102.トーマス・ブラウン・ザ・ストレンジ・キャット
気ままな黒猫、トーマス・ブラウン。尻尾が自慢の、トーマス・ブラウン。
トーマス・ブラウンの好きなもの。
温めたミルク。天気のいい日。風に揺れているカーテンの裾。魚。それから食後の優雅な毛繕い。そして何より。自由でいること。
「ミシェ、おさかなきらーい」
「にゃあ。体にいいのですよ、お魚は。カルシューウムが豊富で」
トーマス・ブラウンの嫌いなもの。
鏡。尻尾に触ろうとする男の子。ビスケットをくれる女の子は好き。ピアノの音と、空き缶の転がる音。そして何より、束縛されること。
「むう、尻尾を触ってはダメなのか」
「ごろごろ、ご婦人のヴァストに断りなく手を触れるようなものですよ」
「そ……それはいかんな……」
トーマス・ブラウンは、自由で気ままな黒猫。独りでいるのが好き、誰かといると窮屈。誰かのことを気にするのも、誰かに気に掛けられるのも、面倒、窮屈、煩わしいと、独りで平気、寂しくない。
勝手気ままの、トーマス・ブラウン。今日も今日とて塀の上、誰も届かぬ屋根の上。ツンと空見て闊歩闊歩。澄まして気取ってとことこと、自慢の尻尾をゆらゆらと、素敵な髭をひくひくと。
「ミシェはひとりぼっちはやだなあ」
「にゃあ。ですねえ。けど、その時はそうは思わなかったんですよ」
「大事な人の一人もおらんかったのか?」
「にゃあ……その時は、気づいていなかったんですよ……」
そこにはトーマス・ブラウンを愛する娘がいた。
気立てのいい、幼馴染の白猫は、絹のリボンに金の鈴、飼い主のお婆さんのくれた宝物。料理上手で世話好きで、トーマス・ブラウンにしてみれば、こんな困った相手もいない。
嫌いってんじゃないけれど、つきまとうのは止めてくれ。
ついて来られちゃ迷惑だ、独りでいるのが好きなのさ。白猫歩けば鈴が鳴る、ちりんと鳴ったら黒猫逃げる。縛られるのは、大嫌い。誰かのことを気にするのも、気に掛けられるのも。
「えー」
「えー」
「ははは、まあまあ」
そこでトーマス・ブラウンは町を出た。遠くの大きな街へ旅立った。目指すは王都カルーシア。ぴかぴかに磨いた長靴、金貨を3枚、古ぼけたトランクを片手に下げて、後に残した置手紙。
親愛なる白猫へ、後に残した白猫へ。家族へ友へ、白猫へ。みんなに残した置手紙、心残りは何もなく、みんなを残して歩いて行った。てくてくとことこ歩いて行った。自慢の尻尾をゆらゆらと、素敵な髭をひくひくと。
「あ。今更だけど『~だにゃあ』とか語尾に付けた方がいいかにゃあ?」
「そういうのいいから」
「いらにゃい? ああ、そう」
さて、街道を行く黒猫、目指す町も間近という頃、トーマス・ブラウンは年老いた猫に出会った。道端に座った年寄りの猫に出会った。
見知らぬ他人に挨拶するようなトーマス・ブラウンではないけれど、年寄り猫は具合が悪そうで、しかも自分と同じ黒猫だったので、見て見ぬふりもできず声を掛けた――爺さん、どうしたんだ、と。
年寄り猫が答えた――腹が減って動けないのだ。旅の途中で、持っていたパンを捨てて来たから、と。トーマス・ブラウンは驚いた。
何だってそんなことをしたんだ?
『その時は腹が減っていなかったし、邪魔だったから捨てたのだ』
後で腹が減るとは、思わなかったのか?
『腹が減っていない時に、そんなことを考えるものか』
トーマス・ブラウンは弁当包みから、パンの塊を年寄り猫に差し出した。年寄り猫は口の中でもぐもぐ礼を言って受け取った。
どこへ行くのかと訊けば、トーマス・ブラウンの目指す街、王都カルーシアに行くのだと言う。トーマス・ブラウンは肩を竦めて、年寄り猫を後に残して、とことこてくてく歩いて行った。
「おかしなおじいさんねえ」
「にゃあ、どうでしょう? まあ、その時は私もそうは思いましたよ」
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王都カルーシアで、暮らし始めたトーマス・ブラウン。
新しい街でもやっぱり気ままな黒猫。気ままな黒猫は自由で楽しい独りぼっち、寂しいことなんてこれっぽっちもなくて、故郷のことなんて思い出しもしない。
そういえば白猫から手紙が届いていたけど、後で読もうと机にしまい込み、そのまま忘れてしまっている。今日はレストランでディナー、明日は劇場でマチネー。手紙に挟まれた故郷の花は枯れて、楽しい毎日が過ぎていく。
「猫も観劇なぞするのか?」
「もちろん。猫とショー・ビスは切っても切れないものです」
「ブロードウェイでミュージカルに出演している友人がおりますよ、にゃお」
「ぶろーどうええ?」
さてさて、ある冬の朝のこと。
吐息が雲になって漂う、真っ当な猫であれば暖炉の前で、毛布にでも包まっているべき日のこと。
トーマス・ブラウンはいつかの、年寄りの黒猫と再び出会った。年寄り猫はこの雪の積もった寒い朝、コートも手袋もなしで凍えてた。トーマス・ブラウンは年寄り猫に訊ねた――爺さん、どうして上着を着ないんだ、と。
年寄り猫は答えた――上着は春に捨ててしまったのだ。と。
何だってそんなことをしたんだ?
『その時は暖かかったし、邪魔に思って捨てたのだ』
いずれまた、冬が来るとは考えなかったのか?
そうすると、老人はこう問い返した。
『お前は冬が来ることを、冬が来る前に、知っていると言うのか?』
そして年寄り猫は、黒猫の答えも待たずに行こうとする。トーマス・ブラウンは年寄り猫を呼び止めて、金貨を1枚差し出したけれど、年老いた猫はもう自分には要らないものだと言う。
トーマス・ブラウンは遠ざかる背中を見送りながら、年寄り猫の言ったことの意味を考えた。
しゃりん、しゃりんと雪が降る。ちりん、ちりんと降り積もる。いつか、どこかで、その音を聞かなかったろうか。ちりん、ちりんと降り積もるその音。
「何とも不思議な老人であるな。単なる愚か者でもないように思えるが」
「かわいそうなおじいちゃんだよ」
「にゃー、どうなのでしょうねえ」
「それも彼の望んだ“世界”にゃのかもしれません“にゃ”」
「それいらない」
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それからしばらくして、トーマス・ブラウンは教会の鐘で目を覚ました。ひとつ二つ、寝床で鐘の音を数えて、黒猫は今朝の鳴り方は弔いの鐘だと気づいた。
トーマス・ブラウンは家を出ると、何となく協会の方へ歩いて行った。黒い服に黒い靴、黒い尻尾のトーマス・ブラウン。黒猫いつもの正装は、改まった席にも打ってつけ。トーマス・ブラウン、訳もなく街を見下ろす教会へ行った。
葬儀はもう終わっていて、ひっそり静まり返った教会。トーマス・ブラウンは神父に訊ねた――誰が死んだのか、と。
神父は答えた――あの、変わり者の年寄り猫をご存知か、と。
トーマス・ブラウンは薄曇りの空の下、墓地へと足を運んだ。
あの、おかしな年寄り猫。黒猫は真新しい墓の前に立った。石みたいに偏屈な爺さんだったけど、とうとう石みたいに冷たくなっちまった。そこにはたった一人の嘆き哀しむ影もなく、たった一本の捧げられた花もなく、ただ気ままな黒猫が一匹立っているばかり。
トーマスブラウンは神父に訊ねた――あの年寄り猫には、家族や友人はいなかったのか、と。
神父は答えた――あの変わり者の年寄り猫は、若い頃に、家族も友人も捨ててしまったのだ、と。
『あの年寄り猫は、誰かを愛することも、誰かに愛されることも、面倒、窮屈、煩わしいと、家族も友人も捨ててしまったのだ』
『いずれ冬が来ることなど、考えもしないで……』
トーマス・ブラウンは、墓石に刻まれた名前を見下ろした。
【トーマス・ブラウン、ここに眠る。彼は自由で気ままな黒猫だった――……】
神父が首を傾げた。
『おや、そう言えば、あなたはあの年寄り猫と、同じ名前のようですな』
トーマス・ブラウンは、走り出した。
(私はまだ、間に合うのだろうか……?)
トーマス・ブラウンは走った。走って走って、どんどん走った。一度も立ち止まらずに、一度も振り返らずに。野を越えて、山を越えて、どんどん走ってると、日が沈み、また日が昇って。
ぴかぴかの長靴もいつか脱ぎ捨てて、コートの裾も綻びて、自慢の尻尾に草の実さえひっついたけど、トーマス・ブラウンは構わず走り続けた。
二日目の日が暮れる頃になって、ようやく故郷の町が見えてきた。
道の終わるところに、誰かが待っているのが見えてきた。
ちりん――……金の鈴が鳴る音が聞こえた。




