100.ガール・ミーツ・ガール
「いーてきまあーす!」
王都カルーシアの新市街、カイエン区で老婦人が営む下宿屋から、幼い少女の声が転がり出た。
続いて駆け出す声の主は……おっとっと、危ない。ちゃんと足元見ないと駄目だよ……柔らかな金色の髪、空に浮かぶ雲のような白い肌、光の加減で深紅にも薄朱にも見える瞳をした、歳は片手の指で足りるかどうかの幼い少女だ。
フリルをあしらったワンピースにエプロンを掛け、頭は家主の老婦人に整えてもらったのだろう、少し流行遅れの形にきれいに結われている。手にはお下がりのバスケット、ポケットにはお小遣いの銅貨、つまり少女はお大尽である。
少女の名は、ミシェル・マール・ブランシェという。
ミシェルは少し前に、とある名の知れた傭兵の家に、彼の妹として引き取られてきた。それ以前のミシェルは、たぶん孤児だったようだが、少女は“お兄ちゃん”の家に来るまでのことを全く覚えていない。
ただ、何となく、ずっと泣いていた、そんな記憶があるような気がした。
その代わり、お兄ちゃんの家に来た時のことは、おぼろげに覚えている。
ミシェルはお城の暗い部屋に閉じ込められていて、泣いていて、そうしたらお兄ちゃんがやって来て、巨人をやっつけて、竜をやっつけて、悪者をみんなやっつけて、暗いところからミシェルを助け出してくれた――……そんな記憶を。
まるでおとぎ話の、お姫様を助けに来た、白馬の王子様のように。
それは概ねのところで、真実だと言って良いだろう。
今日のミシェルのご予定は、お兄ちゃんのお友達のアーシャお姉ちゃんのお爺ちゃんのクリストフお爺ちゃんのお店に行くことだ。ちなみに昨日のご予定もそうだったし、たぶん明日のご予定もそうなっている。
ただし、昨日は「お留守番をするんだ」と、無理を言って一人で下宿で過ごした(けれど途中で寂しくなって、結局老婦人の部屋で寝た)から、今日はアーシャお姉ちゃんのお家にお泊りするかもしれない。
お兄ちゃんは、お仕事でしばらく家にいないのだ。
ミシェルはアーシャお姉ちゃんが大好きだった。きれいで、元気で、優しくて、ミシェルが思う二番目にいいことは、いつかアーシャお姉ちゃんがお兄ちゃんのお嫁さんになって、3人で家族になること……あ、クリストフお爺ちゃんも入れて、4人で家族になることだった。
もちろん一番いいことは、ミシェルがお兄ちゃんのお嫁さんになることだ。
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「これ……これ、そこな子ども」
後ろから声を掛けられて、ミシェルは立ち止まり、振り返った。人に“子ども”などと横柄に呼び掛けておきながら、その声の主もまた、十分に十分過ぎるほど“子ども”であった。
歳の頃は両手の指くらいに見えるから、ちょうどミシェルの倍はお姉さんだ。ミシェルにも負けない雪のように真っ白い肌をしていて、頬が紅を差したように赤い女の子。艶々とよく手入れされた黒髪はオン・ザ・眉毛ぱっつんで、その陰から生意気そうに釣り上がった、ミシェルと同じくらい赤い瞳が覗いている。
服装は華美ではないものの、見るからに上等な仕立てで、誰が見たって金持ちか貴族の子であることは一目瞭然だった。
「おねえちゃん、だあれ?」
こちら齢が片手の少女、相手の態度への反発も、身分身なりに身構えることも、まだない。つまるところ外側の飾りとは、それを気にする者だけに見えて、飾らない者の目には映らないもんだ。
幼女に誰何された少女は、両手を腰に当てると、真っ平らな胸をぐっと反らし、顎を斜め45°につんと上げて、
「わらわか――……?」
「わららはこの国の第三王女、プリンツェスィン・ブラネージュ・ロアーレ・アルカネット・オー・カルーシアじゃ。覚えておくが良い、子ど……あ」
高らかに名乗り上げたかと思うと、はっとして、青褪めて、俯いて――……
「……忘れてください……」
林檎のような頬っぺたをふるふると震わせた。
「言……言うてしもうた。タイヘンじゃ……近衛兵が言っておったのだ。もし外で王女と知れたら、わらわは悪漢に攫われて、外つ国に売られてしまうと……」
そう言うと少女は生まれたての子羊のような足取りで、幼女に歩み寄ると、
「娘よ、このことは~、このことはどうか内密にい~」
幼女はにっこり笑って答えた。
「おねえちゃんのおなまえ、ながすぎてわかんなかった!」
ブラネージュ姫殿下はぽかんとして、それからおもむろに“前傾”から“反り気味”に姿勢を戻した。
「ならば良い」
ただし幾分威厳が損なわれた自覚はある。
「おねえちゃんのおなまえは?」
「そ、そうだのう……」
少女が困って周りを見回すと、商家の軒先に、樽で詰まれた真っ赤な果実。
「レインガ……えーと、そのレイン、わら……私の名は、レインだ」
「レインおねえちゃん! あたしはミシェだよ」
お姫様はあんまりアドリブに強くなかった。
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さて、カルーシア第三王女ブラネージュ殿下改めレインお姉ちゃんは、気を取り直して幼女に上からの視線を合わせた。
「そうか。時にミシェとやら。この辺りにユマ・ビッグスロープという傭兵が住んでおるはずなのだが、そなた彼の家を知ってはおらぬか?」
「しってるよ。おねえちゃん、おにいちゃんにあいにきたの?」
ミシェルがそう答えると、レインは目をぱちくりさせた。
「お兄ちゃん……もしかして、ミシェはユマの妹御なのか?」
「そうだよっ。おにいちゃんはミシェのおにいちゃんで、ミシェはおにいちゃんのいもうと!」
ミシェルがそう答えると、大仰かつ優雅なに身振りで驚きを表現した。
「何ということ、偶然声を掛けたのがユマの妹だとは! 否、これはもう、運命の導きとしか思えぬ!」
天を仰いでガッツポーズ。ミシェルは黙って見ている。幸いそれを奇行と認識するには、ミシェルの人生には積み重ねが足りない。
「おねえちゃんは、おにいちゃんのおともだちなの?」
幼女がかくんと首を傾げると、少女はふんと鼻を鳴らした。
「ふん、友達だと? 笑止、わらわはいずれそなたの兄の主君となる者だ」
「あるじ」
「左様! ふはははは、あの名高きユマ・ビッグスロープを我が騎士として召し抱え、わらわを主君と仰がせることこそ我が大いなる野望ッ!」
「あらぁ、ミシェルちゃん。お姉さんに遊んでもらってるのぉ?」
荷物を抱えた恰幅のいいおかみさんが、ミシェルに手を振って通り掛かった。
「あー、パンのおばさん、こんにちはあ!」
「あ、こんにちはー……」
レインお姉ちゃんが下げた頭の、耳、首、頬は何だか超真っ赤っかでした。
パン屋の女主人が通り過ぎると、
「……という訳だ。ミシェよ、そなたの兄はいずれわらわに忠誠を誓うことになるのだぞ(予定)。判ったか」
レインお姉ちゃんは、打たれ弱く立ち直りが早い。ミシェルはまた、今度は反対側に首を傾げた。
「そうしたら、ミシェはおねえちゃんのおともだち?」
「何でそーなる」
「ちがうの? じゃあ、なにになるの?」
「そ……それはだな……」
「い、いいい、妹っ……?」
何でそーなる。レインお姉ちゃんは、また顔を真っ赤にしている。とかく心と頬っぺたに引火しやすい、松明か燐寸棒のようなお嬢さんだ。
「まあ、それは、その、ユマが我が騎士になるのであれば、そーゆー可能性もなきにしもあらず、ということだっ。それより、ミシェよ。今日はユマ・ビッグスロープは家にいるのか?」
ミシェルは左右に首を振った。
「いないよ。おにいちゃんは、いまはおしごとででかけているのです」
「夜には帰って来るか?」
「ううん。おにいちゃんは、とおくのまちでおしごとだから。しばらくかえってこられないの」
「何と……!」
ミシェルがまた首を振ると、レインはがっくりと肩を落とす。
「何ということだ。折角お目付け役の目を盗んで、城を抜け出して参ったというのに、家を空けるとは聞いてはおらぬ。ユマめ、一国の王女に対し、何と不敬で不誠実な態度であろうか……!」
ユマお兄ちゃんも、とんだ側杖で打たれているとは思うまい。
ミシェルは残念そうなお姉ちゃんを、ちょっと可哀そうに思っていた。
と、その時……
ちりん――……小さな鈴の音が聞こえた。
「あ、ねこさん!」
お姫様が顔を上げると、既に明後日の方向へ走り出していた。
「ちょ……おい、ミシェとやら! 第三王女を放ってどこへ参る……?」
思わずレインも、後を追って走り出してしまう。
猫を追いかけて、走る少女がとことこ……
幼い少女を追いかけて、走る少女がばたばた……
ユマお兄ちゃんを間に挟んで、女の子達はこうして出会ったのさ。




