14.エール・エ・ヴァン~温い麦酒と甘い葡萄酒~
陶器のジョッキのぬるい麦酒を干して、底でテーブルを叩く。さほど飲める口じゃない。たった一杯で、酒場のがやがやした喧騒が心なしか遠ざかっている。
「……ちっ……」
今日の仕事の手落ちを思いながら、俺は忌々しく干し肉を噛む。
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また都市城壁近くに狼の群れが出た、何人かで見に行ってくれ――……傭兵ギルド長の顔を立てて受けた、安い仕事……のはずだった。
四人の仲間と狼の群れは入り乱れ、二匹を相手取った俺の背後に、更に一匹が忍び寄った。俺は仲間の弓が射抜くまで、接近に気がついていなかったのだ。
仲間と組んだ仕事だ。援護し合うのが当然で、取り立ててしくじりをした訳でもない。礼に手を上げれば、向こうも手を振って寄越して終わりだ。
やらかしたことを知っているのは、自分だけだ。
いつもなら、俺が後ろを取られて、気づかないはずがないんだ。
問題は、俺があの時よそに気を取られていたってことなんだ。
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(馬鹿か、お前は……)
己を罵り、フォークを掴んで炙り干し肉に突き立てる。たかが狼相手とは言え、戦闘中に考え事とは畏れ入る。どんな猛者でも手練れだろうと、喉にフォーク1本刺されば人は死ぬんだ。後悔しても巻き戻るほど、時間はお節介じゃない。
だが、言い訳になるが、それほどの気掛かりが――狼の群れの中に立って、ふと思いが漂うほど、気になっていることがあるのも事実だった。
……――二カ月ほど前、奇妙な体験をした。
子どもの寝かせ話ではないけれど、俺は不思議な場所に迷い込み、不思議な人と出会った。そのことが頭を離れない。
傭兵稼業の仕事柄、眉唾の噂話はよく耳にする。しかし酒の座興の態で仕事仲間に聞かせてみたものの、俺の体験のような話を知った者はいなかった。暇を作り、王都にあの場所があったはずの路地裏を尋ねてみても、見つかりはしない。こうなると、白昼の夢だったのか、そんな気さえしてくる。
しかし俺は、どうしても、もう一度あの不思議な人に会いたかった。
それで俺は頂けない仕事に腐って、飲めないエールを舐めているという訳だ。
テーブルの木目を睨みつけていると、空いたジョッキに気づいたか、女給が傍らで足を止めた。
「どうするかな……じゃあ、もう一杯だけ頂こうか」
俺はチップも込みで、銀貨をテーブルの端に押しやった。
「ユマ・ビッグスロープ?」
女給が俺の名を呼んだ。俺は顔を上げない。パブで傭兵が名を呼ばれるなんざ、どうせ碌な用ではない。
「話を聞いてもらいたい」
お断りだ。ひとつに、今はそんな気分じゃない。二つ目に、
「傭兵組合を通してくれ。直接の仕事は取らないことにしている」
俺が素っ気なくそう言っても、女給はそこから立ち去らない。
「なあ、ユマ……逢坂悠馬」
いい加減しつこいな、そう思っていた俺は、ぎくりと目を見開いた。
「Raa。逢坂悠馬あ。お前に頼みてーことがあるんだ」
本名を呼ばれ、驚いて顔を上げた俺の前で、少女が髪をかき上げるように、ふわりと黒頭巾をうなじに落とした。
やや眦の吊り上がった大きな目。真っさらな銅を思わせる、明るい褐色の頬。白に僅かに灰色を溶かした薄い銀髪は、灯りに照らされ今は金色にも見える。
赤い瞳で俺を見下ろしているが、小さな女の子のこと、低めの椅子に掛けた俺とそれほど目線は変わらない。
何てこった、尋ね人があっちから現れた。
“ルシウ・コトレット”――……あれだけ探して見つからなかったものが、あっさり目の前に立っている。
「こんばんは、お嬢ちゃん。一人で来たのかい?」
カウンターから強面の店主が、怒鳴り気味に声を掛けた。酔漢の喧騒に負けないようにと、加えて地声がでかいだけで、胴間声に他意はない。
「あっと……俺の妹だよ、マスター」
「ほう、そうかい、ユマの旦那の。へえ、こんな可愛らしい妹さんがいたのかい」
「いやあ、ははは……」
なぜか咄嗟にそう言ってしまった、
ルシウは一瞬「はあ?」みたいな顔をしたが、
「……るああ。ユマお兄ちゃん、ルシウも何か食べていーい?」
小首を傾げて乗ってきた。ぐはあ、破壊力があり過ぎる。
「好きなものを好きなだけ食べなさい」
「Oops。どんだけ食わす気だよ」
ルシウは俺がテーブルに置いた今日の稼ぎ、金貨3枚を見て呆れた。
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料理の皿とジョッキ二つがテーブルに置かれた。
俺はエールのお代わり、ルシウにはアルコールの低い甘いワインだ。
「るああ。お前、未成年だろー? 飲んでいーのかよ」
ルシウは骨付き鶏ももの炙りを、どこか物足りなさそうな顔で齧り、俺のジョッキを指差した。
「17になったから自主解禁した。そろそろ誕生日過ぎてると思うんだよな」
「Oh la la、17でもダメだろーに」
「ま、郷に入りては郷に従え、さ」
俺が無頼漢を気取ってエールを呷ると、ルシウがにやにやして自分の上唇を叩く。俺はこれまた無作法に、泡の髭を袖で拭った。
彼女は俺の本当の名前が逢坂悠馬で、本来は高校2年生、異世界の都カルーシアに“異世界転移”してきたことを知っている。
俺は彼女の名前と、彼女と出会った不思議な部屋の名前、“異世界管理局”という名称しか知らない。
ルシウと出会ったのは……いや、あれは出会いってほどの話でもない。
うっかり彼女の部屋に転げ込んで、ぽいと追い出されただけのことだ。あの時は仮にも元高校生男子、現傭兵の俺が、少女だか幼女だかに、いともたやすく首根っこ掴まれて捨てられたもんだ。
つまりこの幼女、“見てくれまんまの存在”ではない。
彼女は言った。“ルシウ”も“異世界管理局”も、“逢坂悠馬”には関係のないものだと。だから忘れろと。だが、俺には忘れられなかった。その神秘的な部屋と、謎めいた少女の思わせぶりな言葉が。
俺は追い出されて、すぐにその部屋の扉を開いたが、既にか初めからか、そこは空き家だった――俺には“関係のない”場所。
探しても、王都に彼女を知る者はなかった――俺には“関係のない”少女。
二度と会えないかと思えば、余計に気に掛かり、探し歩いてたのに。
それが目の前で骨付きをチキン齧ってやがる。
あの……喜んだらいいの? ムカついたらいいの? 俺は焼き馬鈴薯を手掴みで割りながら、
「で……どういう風の吹き回しだい、ルシウさん?」
意趣返しでもないが、ちょっと皮肉な表情を浮かべてみせた。
「俺はあの部屋とは“関係のない”、“面倒くさい奴”じゃなかったのかよ?」
傭兵暮らしで身についた、啖呵のひとつも切ってやる。
ところが。
思いも寄らないことに、少女はショックを受けたように赤い瞳を見開くと、口をへの字に震わせて、俯いてしまった。
「るああ……そんな言い方しなくても……」
「え? あれっ、えっ?」
「アタシは……もう一度悠馬に会いたくて来たのに……」
テーブルに肘を付き、両手で顔を覆う。ま……まずい、泣かしてしまった……
「あ、いや、済まない! そんなつもりで言ったんじゃなくて……」
狼狽えた俺は椅子を鳴らして立ち上がると、しどろもどろで弁解する。
ルシウは指の間から赤い瞳を覗かせ、顔を上げた。
上目遣いに俺を見ながら、小さな右の拳をきゅうと丸めると――
「うーぷす。マジかよ、お前。チョロ過ぎんだろー」
ぐいっと頬を乗せて、「はあ」とため息をついた。
「なっ……?!」
「るああ。お前、マジで悪い女に引っ掛からねーよーに気ィつけろよな」
「お、ユマさん。えらくちんまいのと痴話ゲンカかい?」
顔馴染みの傭兵、ザインのおっちゃんが通りすがりに冷やかして行った。
神様、僕は生まれて初めて幼女をグーで殴りたいです。