31.ブラン・エ・ネーロ~白い女神と黒い女神~
その空間は、まるで濃密な液体に満たされているようだった。
ユマ・ビッグスロープこと、この逢坂悠馬、魔法魔術に造形は全くなければ、魔力を感じる的なのもまだ経験していない。と言うのも、カルーシアに転移して来て、その手のものに出会ったことが、そもそもない。しいて魔法的なのと言えば、
「るああ。何見てんだよ」
このちんちくりんの異世界監視人くらいのものだ。
その俺にも理解る、この場を支配する異様な感覚。まるで甘ったるい葡萄酒のような空気……
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ルシウと手を取り合って開いた扉の先は、再び石造りの城内だった。
俺達が出たところは大広間で、その印象をひと言で伝えるなら、邪教の礼拝堂、魔王の謁見の間。火竜のいた遺跡ほど広くはなく、魂の檻ほど暗くはない。対になって奥へと並ぶ石柱の、燭台の灯りは高い天井までは届かず、ゆらゆらと無気味な影を躍らせる。
柱や壁の意匠は中庭の遺跡とは趣が異なり、精緻にして、怪奇の浮彫が施されている。美麗ではあるけれど陰鬱、禍々しくも荘厳。喩えるなら葬送の、死の様式美を感じる。
奥に深い造りの広間の、最深の壁には巨人の骸骨が磔になっていて……真下にはピラミッド状の段になった石の祭壇があり……
その上に、“得体の知れないモノ”がいた。
「うーぷす。こりゃまた、厭な匂いの魔力だなー」
ルシウが唸った。俺には花か果実の腐る、甘ったるい匂いが感じられる。これが魔力の匂いだというなら、魔法の素養のない者にも判るほど、たっぷり濃厚に場に充満しているのだろう。
甘い腐敗の芳香は、壇上の“何か”から溢れ出している。
遠目に見て、“何か”は朧気に人の輪郭をしている。暗さと揺れる灯りに惑わされて、彼我の距離感が掴みづらいが、あまり大きなモノではない……むしろ女か子どものように小さいように思える。
ただ、言い知れない存在感がある。
ドラギオを足元から見上げても、これほどまでの重圧感はなかった。凄まじい質量、“空間”や“時間”そのもの、それは“世界”と同等のモノだ――……
俺の印象を裏付けるように、異世界監視人が囁いた。
「ユーマ、あれが“核”だ」
驚きはしない。直感的に、そうと理解していた。“核”とは“封鎖区”の”世界観”であり、“封鎖区”を破壊する要の部分であり……おそらくは“封鎖区”を生み出した人間で、“封鎖区”の“世界観”の根源……そう、俺はこいつを殺しに来た。
「小さいな」
「るああ。見た目で判断するなよ」
言われるまでもない。おとぎ話から少年漫画まで、“小さい奴は強い”は日本の伝統文化だ。
“核”は祭壇に立ち、俺達を見ているのか、否か、じっとそこに在る。言葉は発さず、身動きひとつせず、それでいて存在の主張はドラギオの吐く火炎より苛烈に放射している。
まさか、魔王も“封鎖区”のゲーム縛りの“世界観”に則って、勇者が話し掛けるのを待っている……とか?
“荒神切”桜花の鯉口を切る。
足を踏み出そう、とした俺の袖を、ルシウが引いた。
「るああ。ユーマ、その……大丈夫か?」
振り向くと、ルシウの赤い目に不安の陰がある。確かに、人を切る――そりゃ進んでやりたくはない。でも、今の俺にはあまり躊躇せずにやれると思う。躊躇う余裕がない、とも言える。
“封鎖区”での、異世界転移して以来なかった命懸けの冒険が、俺に肚を括らせた。今なら、自分とルシウの命を贖うために、人の命に鈍感になれる。
酷い言い草だが、それで片付くならさっさと切って終わりにしたい。後悔に苛まれるとしても、今考えることじゃない。ルシウの頭を、フードごと肘で抱き込む。
「大丈夫だ、問題ない」
「るあっ!? お前、それフラグじゃねーだろーなあ?」
ルシウの手が、ぱんと背中を叩くと――
これが最後とばかり、強化魔法がぶち込まれた。
そういう “世界観”じゃないから、自分のステータス画面は見られないけど、何かいろいろ強さが上がった実感はある。
「うあ、体に良くなさそうだなあ」
「いひひ。明日の全身筋肉痛は覚悟しとけよ」
「じゃあ、今日はゆっくり風呂入らないとな。一緒に入る?」
「なーふ。ま、一応考えておいてやるよ」
愉しみが増えたところで、“荒神切”を抜き放つ。紅の刀身が輝き、揺らめく。
次に鞘に納めるのは、全てが終わった後か、或いは、もはや納めることはないのかもしれない。ルシウがきゅっと拳を丸め、腰の辺りをとんと打った。
「るああ。アタシも残り魔力温存無し、鼻血出るまで全放出すっから、もうひと踏ん張り頼むぜ、ユーマあ」
お姫様の仰せとあれば、異世界の剣士、推して参るぞ。
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左半身を向こうに預け、桜花の切っ先を右後ろに置く。脇構え、陽の構えを利き手だけで取る型で、慎重かつ急ぎで足を運ぶ。
距離を詰めるにつれ、“核”の様相が窺えてくる。
それはヒトのカタチをした空間の揺らぎ、透明の影、煌く陽炎、そのようなモノだ。背丈はルシウと比べてもまだ小さい。
俺が近づいても反応がなく、実体のあるものか、意志を持つものか、それすら判然としない。描写のしようもないが、考えてみれば、元の人間そのままの姿でいられるよりは、やりやすいかもしれない。
更に歩を速めても、“核”はただゆらゆらと揺れている。もしかして、このまま切れてしまうんじゃないか、抱いた淡い期待を見透かすかのように――
大広間を満たす力に、流れが生じた。やはりそう甘くはない。
桜花を片手正眼、“人の構え”にして踏鞴を踏む。
祭壇の手前左の石床に、めきめきと亀裂が走ると、裂け目から火焔が噴き出した、同時に右側の天井から、金色の光が差し込んだ。
炎と光、それぞれ地と天から、二つの影が現れ出る。
炎に巻かれて地の底から這い出したのは、青黒い肌、半裸に首飾りや腕輪をじゃらじゃらと飾り、両手に曲刀を携えた、鬼神めいた女だ。
ヒンドゥー神話の、確かカーリーとかいう、インド料理店の壁の絵で見たことのある女神に似ている。火焔を絡みつかせて剥き出しの胸をくねらせる姿は、猛々しくも美しくはあるが、このおっぱいをエロい目で見る奴はそうはいない。
鬼女神は片膝を高く差し上げ、刃のひと振りは頭上に掲げ、もうひと振りを前に突き出す東洋的な構えで、ぴたりと静止した。
片や光の梯子を降臨したのは、自らも眩い光を放ち、頭から法衣を纏って、胸の前で祈りに手を組む女神の姿だ。
こちらはイタリアン系ファミレスの壁にやたら描かれている宗教画で見覚えのある、聖母マリアそのまんまのイメージだろう。慈愛と憂いを帯びた眼差しには、仏教徒の俺でも刃を向けると罰が当たりそうに思える。
聖女神は雲の上を歩くように、緩々と壇上へ上ると、“何か”に寄り添い、聖母子像とでも言いたげに澄まし顔をする。
それぞれの姿勢が役割を物語る――女神らは“剣”と“盾”だ。
慣れとはおかしなもので、鬼女も聖母もともに見上げる身の丈、俺との比率は子どもと大人のそれだけど、前庭のヒガンテや遺跡のドラギオと戦った後では、それほど巨体とも感じない。片や構えて、片やキングの駒を抱いて、二柱の女神は彫像と化している。
一歩、また一歩と間合いを詰める。桜花を正眼にして。
女神達が見ている。己の鼓動と、呼吸の乱れを意識しながら一歩、額に流れる汗が、目に入らないよう僅かに首を傾けて、また一歩――……
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……――目の前に、破壊神の耳まで裂けた笑いがあった。
右耳のすぐ脇で、金属と金属の咬み合う悲鳴が走った。音を聞いて、自分が咄嗟に鬼女の曲刀を、桜花で受けたのだと知る。同時に理解するのは――
(もう片方の刃が来る……!)
迷いなく左手を突き出す。黎明竜の革の強度が鬼神の剣に負ければ、左腕とはさよならだ。それでも俺は刃を掴もうと手を伸ばす。本当、手も足も何本あっても足りねーな!
「“異世界監視人が命じる” “爆ぜろ” “爆ぜろ” “爆ぜろ”ッ!」
ルシウが叫ぶと同時に、伸ばした左手の先で閃光が咲き、“ばきんッ”、振り下ろされた刃を撥ね上げて、“ばごんッ”、続く爆破がカリイの上半身を圧し返し、“どかんッ”、三発目がついにバランスを奪う。
俺は桜花の峰を左手で支え、鬼女の剣を押し上げる、刃と刃が離れ、
「よいしょおッ!」
鬼女が仰け反る、その裸の腹へ、“荒神切”の刺突を根元近くまで深々と押し込む。虚構ではない、本物の肉を貫いた感触の生々しく伝わる手を、臓腑を引き裂きながら返し、全身のバネで、
「切る……!」
ただその意思だけを以て、桜花を切り上げる――
桜花を天に掲げた俺の前で、黒い女神は、臍から顎までが真っ二つに断ち割れて、あるだけの体液と中身をぶち撒けた残骸と化していた。
案外すんなりひとつ片付いた、ふっと小さな息を漏らした刹那――……
白い女神がその存在を主張して、押し出てきた。
“核”に身を寄せたまま、すっと手を差し伸べ、声なき祈りを捧げると――鬼女だったモノに柔らかく光が降って、割った下顎、喉から胸、桜花を突き入れた孔までの左右の半身が血を沸騰させながら癒着し、ダメージをなかったことにしようと、リセットボタンを押しやがった。
「……クソめ……」
罵り、桜花の刃を再度返して、上段から鬼女の腕を断ち落とすも、床に落ちる前に逆再生のように引き戻され、元通りにくっつく。
結局俺が成したのは、鬼女の指から曲刀の零れた音を立てたのみ。
“剣”と“盾”――……なるほど、そう来たか……