99.『どっちの世界』に生きたとしても
あれから、10年が過ぎた。
あたしはあの頃の、ソレラ・クララベルと同じ齢になった。
あたしは――こっちの“世界”に帰って来た。
そしてあの夜以来、あっちの“世界”に行くことはなかった。
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あの夜あたしが倒れたのは、心因性の疲労から来た発作だった……らしい。特に障りが残ることもなく、後になれば笑い話になる程度のものだった。
ちなみに“笑い”の主な部分を担ったのは、心配してくれたあまり泣き過ぎて、終いに目を回して、隣のベッドで共に一夜を明かしたらしい柚子ちゃんだった。今でも史緒さん、和音、柚子ちゃんと会うと、鉄板のネタだ。
「お前ら、いい加減しつけーぞー、10年も前のことをよー」
それぞれ何とか無事大人になって、幸い全員、スポーツ選手にはなれない程度に元気にやっている。けれど、顔を合わせれば猪ノ口病院の子どもの頃に戻る。とは言え、今では会うのは年に一度か二度くらい……
何もかもが過ぎて、良くも悪くも変わる――……
今あたしは、公立高校で社会の教鞭を執っている。とうとうこっちの”世界”でも先生と呼ばれる立場になったって訳だ。わはは。
病院と過ごした数年間、孤児院で過ごした数か月。その経験は、あたしに幾つかの“先生”への道を示した。
例えば、医者の“先生”。うーん、“魔女の薬草学”がこっちでも使えりゃあ、もうちょい考えたかも? 幼稚園とか小学校とか、それとも福祉施設の“先生”。これはすごく悩んだんだけど、ひとつ強い思いがあって、その道には進まなかった。
ある部分で“親の代わり”を演じる“先生”は、あの子達の先生だけにしておきたかったんだ。
自分がこっちの”世界”を選んだのか、あっちの“世界”から逃げたのか、それは今でも判らない。
こちらに戻ってすぐは、ずいぶんそのことを考えたけど、それからの人生で幾つも選択を繰り返して、“選ぶ”ってのには“プラスを拾う”と“マイナスを避ける”が入り混じるってこと知り、一概に白黒はっきりするもんじゃないんだと知った。
けど、訊いてみたいよ。あの人に、あたしは正しかったのかって。
あの夜以来、あたしがコトレットさんと会うことはなかった。
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あの銀色の髪、銅色の肌、宝石の目をした異国のおばーちゃんは、次の日も、そのまた次の日も、二度とあの裏庭の木陰のベンチ、あたし達の指定席に姿を現すことはなかった。
先生や看護師さん達に訊いても、コトレットさんを知っている人はいなかった。
史緒さん達に訊いても、コトレットさんを見掛けたことがある奴はいなかった。
そんな人は、猪ノ口病院に入院して――存在していなかった。
コトレットさんは、幻だったのだろうか……?
でもあたしは、あの人の手の温もりを覚えている。にっと白い歯を見せる笑顔を覚えている。信じられないような、ガーネットのような真っ赤な色の、その瞳を覚えている。
「るああ。スズさんなら、きっと大丈夫さ――……」
そう言ってくれたコトレットさんの声を、今でもはっきりと。
あたしは、コトレットさんはあっち側の人だったんじゃないかと思っている。或いは異世界監視人と名乗る、コトレットさんと同じ髪と目の色をした少女がいるの領域の。或いは……コトレットさんとあの少女は、同じ人だったのではないかと。
全ては遠い日の憶測に過ぎず、確かめるすべはない。
あたしに言えることは、あの短くも不思議な少女時代のいち時期に、コトレットさんは確かにいて、“異世界”は確かにあって……
マグニ、ナリ――……あの子達は確かにいた、ただそれだけだ。
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勤めている学校が、2学期も終わりに近づいたある日――……
廊下の窓から見える空も曇天で、こう冷える日の校舎は石造りのアプコ・オース砦を思い出させる。
(もうすぐクリスマスかあ……)
町も、テレビから流れる音楽も浮かれ浮足立って、終業式を控えた生徒達も糸の切れた風船のようだが、このあたしにはとんと浮いた話がないのは何でなんだぜ?
これが本当の“お独り様の鈴ちゃん”……って、やかましいわ。
そもそも、12月は“先生が走る”って書くんだ、忙しーんだよ、バーカ。
「あの……椋田先生?」
と、階段を上がって来る声に呼び止められた。知っている声、生徒ではない、大人の女性の声。つまり保護者。でもあたしは、その人の混乱した、憔悴した、悲しみに沈んだ声しか聞いたことがない。
「逢坂君のお母さん……」
振り向いたあたしに、生徒の母親が深々とお辞儀をした。
その生徒――逢坂悠馬は二ヶ月前、学校から忽然と姿を消した。
彼がいなくなったのが体育の授業中、教科書や弁当はおろか、制服すら残したまま、少年の行方は今日に至るまで手掛かりも知れない。
部活は剣道部、成績は中の上ってとこだけど、よりによって担任の教える社会だけがちょい悪い。目立って前に出るタイプじゃないけど、人の手が荷物で塞がってると、さりげにすっとドア開けてやるような奴だった。あたしは初めて顔見た時から、誰かに似てると思ってるんだけど、誰だっけなあ……
生徒達の間からは、「あいつ、異世界転移したんじゃないか」という、あたしとしちゃあ笑えねえ話も出てきている。
母親は担任として会うたび、顔に心労を深め、あたしにできることは根拠のない励ましと、逢阪が戻った時のためにあれこれ整えておくことぐらいで……
それは久しぶりに、アプコ・オースの夜の無力感を思い起こさせた。
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けれど、今日の彼女の声は、あたしの耳にはどこか晴れやかに響いた。
そして、これまでになく穏やかな顔をしていた。言うなれば、それは“納得のいく結末を迎えようとする人の顔”だ。あたしは、これと同じ表情を見たことがある。
(“雷神”トール……“悪神”ロキ――……)
「先生、聞いてください。あの子から……悠馬から手紙が届いたんです」
そう言って彼女が差し出したのは、不思議な手紙だった。封筒は羊皮紙か何かで出来ているようで、しかも封蝋なんてしてある。男子学生にしてはハンクラ的と言おうか、妙に小洒落たセンスの代物だ。しかも、切手が貼っていない。
うん……? あれ、この蝋に捺してある刻印、どこかで……
「先生、あの子は……どこか遠い世界にいるのだそうです」
心臓が、久しぶりに胸の中で跳ねた。遠い、“世界”だって?
「この手紙は、昨日訪ねて来た子が届けてくれたのです。魔法使いみたいな恰好の、赤い目をしたお人形のような女の子でした」
その言葉は、否応なく彼女を連想させる。
それってまさか、あの“お節介な異世界監視人”?
それとも……もしかして、コトレットさん、あなたなのか……?
あたしは恐る恐る、逢阪の手紙を受け取った。
「先生、あの子の手紙には、何と言うか、漫画かゲームのようなことが書いてあって、私には何のことか半分も理解りません。ただ、あの子は遠い世界にいて、元気に暮らしていて……」
その封筒を手に取って、ざらっとした皮の感触に、あたしの記憶が甦る。
「もう、二度と戻って来ることはないのだと」
そうだ、あたしはこの刻印をした手紙を、以前に受け取ったことがあるんだ。
『急ぎではないのですが、この手紙を、こちらから出しては頂けませんか』
あの傭兵――妹思いのお兄ちゃん、あの人が――……
逢坂悠馬、お前、カルーシアに行ってたのか……!
こっちとあっちの“世界”では、時間の繋がりも、流れ方もデタラメだ。あっちとこっちで浦島太郎、あの病弱だった少女は10年の時を超えて、“異世界”に消えた教え子と出会っていた……あたしはあの時の未来、現在のカルーシアに“転移”していたってことなのか……
しかも、逢坂悠馬のあの堂に入った傭兵っぷりからすると、あたしと出会ったのは、今よりまだ少し先のあっちの彼なのだろうと思われる。いずれにせよ……
逢阪、お前は、そっちを選んでしまったのかよ……?
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逢坂のお母さんは、少し陰りのある微笑みを浮かべた。あたしは知ってる、それは痛みを堪えて笑う顔だ。あたしは子どもの頃に、そうやって笑う親達を何人も見てきた。それは喪失を受け入れた、悲しくも、気高い母親の顔だ。
「なぜでしょう――……突拍子もない話なのに、私には判るんです、あの子の書いて寄越したことは本当なのだと。あの子はどこか遠い“世界”に行ってしまって、でも、元気にしているのだと。おかしいと思われるでしょうが……」
「いいえ、思いません」
あたしは頭を振った。
「きっと、“お母さん”だから、ですよ」
あたしがそう言うと、彼女ははっとして顔をして、
「そう……かもしれません」
ちょっと困惑したように笑う。
「なぜなのでしょう。この親でも信じられないようなお話が、椋田先生にはご理解頂けると、なぜかそんな気がして……」
言葉が切れて、二人とも、見るともなく窓の外へ目を向ける。
「あ……」
「雪――……」
いつのまにか、雪が降り始めていた。
性悪な冬の女王様――アプコ・オースの吹雪とは比べるべくもないけど、あたしはひらひらと舞う雪に、マグニ、ナリ、孤児院の子ども達、そして逢坂悠馬の顔を思い浮かべる。逢坂のお母さんが、窓に手を当て、呟いた。
「きれいですね……雪は、寒いけど、とてもきれい……」
あたしは思わずこう返していた。
「何事も、“グラスに半分の葡萄酒”なんですよ――……」
彼女が問いたげに微笑んで首を傾げた。
「“きれいだけど寒い”、じゃなくて、“寒いけどきれい”だって、笑って歩いていくしかないんです。何があっても、どこにいたって」
あたしは笑い返した。いつもの生徒や父兄向けの”天使の猫被り“ではなく、にっと歯を見せる、あたしの特別な笑い方。
「逢坂さん、この手紙を拝見させてください。それで、もしお時間がおありだったら――……ひとつ私の子どもの頃のお話をお聞きくださいませんか?」
「私が逢坂さんのお話も、悠馬君の話も、全て信じられる理由を……」
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結局あたしは、折角“異世界転移”を経験していながら、このありふれた、つまんない世界で生きることを選んでしまった。
今でも時々、いやずっとかな、あたしの選択は正しかったのかどーか、疑問に思ったり後悔したりしながら、あたしはこっちで生きている。絶対に答えの出ない問いだとは、理解っている。たぶんあっちに残ったって、あたしは同じよーに首を捻り、不平を漏らして生きていくんだ。
ただひとつ、願い事がかなうなら、もう一度コトレットさんに会いたいな。
もし会えるなら、問い詰めてやるんだ。本当は、どっちの“世界”が正解だったんだよって、半分こにした肉まんを差し出しながら。
でも……訊く前から、答えは判ってるんだけどね。コトレットさんは、白い歯を見せて、にっと笑ってこういうのさ。
それもまた――……“グラスに半分の葡萄酒”さ、ってね。
~“葡萄酒はグラス半分”・完~




