09.薔薇色の異世界~フェリーシ・レーヌ~
少女がそう告げると――背後に燃え続ける真言の火が、空に巻き取られるように昇っていく。炎の渦は天高く伸びて、それから執行命令書に目掛けて、漏斗で注ぐように、火の粉ひとつ残すことなく吸い込まれていく。
しゅうう……
僅かな煙が上がって――書簡に俺の使う落款の捺印が焼き付いていた。
少女は書簡をくるくる丸め、銀糸の髪を一本抜くと、軽く結わえた。
「うーぷす、確かに。これで手続きはオシマイだよ」
世界の見え様を狂わせていた幻の炎を失い、俺の息苦しさも消えた。
そこは時の止まっているだけの長閑な村外れで、彼女は“世界”を監視しているだけの愛らしい少女に戻った。
そもそも少女を恐ろしいモノに見せていたのは、俺自身の心だったんだ。
プラチナの色をした、陽光の下で光を放つかに見える長い髪。カッパーの色をした、磨かれたような肌。深紅玉の色をした、虹彩の大きな釣り目。歳はおそらく俺とそうは変わらないと見える。顔立ちは幼く、小柄で、ちょうど俺の顎くらいの背丈しかない。その赤い、紅い目が……
……ああ、その目で見るのはやめてくれ。
異世界を監視する目が、血の色をした目が、跪く俺を見下ろしている。
そうだ、思い出した。これが “俺の高さ”だった。痛みも、嘲笑も、唾も、靴の裏も、いつだって“世界”は上から降ってくるものだった。俺は、いつだって見下ろされていたんだ。
忘れていたよ。
この世界ではみんな同じ高さで笑っていたから。
同じ高さでいられたから。
俺は、“俺の高さ”を忘れていたんだ。
幸せな夢から覚める時が来た。
異世界監視人が、俺に向かって手を伸ばした。
ああ、そうか。俺は納得した。
結局、“終わり”も上から降りてくるんだな。
俺はただ、怖くて。悲しくて。
少女の手は目前まで迫り、俺の視界を奪い――……
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俺の首に絡みついて――……抱き締めた。
「るああ。もういいんだよ、タイラノ・マサル――」
少女のふかふかとした胸に、俺は顔を埋めている。それなのに疚しい気持ちは全く湧いてこなかった。ただ優しくて、安らいで、赦されて……
「……すげえいい匂いがする……」
「るああ。エロいこと言うなよー」
少女の穏やかな声が、俺の心を溶かしていくような。
眠るんだ、そう思った。
思い出したくない記憶達もまた、どこかへ溶けて消えていく気がした。
その向こうに、とても遠い場所に、大切な思いが……たぶん俺が始まった時の記憶が……少女の胸に抱かれながら、俺は、そっと目を閉じた……
「るああ。輪を閉じよう――……」
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「……――聞いているのか、シャルマ・ティラーノ」
彼女の高さから咎める声で、はっと我に返った。
ここは……ああ、そうだ。今日はカジン村に魔獣退治に来ていて、これからヤノマコに帰るところで……ええと、あれ……物思いを破られたせいか、俺は自分がいったい何を考えていたのか、完璧に見失ってしまった。
と、クーシュに肘を食わされた。軽装甲冑の肘当てが、脇腹に突き刺さる。
「いて……え、何だっけ?」
「やはり聞いておらぬではないか!」
姫騎士様が歯も剥き出しに怒った。
「そもそもだ。貴公はいつもいつも、力任せに大きな術式を使い過ぎる。挙句に森を燃やしかけるわ、貴重な魔獣の皮も丸焦げだわ……」
「ああ、悪い。ちょっと考え事をしていて」
つんと偉そうに説教をくれていたクーシュがぽかんとした。右側の修道女、コーナも驚いて口に手を当てた。お前ら……俺が素直に謝るのがそんなに珍しいか。俺を何だと思っているの?
「ど、どうした、シャルマ。いやに素直ではないか。こっちが拍子抜けするぞ」
ああ、そんなふうに思われているのね。
俺は肩を竦めると、一回クーシュから顔を背けておいて、
「ま、そう言うなよ。これでも、いつも一緒に来てくれること、感謝してんだぜ」
爽やかスマイルで振り向いてやる。
するとクーシュはずざざざっと後退り、奇妙な構えで固まった。目が泳ぎ、頬が真っ赤な……“まるで世界を終焉に染めるように(それは偽りの炎が燃える赤の色だ)”……? ……顔が赤い。
「な、何言ってんだバカ!お前のバカ!弱き者を助けることは、そう、騎士たる者の当然の責務なのだっ!」
物凄い勢いで捲し立てる。ちょ、剣に手を掛けるな! こら、抜くなって、おい、クッコロ!
「お前のために来てやったんじゃないんだからな!ばかっ!」
はい、姫騎士様のツンデレ頂きました、あざーす。
そして俺は左手を回して――
右腕をがっくんと引……こうとしていたコーナの頭をぽんと撫でた。
「はりゃ?」
「大丈夫だよ、コーナ。喧嘩してるんじゃないかね」
機先を制されて、眼鏡のレンズ越しの大きな栗色の目……“目の赤い色は失われた二人分の血の色だ(それは流された罪のピジョン・ブラッド)”……? ……目は大きく見開かれて、俺は笑いながら少女の髪を、
「ははは、コーナは可愛いですねえ」
「にゃああああっ?!」
くしゃくしゃと乱してやった。
それから多少落ち着き、こっちを不審げに見ているクーシュの手を取り、
「ひゃあ?! え、ちょっ、何っ?!」
「ほら、仲良しだろ? あーくーしゅ」
ぶんぶんと上下に振って見せた。
クーシュは俺が手を解放すると、逆の手で迎え、ぎゅっと胸元に押し付けた。ちょっとヤバいモノを見る目になっている。
「おーい、どした……? 何かおかしな物でも食べたか、シャルマ……?」
「……クーシュ様、これはもしかして“解呪”を施した方が宜しいのでしょうか?」
え、ステータス異常扱いとか。
でも確かに――……
ステータス異常、おかしなテンションかもしれない。
何があった訳でもないのに、すごく爽やかな気分なんだ。喩えるなら、新しいパンツを履いたばかりの、正月元旦の朝みたいに。
「自分でもよく理解らないんだけどさ、何か……ずっと胸につかえていたもの(裁かれずにいた罪)が……胸の奥に引っ掛かってたこと(罰して欲しいと願っていた咎)が、こう、やっと取れた(赦された)ような気が……」
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街道の冒険者達を、少し離れた丘の上から見つめている者がいた。頭からすっぽり黒頭巾を着込んでいるが、おそらく小柄な女だろうと思えた。
女は冒険者達を見つめている。黒頭巾の下から覗く目が、どこか哀しげだった。ふと冒険者の一人が、こちらに顔を向けたようだった。
だがその丘には既に、女の姿はなかった。
「るああ。お前はそこで……いずれ時が来るまで、そこに――……」
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「どうかされましたか、シャルマ様?」
コーナに声を掛けられ、俺は振り返った。
「今……そこの丘に誰かがいたような気がしたんだけど」
「うむ? 私は気づかなかったな……」
クーシュは小手を翳して遠くを見やろうとして、
「シャルマ、貴公、なぜ泣いている?」
少し驚いたようにそう言った。言われて頬に手をやると、何故か濡れている。
理由は判らない。と言うか、泣いていた自覚もない。
ただ、何かとても大切なことを忘れている気がした。とても大切な人を、忘れている気がする。忘れてはいけない……赤い瞳を、銀色の髪を……俺の、罪を……
(るああ。忘れていいんだよ――……)
とても、とても大切なことを……
「いつまでも、二人と一緒にいられたらなって」
気づけば、とんでもない台詞が口から零れていた。赤くなればいいのか、血の気が引けばいいのか、間取って紫色になるか。
恐る恐る様子を伺うと、姫騎士様と修道女は乙女のように向かい合わせに手を取り合って、すすすっと俺から離れていく。
「ええー……シャルマ様? やっぱり今日おかしくないですか……?」
「貴様は、そうやって誰彼見境なく誑かすよーなことを言いおって……」
「いっそこの手で成敗してくれようか?」
クッコロさんが剣の柄に手を掛けるに至り、誤解を解かんと慌てると……
二人が揃って吹き出した。花が咲き零れるように、少女達が笑う。
「ふふふ、シャルマ様ったら、おっかしいですわ」
両手を口の前に、童女のように屈託なくコーナが笑う。
「だって、当たり前ではありませんの。みんな、ずーっと一緒ですわ」
「ま、そいういうことだ。まったく、貴公は目を離すと、何をしでかすか知れたものではないからな」
クーシュは片目を閉じて笑い、それから、
「わ、私が傍で見張っていてやる。精々覚悟しておくことだな!」
ぷいとそっぽを向いた。さすが女騎士、隙あらばデレるなあ。
俺も笑った。俺に向けられた笑顔に向かって。
俺がかつて誰だったかとか、どこにいたとか、それはどうでもいいことだ。余計な記憶は捨てて行こう。
俺はここにいる。この優しい“世界”に、これからずっと。
やっと見つけた俺の居場所。
やっと見つけた“俺の高さ”。
隣を歩いてくれる誰かがいるこの世界、今度は手を離さないよう、道に迷わないよう、今度こそ踏み外さないように歩いて行こう。
いずれ、“世界”を去るその日まで。
さあ、俺には、俺のことを待っている人達がいる。
「帰ろう。ヤノマコ村へ――……」
「ああ……カエろウ。ワタしガいッショにイてやルからナ、しゃルマ……」
「うフフ……ズーっとイっしょニいマシょうネー……シャるマさマー……」
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閉じた“鎖”、閉じた”世界”。
彼の作り出した世界はそして、彼を囚える檻となる。されど罪は罪、咎は咎、囚人は幻想を抱いて、人形達と踊り続ける。
願わくば彼が終わる日まで、幸せな夢を見続けられますように――……
そして。
“世界”は時に檻となり、檻は時に“世界”を殺す。
囚われてなお“世界”を呪う罪咎。
人知れずゆっくりと腐敗する果実。
この“世界”のどこかに存在する、それは“封鎖区”……
されど、それは。いずれまた、別の物語――……
~“俺の能力が異世界でチート過ぎる”・完~