40.マーノ・エ・マーノ~僕の右手と君の左手~
気がつくと俺は、カルーシアと“封鎖区”の出入り口のある、旧市街の袋小路に立っていた。時刻は定かではないが、暗い。
行き止まりは“封鎖区”への下り階段ではなく、壁だ。近寄って確かめてみても、まやかしではなく、正真正銘石積みの壁だった。そこに張ってある既に終わってしまった芝居物のポスターに見覚えがある。
手に握っていた桜花は、いつの間にか鞘に収まっていた。
「……戻って、きたのか……」
思わず独りごちた。“封鎖区”は、きちんと破壊されたのだろうか。なら、この壁の向こうにあった“世界”は、今はもうないということだ。
「……ルシウ……」
石壁に手袋を触れて、俺はようやく我に返った――と。
「なーふ。何とか終わったなー、ユーマあ」
弾かれたように振り返ると、ルシウが、いつもの小生意気そうな幼女の姿で、よそん家の上がり段に尻を下ろし、ひらひらと手を振った。
「るああ。お疲れさん」
白い歯を見せてにっと笑うルシウには、あの“美しい人”であった時の、神々しさは微塵もなかった。
「ルシウ……ちゃんと終わったのか?」
桜花の柄を撫でつつ、そう問うと、
「ああ。ちゃんと終わったよ。お前のおかげさ」
ルシウが頷いた。
ちゃんと、終わる。
ひとつの”世界”、一人の“人間”にとって、それはどういうことを意味するのだろう? “あの子”にとって、“封鎖区”、あの心の映し絵はいったい何のために在ったのだろう?
俺は結局、“あの子”に何をしたんだろう……?
……――少し疲れたな。
俺は壁に寄り掛かると、そのままずるずると腰を落とし、膝の間に俯いた。
そうしていると、肩に小さな手が置かれた。見せられる顔じゃなかったので、上げずにいると、
「あの子のために泣いているのか……」
ルシウはそう言って、俺の頭を抱き寄せた。
「るああ。ユーマ、お前の“世界”は優しいな」
少女の手が、革頭巾越しに俺の頭をゆっくりと撫でた。傍目には、大の男が幼女に慰められるの図、だと承知しているが、ルシウの柔らかいお腹に顔を埋めているのは、とても心が安らいだ。“あの子”も、こんなふうに抱かれて眠れたんだな。
それは……良かったな。本当に良かったなあ。閉じた目から最後のひと筋、涙が頬を伝った。
お母さん、か……
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どれくらい時間が経っただろう。俺は少女の抱擁から身を離して、鼻を啜り、ふうと大きな息を吐いた。ルシウは俺を間近に見下ろし、ぽんぽんと頭のてっぺんを叩いた。
「るああ。落ち着いたか?」
「うん……いい匂いがしたし、柔らかかった」
「るあっ?!」
幼女の隙を突き、腰に腕を回して、再び引き寄せて深呼吸する。
「はああ……癒される……」
「るああああっ! ヘンタイ! お前、これハンザイだぞ、ヘンタイっ!」
きゅうと丸めた拳でぽかぽか叩かれたが、うん、安いものだ。
堪能してから監視人を解放すると、爪先で正確にレバーを射抜かれた。そろそろ最後かと思うと、これも名残惜しくある。ルシウは頬を紅潮させて、ちょっと涙目で俺を睨む。解る
「うーぷす……照れ隠しのタチが悪過ぎる……」
ぶつぶつ文句を言うのを尻目に、立ち上がり、空を見上げる。
さっきより、薄明るくなってきたようだった。
東の空には古都の街影が、濃紫を背景に浮かび上がる。
「夜明けか……」
長かったような短かったような、不思議な夜が終わった。ちゃんと、終わった。たぶん、一生に二度はない、そんな一夜だったと思う。
そう感慨に耽っている、と。
「あ……」
同じく夜明けを見上げていたルシウが、口を開いた。
「あれ……? 何か、10日くらい経ってるよーな気がする……」
首を傾けて、妙にデカい懐中時計を引っ張り出した。横から覗くと小さい文字盤が幾つもあり、針も何だか多い。読み方が判らない。
「えーと……Oops。今、“封鎖区”に入って9日目の朝だ」
「マジ?」
「なーふ。あっちとこっちで時間の流れ方が違ったらしいな。うーん、まあ、何十年とズレなくて良かったと言うべきか……」
それって、そういう可能性もあった、ってことだよな?
……まあいいや、深く考えるのはよそう。
呆れることで衝撃を覆って、俺は革頭巾の上から頭を摩った。
「やれやれ、何も言わずに来たから、アーシャ、心配してるかカンカンか……」
ルシウの赤い目が、薄明かりにきらりとした。
「こっちで出来た、いい人かい? 済まねーな、心配掛けさせて」
「大事な家族さ。まあ、大丈夫だろう」
俺は真面目くさった顔でこう言った。
「彼女は幾ら怒っても、曲刀両手で追っかけて来るような、おっかない女じゃあないから」
ルシウが吹き出した。
俺も笑顔を返すと、腰の剣帯に手を伸ばして――
「異世界に飛ばされて来てもさ、大事なものは少しずつ増えて、それで時々手を離したりして、生きていくんだよ、きっと。カッコつけたようなこと言うようだけどさ、何か、そう思うよ」
下げ緒を解くと、天羽緋緋色“荒神切”桜花――その鞘を掴んで、監視人に差し出した。
「とうとう、こいつからも手を離す時が来たかー」
ルシウは捧げ持つように、朱塗りの鞘を受け、俺の顔をじっと窺った。
名残惜しさと、心からのありがとう、笑ってさようなら。そして、ちょっぴりの未練を残しつつ、指を開く。
ルシウが微笑み、頷くと――……
”死せる剣聖帝の贖い” の宝刀達と同じく、本来在るべき場所へ還っていった。最後に、りん――……微かな音を聞いたのは、或いは気のせいか。
「ありがとうな、桜花……」
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幾許かの腰の寂しさがありつつ、俺は白みつつある空に両手を突き上げる。
「んッ……よォし! 終わった終わった」
己の中にひとつ、区切りをつけるために声に出し、大きく足を踏み出す。
ルシウと擦れ違い様、黎明竜レーゼの革頭巾を外して、
「るあ?!」
少女のフードの上からかぽんと被せる。
「さあて、帰りますか。それぞれの“世界”ってやつに」
異世界監視人と異世界の高校生、ここから帰る場所は、別の“世界”だ。同じカルーシアにいるとしても、俺と彼女は、異なる”世界観”のカルーシアにいる。
道々でティラトーレの鎖衣と黎明竜レーゼの手袋を外せば、今度こそ、もう会うことはないだろう。
と、服の裾が、後ろからきゅうと掴まれた。
つんのめって振り向くと、俯いたルシウの顔が、黒頭巾で半分隠れている。
「なーふ。その……何だ。10日近くも遅くなっちまったら、その、もーちっとくれー遅くなっても一緒じゃなくねえ? つうか……」
「……?」
もごもご言ってよく聞き取れないので、身を屈めると、幼女は視線を外し、唇を尖らせて言った。
「珈琲1杯くらい、飲んでく時間あるくない?」
だから、そういう顔をされたら……
「そうだな……」
お兄ちゃん、断れないじゃないか。
「じゃ、朝の1杯、御馳走になってくか」
そう言うと、俺はルシウの手を取って走り出した。後ろから「わっ」とか「るあっ」とか聞こえたが、すぐに悪戯っぽい「いひひ」笑いに変わった。
夜明け直前の街を、二つの足音が駆け抜ける。別々の道を来て、別々の道を行く二つの足音は、今だけは同じリズムを響かせて。
「るああ。異世界管理局まで――……」
「もうちょっとだけ、アタシの手を離すなよな――……」
~“封鎖区~破局の因子~”・完、次章へ続く~




