾輩がそういった途端。
その娘から、とても大きな悲しい気持ちが、溢れ出した。
吾輩は慌てて、娘の手を、頬を、口元を舐めた。
「……いひひ、くすぐってーよ」
吾輩は何か娘を悲しませることを言っただろうか。
「るああ。そうじゃないよ、犬。残念だがお前を元の場所に戻してやることは出来ないんだ、それでな」
そうか。良かった。
「良くはねーだろ、犬」
そうか? そう言えば良くはないな。残念だ。
「……動物はいいな、人間みてーに余計なことばっか考えなくてさ。それでだ、戻ることはできねーが、行き先はそれなりに選べる。お前は何処へ行って、何になりたい?」
なるほど、犬と橇は前進あるのみと、駅前の喫茶店のジローも言っておったな。
何になりたい……そうだな、吾輩は“ロボ”になりたい。
「うーぷす。ロボ? それって、犬、ロボットになりたいってことかい?」
うむ、それだな。
前の夏だった。カンソーブンとやらを書くために本を読んでおったあの子が、狼の王様ロボットのように強くなれ、と吾輩に言ってな。何でも狼というのは大きくて強い犬なのだそうだ。その王様なのだからたいそう大きくて強いに違いない。あの子はロボットも好きだったから間違いない。
「Narf。そりゃ“狼王ロボ”だろ、シートン動物記の」
うむ。それだな。
吾輩はあの子のために“狼王ロボ”になりたい。
「そうか……るああ、判った。犬、お前を狼にしてやるよ」
それは嬉しい。
「けど、王様になれるかどうかはお前次第だぞ」
理解った。
「なーふ、大丈夫かよ。ま、行き先がどんな“世界”で、どんな“世界観”をしているか、行ってみなけりゃ判らねえ。そこで王様になるも良し、別になりたいものを見つけるも良し、何にもならなくたって良しだ」
良いのか。
「るああ、いいのさ。じゃあ、行ってきな。ようこそ、異世界へ、お前の良き異世界生活を祈ってるよ」
うむ、では行ってくる。
「なりたいものになれるといいな」
うー、わんわんわん!
「うー、わんわんわん!」
こうして吾輩は春のような夏のような秋のような冬のような娘に別れを告げ、異世界とやらに行くことになった。
そして吾輩は、娘のこともあの子のことも、本当に何もかも忘れてしまったのだった――……
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……――生まれ変わった犬は言葉通りの意味で、一匹狼だった。
個人主義の無法者という意味ではなく、ロイドは、正真正銘イヌ科の肉食動物であるところの狼だった。王都カルーシアから遠く離れた、王国領の南の果て。ロイドはカランポ―と呼ばれる地方の、草原を縄張りにする小さな群れの王様の仔に生まれた。
ロイドには、齢の離れたロボという兄がいた。
ロボは大きく、強く、賢く、気高かった。公正にして公平、厳しくあり、群れのためならその命も惜しまない覚悟もあった。ロボは統率者の理想を備えた、生まれながらの王様だった。
ロイドは思う。
生まれながらの王が、生まれた時から前にいるなら、自分は何になればいい?
道化か?
逆賊か?
ロイドは考える。自分は何になりたいのだろう? どこへ行きたいのだろう?
(なりたいものになれるといいな――……)
二匹の父が死んだ時、ロイドは群れを離れる決心をした。選びたくない道を、選んでしまわないように。兄を敬愛していた。崇拝してはいなかった。王の場所を望んではいなかった。服従する気もなかった。
ロボはロイドにとって、敬して遠ざけるべき異教の神だった。
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しかし王は、ロイドが離反すると聞いて、怒り狂った。
ロイドが群れを出ると言った途端、頭ごなしの怒鳴り声が返ってきた。
「バカなことを! お前、いったい何を考えているんだ?」
「まあ、話を聞いてくれ、兄貴。俺は俺で、よくよく考えてのことだ」
ロイドの方もカチンときたが、努めて平静な顔を繕う。ロボは耳を貸そうともせず、牙を剥いて唸る。
「ロイド、お前は仮にも俺の弟、長の一族だ。群れに対する責任というものがあろう。それが言うに事欠いて、群れをほっぽり出したいとは何事だ!」
まさに噛みつかんばかり……あ、本当に噛みつきやがった、こいつ。
確かに兄は、ボスという重責を背負っている。しかし、その重責の前ではこうも傲慢になれるものか。それとも、傲慢であるからこそ、王なのか。
違うんだ、兄貴。俺が群れをほっぽり出そうってんじゃない。群れにとって、後々の禍根となりかねない自分を、群れから取り除こうというんだ。
ロイドは自分の考えを、不器用な言葉の幾つかに託したが、上手く伝わらなかった。群れのボスとメンバーの口論は、やがて兄と弟の喧嘩となり、互いに声を荒げて、さんざん罵り合った挙句――……
「いい加減にしろ! ロイド、お前はボスである俺の手下だぞ」
そう言ったロボに――
「群れを出れば関係ない。兄貴、あんたは俺のボスじゃなくなる」
ロイドはそう返した。
群れの前で、こう言ってしまえば、もう取り返しはつかない。
「……――もういい。勝手にしろ」
ロボが吐き捨てたひと言に、争いは終止符を打った。
こうしてロイドは、群れをはぐれた。