08.緋色の記憶~ピジョン・ブラッド・クレム~
やがて丸めた拳が少女の目元から離れた時――……
気安げに微笑んでいた表情もまた、顔から拭い去られていた。
「るああ。真言は別にいい。行き来も構わねえ」
「持ち込み持ち出しも、だいたいは“次からするな”で赦す」
「けど、いっこだけ、ゴメンで済まない禁制品があってな」
コトレットさんの瞳がすっと、柘榴石から深紅玉に色を変えた。
「残念ながらお前、それもこっちの世界に持ち込んでんだ。それは――」
「なーふ。人間だよ」
深い深い瞳の色。俺はその色を知っている。
「異世界転移ってのさー、“世界”の理に因って起きるもんなんだ。お前さあ、真言が世界の上位に在るって、本当に思ってんの?」
「違うね。ありゃあ“世界”の理の内側で、“世界”の理を改編したような働きをするだけの魔法だ。そー見えるだけのな。なーふ。“世界”なんて、所詮たかが人間に弄れるもんじゃねーんだよ」
「いいか? 異世界転移はな、自然現象として起こるのと、自分から来ようとして来るの、この二つしか許されない。召喚するにしても、その気もねー人間を引っ張り込むのはご法度なんだよ」
「理解るよなあ? アタシが何の話をしているのかさあ」
理解る。それは血の色だ。どくどく流れる血液の色だ。
誰の? 俺の? それとも――
「なーふ。お前が異世界に引き込んで殺した、二人の話をしてるんだぜ?」
だから、そんな……その色の眼で俺を見るな……
その髪は、人知れず朽ちた骨の色。その頬は、埋葬の墓地の土の色。そしてその瞳の色は、咎を映す色は、罪が流した赤い、紅い、緋い血の色。
異世界監視人ルシウ・コトレットは、俺を断罪するために訪れた。
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頭が真っ白になるというやつだった。
それでいて汗だけがやたらと流れた。
この感覚には覚えがある……俺が捨ててきたはずだった……
(嫌だ、嫌だ、嫌だ……怖い、怖い、怖い……!)
半ば無意識に口が呟き始め、気づいて、詠唱を急ぐ。
「“真言の発動” “世界” “空間の構文” “改編”ッ!」
呪文が術式の態をなしていないが、パソコンで言えばアイコンをクリックじゃなくて直接コマンド入力するようなものだ、形振り構っていられない。
「るああ。やめときなって」
「“範囲空間” “現在の術式構文” “初期化”!」
「なーふ……“術式構文への干渉を破棄”」
少女が抑揚もなく呟くと、ぱんっ、俺の言霊が音を立てて破られた。
俺は背後に――素早さの数値も人外レベルに“設定”してある――跳び退ると、今度は指印も併せて、より強制力の高い術式を試みる。
「なーふ。ムダだって」
ルシウ・コトレットが指差すだけで、俺の集中させた魔力が雲散する。
駄目だ。敵わない。異世界監視人、俺のまやかしとは違う。世界を本当に服従させる力を持つのは、この少女なのだ。
(どうする……?)
「なーふ。どーもしなくていいんだって」
(何ができる……?)
「何もできねーぞ」
(誰か……クーシュ! コーナ!)
「誰もいねーし」
「るああ。お前は独りだし」
くっ……考えを纏めようとしても、黒頭巾の“言葉”に揺さぶられる。
「“世界に命じる” “火を” “この女を焼き払え”!」
「“熱を伴うことを許可しない”」
爆炎が走った。田園風景がさながら終末の様相を呈する、世界が朱に染まる。だが少女は、炎に巻かれ、赤銅色の頬を焼かれながらなお――
外套をはためかせ、スカートを翻して、にっと笑っていた。
ルシウ・コトレットがすっと右手を差し伸べ、横に払うと、炎は瞬時に彼女の背後に追いやられ、留まり燃え続けた。しかし草原も、木々も、少女の髪の毛一本たりと焼くどころか焦がしてもいない。
俺の炎は、“燃焼”の要素をすっぽりと奪われていた。少女が言霊を紡ぐ限り、俺は“世界”に何も影響することなく、ただ幻と踊るだけだ。
「るああ。なかなか良くできた術式じゃねーの」
少女は掌でぱたぱた顔を扇ぎながら、俺の独り相撲をそう評した。
「さすがに準備万端で異世界転生に臨んだだけのことあるな」
そう言われた瞬間、自分の中で、何かが軋む音を聞いた。
俺ほど異世界に行きたいと、望んでいた奴はいなかった。
俺は前の世界と異世界を等価交換した。
俺は自分から来ようとして、この世界に転生した。
俺は自分の意思で、異世界転生した。
自ら異世界“転生”した――……
映像記録のように、俺の記憶が再生された。
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真夜中に家を抜け出して。Tシャツを着て、下はジャージ履き。コンビニに立ち寄る気もしなくて。踏切でぼんやりと、電車を3本見送った。
手にしていたのは、使い込んだ一冊のノート。
それは“僕の考えた最強のスキル”。
誰にも会わなかった。誰かに会っていれば、何か変わっていただろうか。
夜の学校の、校門を乗り越えて、窓ガラスを割って、非常口の鍵を壊して。
真夜中の屋上に出たものの、都会の夜空に星なんか見える訳がなくて。
「ああ、こんなものか」
別にがっかりもしなかった。こんな世界に、こんな人生に、もう何ひとつ期待なんてしていなかったから。遺す言葉も何もなくて。遺したい相手も誰もいなくて。
俺はその夜、学校の屋上から、価値のないあの場所から、異世界に“転生”した。
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俺は、抗う気力さえ完全に喪失し、膝からくずおれた。
異世界監視人――褐色の肌と焦熱の瞳を持つ少女は、俺の虚脱を認めて、ゆっくりと近づいて来る。偽りの炎は、今なお二人を取り囲んで燃えている。引き延ばされて歪んだ少女の影が、幾重にも揺らぎ、踊る。
俺の脳裏に、忘れたはずの、捨てたはずの記憶がまざまざと蘇る。
それは俺の記憶ではない。大賢者シャルマ・ティラーノの記憶ではない。それは平野将の記憶だ。もう死んだ奴の記憶だ。
やめ、てくれ。
倒れているんだ。
蹲っているんだ。
泣いているんだ。
だからこれ以上、殴るのはやめてくれ。笑うのはやめてくれ。嗤うのはやめてくれ。俺が……俺がいったい何を(誰か、助けて)したんだ……
こっちの世界のみんなは、優しかったんだ――……
俺のことをすごいって言ってくれたんだ。
好きになってくれたんだ。
一緒にいてくれたんだ。
だから、もっと喜んで欲しかったんだ。
だから……なのに――……
ルシウ・コトレットが足を止めた。少女の顔は暗い陰の中だ。手を伸ばせば、俺に届く。もう逃げられない。
「うーぷす。だけど、能力の出来の良さが逆に首を絞めたなー。なまじ “扉”が完成しなけりゃ、こんなことにはならなかったかもしれねーのにさ」
炎を背景に、少女の表情は伺い知れない。いや、それは少女なのか――
「ま、そもそも不幸せから生まれた能力だ、何も生まなくても当然かもな」
俺の中でまた、ぎしぎしぎし、軋みが。記憶が再生する――……
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俺は、何が欲しかったのだろう。
あの日はたぶん、アイスかスナック菓子だった。賢者様とて、時には自分にご褒美を。おや、どちらまで? ちょっと、異世界まで。
コンビニで籠に……何を買ったっけ……自分にお菓子と、何かクーシュ達の喜びそうなものを放り込んで、レジに持って行って、それで終わりのはずだった。
自動ドアが開いて、あいつらが入ってこなかったら。
見返してやろうと思ったのかもしれない。異世界の俺はすごい魔法使いで、誰からも尊敬されていて、愛されていて。
ちょっとした仕返しのつもりだった気もする。今の俺は、もうお前らなんか足元にも及ばないんだぞって。だから、ほんの少し……
俺がやられたことの、何百分の一かでも、お前らに……
痛みを――……
深い考えがあった訳でもなく、俺はあいつらをカルーシアに連れ込んだ。
気がつけば、二人とも俺の足元で血と肉に変わっていた。
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黒い、少女のシルエットから声がする。
「なーふ。そっか。それでお前、ちょっと壊れちまったんだな」
おれが、壊れ? ぎしぎしぎし、音?
いや、違う。俺はこの世界で、クーシュやコーナが好きになってくれて、楽しくて、嬉しくて、だからあいつらなんて、俺がされてきたことを思えばあいつらなんて別に、こ、ろし、ても、この世界さえあれば俺は俺は俺は。
「るああ。お前の力は何も生まねえ。それに、何処にも行けねえ」
嘘だ嘘だ嘘だ。俺は何でもできる。行きたいところに行ける。元の世界でも異世界でも、好きなように好きなものを好きなだけ好きに好きに欲しい物を取っていいんだ。だって。奪われてばかりだったじゃないか、俺は。
「るああ。そうじゃないよ。そうじゃないんだよ、マサル」
少女の少女の形をした影カゲカゲが、くく首ををを、振ったったた。
「お前、元の世界に戻れていると思っているのかい?」
えあ? 元の世界……どこ? 元の……俺は。
「うーぷす。違うんだよ、マサル。カルーシアに二人を引き込んでからは、お前は元の世界に戻れていないんだ」
うー……あー……俺は、どこ? いつ……あー……
「お前は、お前自身で作った、“お前がいた世界に似た別の異世界”に転移しているんだ」
あー……異世界……あー……あー……
「るああ。それにお前は、最初のカルーシアにも戻れていない。転移するたび、お前の跳ぶ世界は少しずつズレている。一方通行なんだよ。その度に自分の望む世界を作ってさ、自分の望む誰かを作ってさ。そんなこと繰り返してさ……」
あー………………………………
「なーふ。お前は不幸な奴さ。お前ばかりが悪かったとは、アタシは言わないよ。けどさ、罪は罪、咎は咎。代償は支払わねーとな」
「マサル……終わりにすっか、なあ?」
……………………………………
「“ルシウ・コトレットの権限に於いて世界に命じる”」
「“シャルマ・ティラーノを復元せよ”」
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……――ずいぶんと、残酷なことをするんだな。
異世界監視人の言霊によって、目の前の曇りガラスが砕けるように、俺は逃げ込んだ心の内側から引きずり出された。俺は全てを暴かれ、思い出し、理解した。
俺は罪人だった。
俺は独りだった。
俺は何処にもいなかった。
もはやこの少女だけが、俺に残された最後の真実なのだろう。
「なーふ。お前が世界を転移する度、“世界”は際限なく増え、膨張している」
「その歪みは既に、この世界にまで及びつつある」
「異世界管理局は、この事態を見過ごす訳にはいかない」
少女がずっと手にしていた、巻いた皮紙の書簡、その封蝋がひとりでに溶けた。
上の端をコトレットさんの指に抓まれ、俺に突きつけられた書簡が、するすると開いていく。カルーシアで公用のエクリット文字。もちろん読み書きはできる。
それは“執行命令書”だ。
「るああ。タイラノ・マサルに告ぐ――」
「カルーシア地区異世界管理局出張所“執行人”ルシウ・コトレットの“権限”に於いて、現時刻を以て”異世界転移 “の”権利“を剥奪する――……」




