42.ラコンテ・エンデ・ヴィ・フェリーシ~めでたし、めでたし~
俺は膝に乗せた幼女の、淡い銀色の髪を撫で、指で軽く漉いた。
「ご機嫌斜めだな?」
「なーふ。斜め30度だよ。何でアタシがこんな目に……」
テーブルから、上等な皮紙のチケットを取り、ひらひらさせる。
「それはお兄ちゃんが報酬に“ルシウちゃん一日お膝券”を“願った”からだぞ」
「判ってるわ、クソめ! 本当、マジ最悪だ、お前は」
肘でレバー打たれた。ティラトーレの鎖衣は返したから、ちゃんと痛い。
異世界監視人ルシウ・コトレットの依頼の報酬は、願いを三つ叶えてくれることだった。そのひとつ目が、これだ。
「うーぷす。もっと、こう、あるだろ? 無駄遣いにも程があるぞ……」
「旨い珈琲とお菓子、膝に可愛いルシウちゃん。これ以上何を望む?」
「何でも望めよ」
「あ。“お膝券”だから、俺が膝枕してもらうのもありか?」
「ねーわ。くたばれ」
はは、楽しい。これって結構、悪くない願いだと俺は思うよ。
“元の世界”だったら、もうちょい欲かいたかもなー。まあ、金とか?
けれど、カルーシアでは、それはただ興を削ぐことでしかない。俺はこの異世界で生きること、異世界生活を楽しんでんだから。だから、チートは使わない。あれはクセになるしな。
切り札に取っておく……も少し迷ったけど、同じ理由でヤメにした。
もしかすると、後悔するかもしれない。何か、届かなかった何かに、指が届くよう願いたい瞬間が、この道の先に……けれど、切り札があってしまうと、その瞬間はたぶん無限に増えるだろう。だったら俺は、その時はその時と、呑み込めるように歩いていこうと思う。
だから俺は、願いはぱっと使ってしまうことにした。
結局この仕事で実入りになったのは、槌籠のひと振り――しかもこの刀、願いではなく、純然たるルシウからの好意だ――だが、まあ、はっきり言って十分過ぎる。何と言っても、桜花の血統なのだ。
それに、ルシウはああ言うけど、俺は無駄遣いしたとは思わないよ。
“ルシウちゃん一日お膝券”を――
“最後にもう一度だけお前に会いたい”と、“願った”のは――……
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少女も観念したか、背中を預けて、お菓子に手を伸ばす。土産に持って来といて、自分の方が食っている。ふと、ルシウは顔を真上に向けて俺を見た。
「るああ……そう言や、“ミシェル”は元気にしてるかい?」
「ああ。最初はちょっと人見知りしたけど、すぐアーシャにも懐いて、この時間はたいてい爺様の店にいる。仕事で空ける時も、喜んで預かると言ってくれてな」
少女の額を、ぽんぽんと軽く叩いた。
「もうすっかり、家族の一員さ」
俺の肩に仰向けに凭れ掛かるようにして、ルシウは、真っ白い歯をにっと見せた。
「るああ……そうか。それは、良かったなあ……」
ミシェル・マール・ブランシェ――“白い聖母”のミシェル。
故あって、俺が引き取ることになった、幼い少女の名だ。5歳くらいのこの少女を、手元に置くことになった経緯は、俺が“この子”の幸せを“願った”からだ、と言っておく。
「仕事の縁だ……」
子細ありげに濁せば商売柄、周りは勝手に何か察してくれるらしくて、都合がいい。こうして愛らしい少女は、無事に俺の妹という、新しい位置に収まった。クリストフ老人の店の、屋根裏部屋がお気に入りで、たいていそこで丸くなっているから、アーシャらは“屋根裏の少女”と可愛がってくれている。
家族の縁の薄かった子だから、今度こそ幸せにしてやりたいと心から“願う”。
今度こそは――……
と、微笑んでいたルシウの顔が不意に曇り、ジト目が真下から睨み上げてきた。
「るああ……待てよ。よく考えりゃあ問題ねえか?」
「何がよ?」
ルシウは仰向けで眉間に皺を寄せ、握った拳で銅色の頬を撫でた。
「うーぷす。お前にミシェルを預けてることだよ、お兄ちゃん」
「は? そりゃあ、どういう……」
ふと顧みれば、ソファに凭れた俺に、しな垂れ掛かる幼女。あー、はいはい。そういうことね。完全に理解したわ。
ルシウの後ろ頭をぐいっと押して、あらぬ疑いに、異を唱える。
「あのなあ。さすがに俺も、未就学児は射程外だぞ」
「なーふ。いずれ大きくなるんだぞ、未就学児だって」
「あー……そう言えば、そうかあー……」
言葉にジャムった。生じた間に、ルシウの顔が険しい顔で身を翻す。
「うーぷす。やっぱ心配だぞ、お前のとこに置いとくの」
ルシウは俺の膝の上で肩から振り返ったが――
「俺は、あの子を不幸にするようなことはしねーよ」
「るああ。そーか……そうだよな――……」
……ちょんと座り直し、また俺に背中を預けた。
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二人黙ったまま、ゆっくりと時間が過ぎていった。陽が中庭を横切って、部屋に少しずつ、影と陰が訪れた、やがて外の街並みに橙色が差して、時間が来たことを知らせた。
「るああ。手紙は書けたのか?」
「ああ。これだよ」
丸テーブルに置いてあった本の間から、封筒を引き抜き、ルシウに手渡した。その手紙を届けることが、異世界監視人に頼んだ三つ目の願いだった。
「うーぷす。確かに」
ルシウは肩越しに受け取った手紙を、懐にしまい込んだ。
「るああ。これで最後、だな」
「ああ。これで最後、だ」
「ありがとう――……」
「さようなら――……」
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部屋の外、家の玄関が開く音がした。
「ただいまあ!」
廊下をどたどたと、しかし軽い体重の足音が走ってくる。部屋の扉が、当然のようにノック無しで開け放たれる。
「あー、ずるいー! ミシェもおにいちゃんのおひざにすーわーるう!」
部屋に転がり込むや、ミシェルは叫びながら突進してきたものの、
「……あえ?」
途中で立ち止まり、小さく首を傾げた。
「おにいちゃん、いま、だれかおひざにいなかった?」
「いや」
俺はテーブルからカップを取って、
「今日はお兄ちゃん、ずっと独りでいたよ」
すっかり冷めた珈琲の残りをぐいっと片づける。
ミシェルは不思議そうにしていたが、すぐ気を取り直し、俺の膝の上、彼女の特等席へよじ登った。他の誰かが座ったと知ったら、頬を膨らませるに違いない。
流れる蜂蜜のような金色の髪、名前に違わぬ真っ白の肌。どこかの誰かを思わせる紅玉色の瞳で、ミシェルは向かい合わせに俺の顔を見上げた。
「じゃあ、ミシェがいなくてさびしかった?」
「そーだなー」
俺は幼い妹の髪をくしゃくしゃと撫でて、日の沈みゆく窓の外を眺めた。
「少し、寂しいね――……」
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しばらくしたある日――……
大家の老婦人から、小さな郵便屋さんが俺宛ての手紙を届けてくれた。自分に郵便が来ることもあまりない上、その何の変哲もないクラフト紙の封筒には、ただ“ユウマ・ビッグスロープ様”と記してあるだけで、宛先の住所が書かれていない。どうやって届いたんだ……?
と、俺は目を見開いた。
何の変哲もないクラフト紙の封筒……カルーシアに白い紙の封筒。片仮名で、“ユウマ”。ユマでも、ユーマでもなく、悠馬と書いた、その線の細い字には見覚えがある。ああ、そうか――
これは思いがけない、異世界監視人からの贈り物。出した手紙に、まさか返事まで届けてくれるなんて。
郵便屋さんから封筒を受け取ると、指に何か触れて、裏っ返すと小さなメモが貼っ付けてあって……
俺は思わず吹き出した。
「おてがみ、だれからあ?」
ミシェルが背伸びして袖を引く。メモの方を渡して、友達からだよと答える。
「いいなあ。ミシェもお手紙欲しい」
うーん…それじゃあ、お兄ちゃんが仕事でよその町にいったら、そこからミシェルに手紙を出そうか。
「ほんとに!」
けど、手紙が着くより先に、お兄ちゃんが帰って来てしまうんじゃないかな。
「いいよ! ミシェ、おにいちゃんとおてがみまつもん」
判った、約束だ。今日もお爺ちゃんのお店に行くのかい?
「えーと、きょおはいちばに、アーシャおねえちゃんとおかいものにいくの!」
俺はミシェルの小さな手に、銅貨を一枚握らせた。お小遣いだよ。お菓子でも買うといい。落とさないように気をつけてな?
「うん! おにいちゃん、ありがとう! おてがみ、やくそくね!」
エプロンのポケットに硬貨を大事そうにしまって、上から手で押さえながら、ミシェルはばたばたと出て行った。
……どうも甘やかしてしまうな。苦笑して、ソファに腰を下ろす。
手紙の封を切ると、長い時間を掛けて、繰り返し繰り返し読んだ。俺にとっては既に異世界になった、遠い”世界”から届いた手紙を。
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やがて立ち上がると、封筒に手紙を戻し、書き物机の抽斗に落とし込んだ。大事なものは少しずつ増えて、それで時々手を離したりして、俺は生きていく。
捨てて――ミシェルのように――忘れるべきことがある……
失くして――俺のように――覚えていたいこともある……
手を離して、二度と触れられなくても、たぶん想いはどこかにあって――……
壁から黒革包拵を取ると、剣帯に下げ緒を結ぶ。腰を揺らし、据わりを正す。桜花と比べれば少々目方があるが、既にこの重みがしっくり腰に馴染みつつある。市場……コンツラート通りなら、今からでも追いつくだろう。
少し先だが、次の仕事が入った。北方の砦に行く輸送隊の護衛だ。長く留守を任せるにあたり、荷物運びのひとつも買って出て、ミシェルとアーシャの機嫌を取っておくのもいいだろう。
いや、言い訳はいい。
ただ俺が今、二人の手を握りたくなっただけなんだ。
封筒に張り付けてあった小さなメモを、もう一度見つめて、封筒に重ねて抽斗を閉じる。扉を開けて、午後の日差しの中へ足を踏み出す。
“封鎖区”……暗闇の部屋、魂の檻で……深い闇の中で互いを探して、見つけて、掴んだその手はもう離れてしまったのだと思ってたんだけどな――……
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『――ユーマお兄ちゃんへ。何かあったらまた頼むぜ。いひひ。
カルーシア地区異世界管理局出張所 ルシウ・コトレット――』
~“封鎖区~エピローグ~・完~




